92’ナゴヤ・アンダーグラウンド(4)「約束の橋」
第四話「約束の橋」(1993年 春)
岐阜市の柳ヶ瀬商店街は名古屋の大須と並び称された商業地区だったが、近年は、衰亡する地方商店街の例に漏れずシャッターを下ろした店が目立った。
開いている店の中にも、仕舞い忘れた正月用の飾りが店頭の隅で埃をかぶっているようなところもある。
「アーケードのせいなのかなあ、こっちの寒さはやっぱりきびしいですね」と山村が言った。
アーケードが通りの空を覆い、暖かいであろう日差しを遮っていた。代わりに蛍光灯の薄い明かりが寒々とした光を通りに落としている。
「もともと木曽川越えると三度ぐらい気温低いみたいだぜ」と久利。
「もう二月も半ばですよ」
「春は名のみの風の寒さや、ってやつだな」
「なんですか、それ」
「あれ、音楽の授業でやらなかった?
早春賦って歌の歌詞だよ」
「知らないっすよ、そんな古風な歌」
大して歳違わないのになと、久利は苦笑い。
アーケードの下、二人が向かっていたのは、岐阜市議選候補、畑中さゆりの選挙事務所だった。
「うちで岐阜の選挙戦広告取材するとは思いませんでしたよ」とこぼす山村に、
「金津園のソープ街や西柳ヶ瀬の飲み屋街ってうちのお客だろう?
だから柳ヶ瀬商店街にもうちの出先がある。そこでアド中部エージェンシーの助っ人としてかり出されるわけよ」と久利。
選挙広告は新聞広告の掲載回数が「国政選挙の場合は五回、市議選の場合は二回」というように、公選法で決められている。
今回の岐阜市議選の場合、地元の岐阜日々新報とブロック紙中部新聞の岐阜版が法定回数の中で広告を取り合う形になる。
中部新聞系列のアド中部エージェンシーだけでは足りずに、サブ代理店のアドプランニング・遊の営業もかり出されるのである。
今回、アド遊の岐阜営業所に名古屋から助っ人として派遣されたのが山村と久利だった。
山村は選挙広告初体験、今年の参院選に立候補するパパイヤ共済理事長・大友達彦の選挙広告の予行練習としての意味もあった。
大友理事長は、昨年末に前進党の比例枠を獲得していた。
畑中さゆりの選挙事務所は商店街の北の外れにあった。
入り口横に大きな写真があり華やかな笑顔の美女が微笑んでいる。畑中さゆり本人である。
閉店した大型洋装店の店を利用しているのだろう。店に残る華やいだ雰囲気が写真に彩りを添えている。三十代半ばであろうか。
「美人ですねえ」と声を潜めて山村が感嘆した。
「昨年までテレビ岐阜のアナウンサーとして、地元の顔だったそうだ」と久利。
事務所開設から間がないためか、まだ人も少ない。
「ごめんください」と声をかけると、候補者本人が現れて、
「どうぞ」と答えた。
にこやかな笑顔が印象的だ。写真通りの若さである。
「このたびは、ご出馬おめでとうございます」と頭を下げた後、
「選挙広告のご案内に伺いました」と切り出した。
「そういえば、さっき岐日さんの営業も来てたわ」
さすが地元紙、動きが速い。
「もうお決めになられましたか?」と久利が聞くと、
「まだです。でもあちらは名簿お渡ししますって言ってくれて、迷ってるの」と微笑んだ。
名簿とは電話運動のための元になる名簿で、地元学校の卒業生名簿や商店街や自治会などの名簿などだ。
言外に、お宅は何をしてくれるの? とでも言いたげだ。
こちらには、手持ちの駒など何もない。名簿どころか、アド遊は社員全員が愛知県民で岐阜には人脈すらない。第一、彼女のいたテレビ岐阜の親会社が岐阜日々新報社であった。
地の利のないアド遊、どう戦えというのだと、山村は早々に、もうお手上げだ的な表情を浮かべている。
久利は苦笑いのような表情を浮かべると、
「そうですか、こちらではまだそんな営業されてるんですね」と少し驚きを込めて呆れたような眼差しで言った。
「え?」とでも言うような怪訝な表情になった美女に、
「候補者先生を名簿で釣ろうなんて、失礼な話じゃないですか」と同意を求めるように微笑むと、さゆりも、
「ま、まあ、そうかも」と言った。
予想外の久利の言葉に戸惑っているのがわかる。戸惑っているのは山村も同様だった。
「名古屋でも十年ぐらい前までは、そのような営業が跋扈してましたけど、
今はそのような営業したら新聞社から怒られますよ」と名古屋というワードにさりげなく力を込めた。
ほお、という顔の候補者に久利はたたみかける。
