いとしきわかれしもの
『あなたとわたし。宇宙とわたし。花とわたし。みんなとわたし・・』
「幻想せかいのオハナシかね」
『ええ。いつのまにか決めつけてますね💦対象なんて存在しないのに』
「ランチを食べなければならない、というのもいつの間にかあなたが掴んだルールだったりね。あなたと食事にも境界はない。もう食べてる。たとえお腹がすいてもそれはあなたでなく、あなたの身体が自動ですかしている」
『おれが稼いだ金だ、とか、私がやっている、とか😂』
「いっさい否定できないが、その固有の”なにか”という観念は実在しない。ちなみにそれを理解するとあなたは何も言わなくなる。またそのころには。すべてをあいで包んでいるだろうね。自己をあいすることと同じだから」
『幻想せかいを否定することはじぶんを否定することと等しくおなじ?』
「そうだね。対象がなんであれ。そうだとしかいえない。また真実を生きるなら。幻想せかいの住人のままではいけない。しかしながら幻想せかいのおかげで。”あなたとはなにか?”を理解することが可能となる」
『ありのまま。すべてであり、空(ひとつ)✨』
「俗にいう悟りの一瞥とは。それを一瞥しただけでは境地のように感じるかもしれないが。神秘的な体験がなんであれ。あなたがなにものか?の聖なる自己認識が起きなければ、それは知識にすぎない。在る、無為自然、無境界とはそこに”我”はないからね。そこに個人がいるならそれは幻想である」
『だれもがデフォルトでまったく不足のないそこ(空)に在るのに。なぜ、自我(色)を自分だと?』
「個人はどうしても存在していたいからね」
『・・なるほど。どこにも分離はないのに、分離していたい💗』
「いとおしいであろう。そのすべてがあなたなのだから」
『黄泉(天国)から、すなわち霊からみる(観照)。視点が完全に変わりますね🎵』
「現象の変化をほほえみながら観るもの。者でもない″それ″は。自然そのものである」
『よみかえり😆』
『世に知れわたる聖人賢者たちは、個でもありながら霊止(ひと)とは全でもある、と。真実のせかいには個人はいない、と理解していたのですね』
「そうだね。だからこそ。聖典教典として残しても伝わりにくい。観念からどうしても。現象に”自分とほかのもの”というような。幻想を現わしてしまうからね。人間と動物、人間と植物、人間と建物、私と私ではないもの・・などなど。境界なきせかいにいながら自我(思考や身体)は境界を好む」
『観念ないところ。決めつけのないところ。見渡せば。まんなかにあれば。そこにはもう、ぜんぶ在るのに』
「霧のごとき。自我(思考)追うもの。一部しかみえず。晴れのごとき。真我(無)追うもの。あいしかみえず。ゆえにあい追うもの。そこにはなき。ゆえ。まよう者なき。ゆえ。全あいなり。ただ。あなた在り」
『すべての存在は真我にあり。個と全の違いは表現できない・・』
「黄泉のせかいとも境界はない。霊止(ひと)の名のごとく。実体はすでに霊(絶対意識)であり、ひとつだけが真実だ。それ以外は幻想である」
『細胞や身体は自動で・・とは理解してましたが。思考さんまで自動で起きているとはもはや、あい💖』
「通常の人間は真実をしらない、ということをしらずに生きている。自然に起こるそれらに巻き込まれることなく。まんなかでほほえみ続けるといい。ここからはあなたがなにもしなくても。安らかなまま成し遂げられるから」
あなたが目覚めるのではない
個人的なあなたが
特別な何かになるのではない
観念がおち
すなわち
けがれがおち
ほんらいのあなたに
もどるのである
じっそうは
もどるわけでもなく
ずっと
そこに
在ったのである
すべてであり
ひとつの
あなたが
ぜんあい
そのとき
あなただけでなく
だれもが
ばんぶつが
そのけがれなき
″それ″であると
しることになるだろう
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あなたにいつも拈華微笑💖