せかいのわらいあい
「以前にも文字に現したが。あなたをあなたというとき、せかいにいるすべての”私”を指している。なぜなら、私とはひとつしかないからね」
『あのひとも私なら、私も私。私が考えることは全宇宙が考えること・・』
「そう。だが、重く受け止める必要はまったくないよ。しかしこのせかいの主役はあなたであり、他の者は脇役。同時にその脇役もまた主役である。かつ。あなたが毎日見ているあなたのせかいにはあなたしか存在していない」
『ではもし。私が苦しんでいるときは。世界で私だけが苦しんでいる?』
「辛いトキ。怒るトキ。苦しいトキ。楽しいトキ。歓びのトキ。よくよく考えてみるといい。あなただけである。あなただけが。その感情を感じて苦しんだり、楽しんだりしていないかね。これは現世とよばれる鏡世にいる誰もが経験していることだ」
『でも。例えばお食事会やパンティー・・あ、いえ。パーティーなどで心から笑い合うとき。あの人もこの人も、私もみんな一緒に楽しんでいるのではありませんか』
「それはどこで起きているかね?」
『え?』
「あなたの中で起きているはずだ」
『・・・』
「何度でも考えてごらん。あなたの鏡にあるすべて。それがせかいである。あなたがそこにいなければ。このせかいはない。よって。せかいの主役であり、救世主とはあなたのことだよ」
『わ、私が世界の救世主!?』
「旧約聖書の救世主、つまりメシ屋とは、ほかの誰でもないあなたのことだからね」
『メシ屋でなく、メシヤ(メシア)です!!って・・聖書ではイエスが救世主と』
「イエスだけが救世主であり、主役なら。とっくにせかいは救われているのではないかね。彼が神で救世主というなら。せかいを救うのに二千年以上もかかるのかい?偉大なる神のチカラで戦争や貧困などとっくになくなっているだろう。そのような何もしない神など存在するはずがない」
『・・・。ちょ💦ちょっと待ってください。確か以前。目覚めた者は世界のどこにも存在し、同時に世界のどこにも存在しないと』
「在る。神を外側に置いても探求はおわらない。しかしながら。すべてを神の顕れとするならそうだろう。在る。呼ばず。話さず。考えず。ただ在る。あなたがイエスやブッダのところに帰るなら。すべての答えであり唯一の真実に帰るなら。方法なき方法”在る”がしることであり、終わりである」
『そこに命が?御霊が?愛が?至福が?平和が?意識が?存在が?自由が?聖なる自己認識が?』
「実在はひとつ。なぜ神のみわざか。在ることにより、己をしるといい。ほんとうのあなたはそこにしかいないのだから」
『さとれますか?私は・・』
「無意識ではだれもがさとっているよ。在ることでせかいに癒しは広がる」
『世界に??』
「さきほど文字に現した”私”の御業をもう忘れたかい?」
『・・ハッ!🫥主役を演じることができながらすべては救われており、私とは世界にひとつだけ!!✨』
「だれかに何かを伝えるまえに。このように自問してみるとどうだろう」
『?』
「これから目の前の人に伝えるこの言葉は。実は、わたし自身に伝えるべき言葉ではないか」
『・・・・・』
「きっとあなたは気づくだろう。鏡の世とは。現世とは。たしかにひとつの私しかいない、と」
『!!・・心についた観念が落ち。聖心が顔をだす・・それは空のこころ、空のせかい』
「理解したなら。観念に気づきながら軽くなるといい。恩寵があなたの重荷を取り払う。あなたではない。その実体のない観念を解除するには。在るがもっともいいだろう。そして。いつかあなたはこのように云う」
『あ、あ・・』
「奇跡の。宇宙最高のメシ屋は、私だったと」
『そのときには真のパンティー・・あ、いえ。真のパーティーでせかいが歓喜するわけですね💖』
「パンティーで締めるんじゃない!😅🤣🤣」
せかいを観て。
自分を知っていくことは。
鏡を観ることである。
他者を観て。
事象を観て。
現れを観て。
それでいい。
また。
在ることで。
つまり。
観ることを停止して。
己の存在そのものに。
留まることもまた。
鏡をきれいにして。
真我をしることにつながるだろう。
あなたが知ることはできない。
思考は過去だから。
なにも必要ない。
ただ在る。
気づき。
だけになる。
至福。
だけになる。
あい。
だけになる。
それが。
あなただ。
聖心を認識すれば。
そのトキには。
いまここでは。
せかいという鏡を見ても。
あなたは真実の顔だけを見ることができる。
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あなたにいつも拈華微笑💖