「先生のようにお若い候補者は、従来のような慣習に捕らわれた選挙運動だと苦労されますでしょう?」と聞いた。
はっとした表情を浮かべると、
「そうなのよ、」とさゆりは口を開いた。
立候補を決めてから事前準備で体験した理不尽な扱いを語り始めた。
マドンナ候補と持ち上げられても、それは女性候補を一段低く見る意識の裏返しで、高齢の先輩市議たちからはセクハラまがいの扱いもある。
テレビのアナウンサーという抜群の知名度と美貌に対する嫉妬は、味方であるべき女性政治家からも感じるという。
部外者である久利にだからこそ聞かせられる話だった。
うんうんと頷いては、「それは大変ですねえ」とか「お察しします」と聞いている久利に、畑中さゆり候補の距離がぐんと近づいたのが感じられた。
結局、久利は広告扱いを獲得し原稿のラフまで制作した。その上で公示の当日、選管事務所で掲載証明をいただく段取りまで決めてしまったのだ。
事務所を出てアドプランニング・遊の岐阜営業所へ向かう道すがら山村が感心したように言った。
「名古屋と岐阜では営業が違うんですね」
久利はにやりと笑うと、
「あれは、口から出まかせだ」と言った。
「え? そうなんですか!」
「ここでは、名古屋ではもう、というのがキラーフレーズなんだよ」
きょとんとする山村に久利は解説した。
岐阜と名古屋は鉄道でわずか1時間で接続している。岐阜市民の多くが名古屋で働き、名古屋で遊び名古屋で金を落とすのだ。商店街に閑古鳥が鳴くのもそのためだ。
そして彼らは否応なく名古屋と岐阜を比較することになる。
「名古屋人が東京や大阪に対して抱いているようなコンプレックスを、岐阜人は名古屋に対して抱いてるんだよ」
名古屋の大手書店の店頭には「名古屋本」というコーナーがある。
そこには少なくない数の本が、東京・大阪と比較して「だから名古屋はダメなのだ」と叫んでいる。日本を外国と比較して「だから日本はだめなのだ」と叫んでいる同様の本の縮小版である。
実は岐阜県の大型書店には同様の「岐阜本」のコーナーがあり、そこでは隣県の名古屋と比較して「だから岐阜はだめなのだ」と叫んでいるのだ。
「ふ、深いですね、先輩の分析」
「各自治体には、独特のメンタリティがある。それを知らないと商売はできない」
「すごい!」と山村は感嘆の声を上げた。
「ま、岐阜の人が聞いたら不快だろうけどね」と久利は皮肉な笑みを浮かべた。
「ひとつコツを学びましたわ」と言う山村に、
「名古屋の選挙広告はまた違うんだぜ」と久利。
「どういうことです?」
「ここでは、戦いの構図は、地方紙対ブロック紙のメディアの戦いだけど、名古屋市の場合は、圧倒的なシェアのブロック紙の扱いを、どの代理店が獲るかという、代理店対代理店の戦いになる。
商品である媒体が同じだから、難度は今回の比じゃねえんだよ」
「甘くないですねえ」と山村。
でも、それに慣れていくのが営業なんだと久利は思った。
「こういった名古屋と岐阜の地域感情は営業に利用できるんだぜ」と久利が言った。
「それ、教えてくださいよ」
「実は俺、最初はアド中の社員だったんだ。そのころ岐阜へ転勤したことあってな、」
アド中部エージェンシー時代に、久利は大手学習塾の岐阜支社を開拓したことがあった。
初めて飛び込んだ時、
「名古屋から来たばかりで、地元の縁故もなく、商売がやりにくいんです」と苦笑いしたところ、それが支社長の琴線に触れたのか、大きな仕事をくれたのだ。
「運がよかったのですか?」
「それが運ではなかったんだ」
実はその支社長は東京からの単身赴任で、地元社員から紹介される取引先業者が、ことごとく県岐阜商の先輩後輩だったり、岐高の同期だったりという縁故関係だったことに衝撃を受けていた。そして、その浪花節のようなドロドロした地縁関係にうんざりもしていたのだ。
そこで名古屋からやってきた都会的な営業をする若者に心をつかまれてしまったわけだ。
愚痴を吐かせて心をつかむのは、先ほどの畑中さゆり候補で実証済みで、山村は感心したように聞いている。
「この経験を生かして、大手企業の岐阜支社をいくつも開拓できたよ」
「すごいじゃないですか」
「でも、あざとい手法だぜ。支社長が本社に戻って地元出身の支社長が誕生した途端、拡大した扱いごと地元業者に逆戻りなんだ。反動がでかい」と久利自身は冷めていた。
「それで、ですか?
