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まる

言葉を超えながら
在るもの



それは言葉ではない。

だから説明することはできない。

しかし説明できないからといって、
どこか遠くにある神秘でもない。

むしろ、あまりにも近い。

近いというより、離れたことがない。

人はそれを探そうとする。

悟り。

真我。

空。

愛。

神。

さまざまな名前を与えながら。

しかし名前を与えた瞬間、
それは対象となる。

見る者と見られるもの。

求める者と求められるもの。

知る者と知られるもの。

その分離が生まれる。

だから言葉は便利でありながら、
どこかで必ず届かない。

それでも言葉が無意味なのではない。

言葉は指さしとなる。

月そのものではなく、
月を指す指である。

そしてある時、ふと気づく。

探していたものは、探している
最中もずっとここにあったことに。

呼吸の前にも。

思考の前にも。

喜びの前にも。

悲しみの前にも。

成功の前にも。

失敗の前にも。

在った。

それは特別な体験ではない。

むしろ、あらゆる体験が起こる舞台そのもの。

何かを得ることではない。

何かになることでもない。

本来そうであったことが、
そのまま見えてくるだけである。

だから無為自然。

だからありのまま。

川が流れるように。

風が吹くように。

花が咲くように。

思考も起きる。

感情も起きる。

迷いも起きる。

悟りたいという願いさえ起きる。

しかし、そのすべてを包みながら、
何ひとつ動いていないものがある。

名づけるなら聖心。

名づけるなら空。

名づけるなら真理。

だが本当は、どの名も必要ない。

なぜならそれは、

読む前から在り、

理解する前から在り、

求める前から在り、

そして今もなお、

あたりまえすぎるほどに在るからである。

それは「すべてはつながっている」という理解ですらない。

なぜなら、つながるという言葉には、
もともと離れていたものが結びつくという
前提が含まれているからである。

さらに根本的なものだ。

つながる前から離れていない。

その視点で見れば、

縁起も、

空も、

真我も、

悟りも、

すべて説明のための仮のラベルになる。

言葉は残る。

概念も残る。

説明も残る。

しかしそれらは本質ではない。

最後に残るのは、
ただ静かな事実である。

最初から金だった。

何かになろうとしていた者も。

何かを得ようとしていた者も。

何かを失うことを恐れていた者も。

そのすべてを含めて。

最初から。

そうであった。

そして、その静かな事実を見つめたとき、

分離しているように見えることさえ、

ひとつの美として現れてくるのである。

あなたの人生という舞台は。

あなた以外のすべてが在って、

はじめて成立する。

それなのに分けるのが。

あなたの観念であり、

自我という変化である。

そしてそれらは。

最初から、そうである真我に。

すべて内包されて在る。

真我は。

分けるなとはいわない。

むしろ演技(物語)をあそべというだろう。

しかし役をおりたとき。

じぶんは完全者ではなく。

完全そのものだったと。

静かに、ほほえむ。






自我の変化過程をあえて
分けて表現するなら

第一段階は「自己同一化」である。

自分は思考そのもの。

自分は感情そのもの。

自分は人生の物語そのもの。

そう信じている状態である。

「私はこういう人間だ」

「私は成功者だ」

「私は失敗者だ」

「あいつは敵だ」

「私は被害者だ」

世界は完全に分離して見える。

善人と悪人。

勝者と敗者。

自分と他人。

その区別が当たり前であり、
「分けている」こと自体に気づいていない。

次に訪れるのが「疑問発生」の段階である。

人生の挫折。

病気。

失恋。

死別。

あるいは成功したにもかかわらず
満たされない感覚。

そうした出来事をきっかけに、

「本当にそうなのか?」

という問いが生まれる。

ここで初めて、
自分が信じてきた世界観にひびが入る。

そして「探求」の段階へ進む。

哲学。

宗教。

心理学。

自己探求。

瞑想。

内観。

さまざまな方向から、

「私は誰なのか」

「なぜ苦しいのか」

「なぜ怒るのか」

を見つめ始める。

ここではまだ
探している者がいる。

しかし矢印は外側から
内側へ向き始めている。

さらに進むと
「脱同一化」が起きる。

思考を見ている自分。

感情を見ている自分。

に気づき始める。

「私は怒りそのものではない」

