他人の人生を変えるのが怖かった
中1で演劇部に入ってからというもの、お芝居、被写体、メイドさん、アイドルと、ざっくり人前に出るようなこと、「表現」みたいなものを気付けば気付けば14年も続けていました。
抽象的な意味で、私は12歳の頃から「舞台」に立ってきたということです。
表現や舞台に魅了され、囚われ、突き動かされ、狂わされた自覚を持って、
私は去る3月、14年ぶりに舞台を降りました。
社会人になって約2ヶ月、小さく弱いものたちに仕える日々は目まぐるしくて、そんな日々の中で思い出したことがあります。
私はずっと、他人の人生を変えてしまうのが怖かった。
自分の存在が、行動が、自分でない誰かの人生に手を加えてしまうことがとても怖くて、だから私はずっと、他人と距離をとって舞台の上に逃げていました。
人生を変えること、極端に言えば生殺与奪の権を握ってしまうこと、もう少し小さいことで言えば、家とか車とかとても高額なものを売ることとか。
受験生相手に塾講師のバイトを片手間にこなす大学の同期がとても怖かったです。
いつの間にか私は舞台や表現にのめり込んでいるエセ芸術家気取りになっていたけれど、それは違いました。
私は、しょせん、娯楽、鑑賞物でありたかっただけなのです。
あってもなくてもいいもの、いつ登場していつ退場してもいい人物、欲しい時だけ摂取できる嗜好品。
しかし、そもそもひととひとというものは影響を相互に与え合うものであって、此岸には、否、それどころか彼岸にも、くまなく逃げ場なんてない。
たった一瞬でもこの世に存在し、誰かにその存在を認識された時点で、「他人の人生を変えない人生」なんてあり得ないのだ。
けれど私はどうしてか、他人の人生を変えてしまうことが極端に怖かった。
私を前に「どこで間違えちゃったんだろう」とため息をつく母を見た時からかも知れないし、もっと前からかも知れない。
私がその人の人生に登場することでその人の本来の人生から外れさせてしまって、本来より不幸にしてしまったらどうしよう。
どう責任を取ったらいいんだろう。
きっと、己に対するどうしようもない負のイメージが、ヤマアラシのジレンマなんて言葉を知るずっと前から私を他人から遠ざけていたのだろう。
そんなおよそ現実的でない思春期的な逃避の先が薄暗い自分の部屋でなく眩く照らされた舞台で、そしてそれが14年も続いてしまったというのは、きっとちょっと私の特異なところだ。
アイドルはよく「笑顔にしたい」、「見つけて欲しい」、「支えになりたい」、「もっと大きなステージに連れて行きたい」なんて言う。
「自分を変えたくて」なんて同様に定番のセリフとは裏腹に、アイドルが抱くのはどれもこれも他人の人生に変容を加える欲求だ。
これが、「アイドル」というものの一つの大きな矛盾であり、業の深さなのかも知れない。
かく言う私も、「誰かを救いたい」なんて思っていた。
誰の人生にも触れずに、どうにか交わしながら逃げながら、社会的動物であることさえ放棄して、おもちゃか美術品か、とにかく舞台に飾られたモノになりたかったはずなのに。
きっと昔の私がそれを知ったら、失望するか呆れるか、軽蔑するだろう。
添い遂げられもしなければ責任も取れないくせに人生を変えさせて欲しいなんて、流石に虫が良すぎる。
どこで変わってしまったんだろう。
なんて書いてみるけれど、どうしたってそれは明らかに、地下アイドルになった時だった。
鑑賞されて遊ばれて愛でられて飽きれば捨てられる人形、それこそ余程「偶像」=アイドル なのに、幾つもの舞台を渡り歩いた私は、アイドルになって初めて、偶像への憧憬を捨てた。
アイドルになった日、私は「誰かの救いになりたい」と言った。
1歳児検診にて「目が合わない」と要指導をくらった私が、舞台に飾られた偶像になりたかった私が、双方向的な関係を望んだ瞬間だった。
しかし、双方向的なやり取りの基本というのは、視線を合わせることから始まるものである。
(だからこそ、乳児期から自然と目が合うということがヒトを社会的動物たらしめており、検診の項目にもあるわけです。)
今だってそう。
大人になった私は子どもと話すときはちゃんとかがみ込んで視線を合わせる。
だから、ということは、そもそも舞台の上から双方向的な関係を望むのって、おかしいんじゃないか。
自分は一段上から、たとえ視線だけ合わせたって、舞台と客席の間にある境界線を超えた瞬間それは「まなざし」から「レス」に変換されてしまう。
そのやりとりは均衡で左右対称なものではない。
眩しく照らされた一段高いステージと、暗く一段低いフロアとで、果たして私たちは「救う」「救われる」という双方向的な関係を築くことができるのだろうか。
私たちは一方的に勝手に救って救っているつもりになって、私たちは一方的に勝手に救われて救われているつもりになっているだけなのかもしれない。
それは虚しい営みだろうか。
虚しいかどうかはきっとステージを降りたとき、フロアから去ったときに分かるのだろう。
これは、ステージから降りた私はというたった一人の考えでしかないけれど、
ただお互いまっすぐ前を見つめていれば合うはずのない視線をわざわざ合わせ、眩しいステージライトや立ちこめるスモークに負けじと目を凝らして、絶対的な境界線を超えて、偶像と鑑賞者は何故か双方向的な関係を求める。
どうしたって、深い深い業だと思う。
そして、深い深い、人間らしさなのかもしれない、と思う。
看取りあえない私たちは、同じ十字架を背負ってライブハウスで人生を交わらせ、目を合わせ、救いあう。
美しくなんてない。
どちらかといえばグロいと言ってもいい。
でもそのグロさが、苦味が、愛おしかったりする。