うちのような会社に来たのは?」
久利は笑って答えない。そして、
「この手法は、俺たちみたいな名古屋の広告会社が、全国区の大手広告会社にしてやられてることを、岐阜で岐阜のローカル会社にやっているだけなんだよ」と皮肉な笑顔を浮かべるのだった。
翌日、久利は瑞穂区の弥富通りに面した民営アパートの一室にいた。
早めの昼食をとるために営業マンたちの車が近隣の飲食店に駆け込むためか、道路は空いていて丸の内のアド遊本社から15分ほどで着いた。
「早いねえ、呼びつけちゃったみたいで恐縮しちゃうな」と社長が笑った。
「道路が空いてまして、むしろ早すぎてすんません」
いつもの社長のおっとりとした言い方にこっちが恐縮する。
久利より五歳ほど年長なのだろうか、人当たりも柔らかく、外見もぽっちゃりしていて柔和な笑顔が印象的だ。同居している内縁の妻・カナさんと一緒にウサギを飼っている優しい人だった。
とても背中に入れ墨を背負っているようには思えない。
社長はすでに自分で求人原稿をまとめていた。
「プロの目で掲載基準とか確認してね」と言ってきれいにまとめた原稿用紙を手渡した。
内容は、スポーツ中部掲載用の求人広告で、のぞき喫茶と呼ばれる風俗店「アトリエ・トミー」のものだった。
掲載基準はすべてクリアしている。もう四年近い付き合いのある社長だ。このあたりの感触は熟知している。
「問題ないです」と告げながら、久利は求人広告用の原稿を組版用の指示を入れた形に清書していく。
行数ものと呼ばれる求人原稿は、新聞社でもまだ活版印刷で活字を植字する組版で制作される。
記事下広告の大半が写植原稿になったが、この行数ものだけは未だに植字工が活字を拾っているのだった。
前払い広告料を集金して、さて帰ろうかと思ったとき、社長が、
「これ見て欲しいんだ」と一冊の雑誌を広げた。
表紙には「熱烈!写真塾3月号」とある。俗に写真投稿誌と呼ばれるエロ本で、最近はコンビニの店頭でも買える。
開かれたページにはマジックミラー越しに扇情的なポーズをとるモデル嬢の写真が掲載され「のぞき喫茶潜入しました」と書かれている。投稿者のペンネームは「カメっ子トミー」となっていた。
「宣伝記事ですか?」と聞くと、
「それなら問題ないけど、これ盗み撮りなんだよなあ」と社長。
「間違いなくうちの店内よ」とお茶を持ってきたカナさんがこぼした。
「客の盗撮ですか」
「宣伝用なら顔を隠すとか配慮するけどね。
これ誌面では顔にモザイク入ってるけど、元写真は顔バッチリ写ってると思う。
これじゃ、うちのモデル嬢が安心して舞台に立てないよ」
「アトリエ・トミー」では、ストリップで言うところのダンサーたちをモデル嬢と呼んでいる。
店の中央の舞台を個室が囲んでいて、マジックミラー越しにステージ上の部屋の中でポーズを取る嬢を観ながら客には自慰に励んでもらうわけだ。
「これだと女の子が困るし、客の顔も映っていると大変なことになる」
「確かに、大変ですね」と言ったあと、嫌な予感がした。
「うちのモデル嬢たちの中には、この仕事で家計を助けながら大学行ってる子もいるのよ。顔ばれしたらかわいそう」とカナさん。
確かに、この店では「お触り」も「手仕事」もないから、素人娘が働いていても不思議ではなかった。
「確か久利さん、探偵っぽいことしてたよね」と社長が言った。