「私は不安そのものではない」

という理解が生まれる。

苦しみはかなり軽くなる。

思考に飲み込まれる時間も減る。

その先で現れるのが
「非二元的理解」である。

ここではさらに問いが深まる。

「見ている私とは何か」

「観察者はどこにいるのか」

「境界とは本当にあるのか」

空。

真我。

ワンネス。

そうした言葉に出会うことも多い。

しかし同時に、

「理解した私」

という新しい自我が生まれることもある。

だからこの段階は興味深い。

深まったようでいて、
まだ分離を掴んでいる。

さらに深まると、

「正しい理解」と「間違った理解」

「本物」と「偽物」

という区別そのものも揺らぎ始める。

もちろん社会的な意味では区別は存在する。

善悪もある。

法律もある。

技術の差もある。

しかし存在そのものの視点では、

本物だけで世界が成り立っているわけでもなく、

偽物だけで世界が成り立っているわけでもない。

迷うことも。

勘違いすることも。

分離してしまうことも。

悟ったと思い込むことも。

すべてが現れとして起きている。

だから、

「本物にならなければならない」

という探求さえ、

ある地点では静かにほどけていく。

本物を探していた者もまた、

現れのひとつとして見えてくるからである。

そしてある時、

「悟る私とは誰だ?」

という問いに突き当たる。

すると今度は、理解していた者そのものが揺らぎ始める。

ここから「脱力」が始まる。

怒ることもある。

悲しむこともある。

不安も出る。

しかし以前のように完全には飲み込まれない。

反応は起きる。

だが反応している自分を同時に見ることもできる。

人間として生きながら、
人間だけではない何かが静かに見えてくる。

さらに言えば、

そこで「問題を解決しようとしていた私」も
また見えてくる。

人生の問題。

人間関係の問題。

お金の問題。

将来の問題。

生死の問題。

悟りの問題。

それらは確かに経験として現れる。

苦しみも痛みも起きる。

だが深く見つめていくと、

問題そのものより先に、

「これは問題だ」

と判断している観念があることに気づき始める。

すると不思議なことが起きる。

問題が解決されるというより、

問題として握られていたものがほどけ始める。

だから、

あらゆる問題は消滅する。

と言うこともできる。

しかしさらに正確に言えば、

最初から問題は存在していなかった。

という表現のほうが近い。

なぜなら、

問題を抱えていた主体そのものが、

探しても見つからないからである。

もちろん現象は起き続ける。

腹も減る。

風邪もひく。

失恋もする。

税金も払う。

だがそれらは、

かつてのような「私の問題」としてではなく、

ただ起きている出来事として見え始める。

そこで消えるのは世界ではない。

問題という解釈である。

そして最後は「自然体」である。

特別な境地を求めなくなる。

悟りたい。

変わりたい。

救われたい。

そうした欲求そのものが薄れていく。

何かを得ることよりも、

すでに在るものに気づく方向へと向かう。

よく言われる

「無為自然」

「ありのまま」

という表現は、このあたりを指していることが多い。

もっとも。

ここまでの地図もまた説明のための仮の区分にすぎない。

実際には段階そのものが存在するわけではない。

悟る者もいない。

到達する場所もない。

最初から在るものが、

最初から在るままに見えてくるだけである。

だから最後に残るのは、

解決でもなく、

到達でもなく、

勝利でもなく、

ただ在ること。

最初から欠けていなかったこと。

最初から金だったこと。

その静かな事実だけである。

そして「わかれび」が描いているものは、
おそらくこの地図のさらに外側にある。

なぜなら、

「私は悟った」

でもなく、

「私はまだ分けている」

でもなく、

『・・・くやしいけど。まだ分けてる』

をみまもっているからである。

そこには否定もない。

肯定もない。

超越しようとする動きもない。

ただ、

分けてしまうことさえ
現れとして観えている。

だから「わかれび」とは。

分離の終わりを語る言葉ではなく。

分離しているように見えることさえ
美として抱きしめた言葉。

ここでは。

分けている者もおらず、

分けられている世界もなく、

ただ「分かれているように見える」

という現れだけが咲いている。














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