「ええ? 誰から聞いたんですか!」と、ある主の予感に、久利の声もうろたえ気味。
「うちのワイフがノンノンって店で聞いてね。この久利さんてアド遊の久利さんじゃないのって言うんだ」
「ノ、ノンノン!」
「あそこのママ、私の先輩なの」とカナさん。
「やっぱりそうだった」とうれしそうな社長の笑顔に、もう抗うことができない久利だった。
直ぐ当たる予感にろくなものはないのだ。
週末の土曜日だ。
名古屋市の北に隣接する清須市である。
アトリエ・トミーは国道22号線の西に隣接する脇道に面していた。
倉庫だったとおぼしき建物の前に何台もの車が停まっている。その中に久利の愛車マイティーボーイもあった。頭を道路に向けて駐車してある。
その倉庫建築の入り口にはアーチ状の「アトリエ・トミー」の看板が掛かっている。電飾も点っているが、昼下がりの明るさの中では、その灯りも眠っているような弱々しさで、「開店中である」というサインでしかない。
無骨な倉庫の建物と電飾の組み合わせが洋画に出てくるソーホーとかハーレムとか、そうなアングライメージで、この背徳性が客の心をそそりそうだと、久利の中の作家脳が思った。
店内へ入ると十畳ほどの部屋があり、劇場のもぎりのような受付がある。受付にはティッシュやローションが売る売店が併設されている。
その奥に映画館のような両開きのドアがあり、そこを入ると小部屋のドアが並んでいる。
そのドアを開けるとマジックミラーになったガラスを透してステージが見える。そこには女性の部屋が再現してあった。
部屋は360度全方位を鏡で囲われている。マジックミラーは全部で10枚ありステージが十角形であることがわかる。
ステージに再現された部屋を十個の小部屋が囲んでいるのだ。
噂には聞いていたが、実際はこうなのかと久利は興味津々である。
その久利が待機しているのは、そのうちの入り口に一番近い部屋だった。
鏡の中のステージでは、鏡の上部に付いているリクエスト用のランプの点灯に答えてモデル嬢たちが鏡の前を移動して、下着を見せたり着替えたり、自慰行為を見せたりと大忙しだ。
そんな見世物も、一時間も観ていると飽きてきた。
「ほぼ、毎週土曜日に来てる客が怪しいんだよね」と社長は言っていた。
「あの人、いつも大きな鞄持ってるし、時々シャッターの音が聞こえたような気がするの」とカナさん。
彼女が実質的な店長で、モデル嬢が急遽休んだときなどは、ステージにも立つということで、確かにかわいらしい女性でもあった。
ドアを小さくノックする音で、現実に引き戻された。
薄くドアを開けるとカナさんだ。
「励んでた?」という小声の問いに、
「やってません!」と小声で応えると、
「今、例のカメっ子トミーさん、7号室に入りましたよ」と告げて受付へ戻っていく。
7号室は一番奥の部屋だった。久利の窓から真正面に見える鏡の向こうに彼はいるのだ。
久利は部屋のドアを薄く開けたまま待機を続けた。
40分ほど経過した後、7号室の鏡に点っていたランプが消え、モデル嬢がランプの点灯した別の鏡の前に移動した。
久利は薄く開けた扉から様子をうかがう。奥の部屋の扉が開閉する音がして、足早に歩く足音が目の前を通り過ぎる。
劇場の扉を開閉する気配と同時に部屋を出て後を追う。
受付へ出ると、大きなショルダーバッグを下げた若い男の背中が店を出るところだった。やや小太りでダウンジャケットとジーンズの地味なスタイルの学生風だ。こいつがカメっ子トミーとやらか。
受付のカナさんが久利を見て、無言で大きく頷くとポラロイド写真を一枚、久利に渡した。写真は、天井から撮ったもので、7号室内でカメラを構える男の姿が写っていた。
「20枚ほど撮ったから」と微笑むカナさん。
久利は目で了解の合図を送ると男を追って店を出た。
ショルダーバッグの若者は、店の前の駐車場で白いトヨタのマークⅡの助手席のドアを開けた。
バッグを投げるように入れると、運転席側に回って乗り込んだ。直ぐにエンジンがかかる音がした。
久利もゆっくりとマイティボーイに乗るとイグニションを回してエンジンをかけた。
走り出した白いマークⅡを追って、黒いマイティーボーイもゆっくりと駐車場を出た。
マークⅡは国道22号に合流し、名古屋方面に走って行く。車速が上がると、軽自動車での追尾はなかなか難しい。
いい車に乗りやがって、久利は苦笑いしながらマイティボーイのアクセルを踏んだ。
マークⅡが停まったのは二階建ての白いアパートの前だった。
窓の数から各フロアに四部屋だろうと思った。
北区の住宅街の一角だ。隣の区画には志賀住宅や鳩岡住宅などの公営アパートの白い建物が建ち並んでいる。
久利も速度を落とすと、道路の脇に車を留めた。路駐だが、このエリアなら短時間は大丈夫だろうと、営業マンの勘が告げていた。
男は車から降りるとショルダーバッグを肩に揺すり上げ、アパートの入り口を入った。
その背中を追うように、久利もアパートに入る。まるでアパートの住人のような自然さを演じている。
男も久利が自分を追ってきたとは毛ほども思っていないのか、軽く会釈までしてきた。
彼の部屋は一階の一番奥だった。
久利はその手前の隣の部屋のドアの前で、
「ご在宅かなあ、」と呟きながら、アタッシュケースからパンフレットを出しインタホンを押すそぶりをした。
男の部屋の鍵が開き、ドアを開けて男が部屋へ入る瞬間、その背中に密着するように久利も部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。
押された男が前のめりに玄関に膝をつき、
「なんだよ!」と叫んで振り返る。
「大事な話があってね」と言いながら部屋を見渡す。
部屋は1LDKだった。玄関から見て正面にダイニングキッチン、そして玄関横の四畳半らしき部屋は窓に暗幕が張ってあるのか薄暗かった。かすかに現像液特有の酸っぱい匂いがする。間違いない。
点けっぱなしの赤い照明が、壁一面に貼られた写真と、まだ乾燥のために部屋に渡された紐に洗濯ばさみで吊された印画紙を照らしていた。
「なんだよ、あんた! 警察呼ぶぞ」と男はもう一度言った。
「警察呼ぶと困るのは君じゃないのかい、カメっ子トミーさん」
「な、何のことだ、」
投稿名を呼ばれてうろたえる男のショルダーバックから一眼レフカメラが見えた。
「へえ、キャノンのEOSかあ、ええカメラ持ってるんだなあ」と言うと、
「店からつけてきたのかよ」と男が聞いた。
「大変だったよ軽で追いかけるのは」と言ってポラロイド写真を渡した。
写真にはカメラを手にした男の顔もしっかり写っていた。
「店側は大ごとにする気はないみたいだけど、これはまずいよね」
「どうするんですか」
「今まで撮影したフィルムと紙焼き全部出してくれる?
それ店に渡して二度と来ないと約束してくれればいいよ」
「ほ、本当に?」
「また雑誌に送ったりしたら、このポラロイド写真、あんたの親御さんや隣近所にばらまくから。店の人、20枚ぐらい撮ったらしいから」
「そんな、」
「君、働いてるの?」
「学生です」
「ふーん、そうなの。
あの店にはね、あそこの稼ぎで家計を助けてるけなげな女子大生もいるわけよ。マークⅡに乗ってる大学生にはわからないだろうけどね」
久利の言葉に、男はすっかりしょげかえった。
説教をして念書を書かせた上で、久利はフィルムと紙焼きを回収するとアパートを出た。
翌日の昼前に、社長の部屋へ行き、フィルムと紙焼きを渡して首尾を報告した。
「高校時代から写真部だったそうで、その頃に投稿の味を覚えたようです。もうしませんって反省してました」
「暴力や脅しはしてないだろうね?」という社長に、
「私は堅気ですからご安心ください」と久利。
「ヤクザに心配される堅気って皮肉やねえ」と社長も苦笑いし、
「これ、お礼」と言って封筒が差し出された。厚さから見て五万円ぐらいか。
「受け取れません、受け取ったら堅気じゃなくなっちゃう」と固辞する久利。
「それだと私の気が収まらないんだよなあ」と社長。
「じゃ、代わりに何か情報お聞かせくださいよ」
「情報?」
「店や企業の倒産しそうなところとか、気をつけたらいいようなところとか」
この社長なら、裏社会から拾ったそんなネタ持っていそうだ。
「そんなことでいいの」
「ええ、実は広告商売の与信管理になるんですよ」と久利。
社長は腕を組んで考えていたが、はっと気づいて、
「久利さんとこのアド遊さんて、例の新しい共済やってなかった?」
「パパイヤ共済ですか?」
「それ!」
「実は、」と社長が語り出したのは、夜の世界で飛び交っている噂だった。
「最近、あそこの若い営業が主婦を狙って共済商品を売りまくってるんだ」
「元ホストのセミナー屋でしょう」
「そうそう、詳しいね」
「多少、因縁ありまして」
「連中にしてみれば、素人の主婦なんて赤子の手をひねるようなもんだし、毎月すごい掛け金が入ってるらしい」
「解約に関して多少トラブルがあるらしいですね」
「それもそうだけど、連中の夜毎の接待が静かな話題でね」
「昨年末に、私も花梨で見ましたわ」
花梨は知る人ぞ知る高級クラブで、中京圏の政財界の要人が出入りするため夜の商工会議所とも呼ばれていた。
「どこからあの金が出てくるのかと、もっぱらの噂でね」と社長が皮肉な笑みを浮かべた。
「裏でやばい商売でもしてるんですか?」
「それならまだましだよ。どうやら連中、共済で集めた金を使い込んでるらしい」
「運用した余剰金ではなく、積み立ててる金に手をつけていると」
「そう、自転車操業だよ。新しい加入者の金で配当金と称して金を回す。
英語でポンジ・スキームって言ったかなあ。ようは投資詐欺だ」
「そんな言葉知ってるなんて、社長、インテリですね」と驚く久利に、
「一応、俺、経済学部中退だよ」と社長は苦笑いした。
「解約でトラブり出したってことは破綻間近ってことですね」
「例の理事長の立候補とどっちが先かってとこかな」
その社長の言葉を聞きながら、大変なことになりそうだと思った。
パパイヤ共済とアドプランニング・遊の取引内容を思い浮かべる。印刷物の納品も先月終えていて求人広告もない。入金待ちの残もそれほどないはずだった。
今なら、なんとか手を打てるはずだ。
三の丸一丁目にある中部新聞社の社屋の裏に、マイティボーイを路上駐車すると久利は通用口に向かった。
警備の窓口で社名と名前を記入して入場証をもらうと首から提げた。エレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け上がる。
久利たちアドプランニング・遊の営業が中部新聞系の媒体に広告を掲載するときは、新聞社の子会社・アド中部エージェンシーを通して原稿を送っている。
そのアド中は、中部新聞本社の三階にある広告局の一角にコーナーを持っていた。
久利は三階の廊下から局の中をうかがい、アド中の席にサブ代理店担当の岡田がいるのを確認して入室した。
サブ代理店が局内の奥まで入れないよう、アド中のコーナーは入り口近くに位置している。
「どうも」と声をかけると、
「お、久利さん」と岡田がうれしそうに言った。
久利がアド中にいた頃からの友人だ。
少し声を潜めて、
「聞きたいことがあるんだけど」と言うと、
気配を察した岡田は、
「席替えようか?」と同じ三階にある喫茶コーナーへ誘った。
喫茶コーナーは社員食堂の一角にある。
ランチタイムが終わった直後で、工務スタッフが職場に戻り、三階の食堂は閑散としていて、後片付けの厨房の音だけが響いていた。
テーブルにコーヒーの紙コップを置くと、岡田と向き合った。
「ズバリ聞くけど、なぜパパイヤ共済を直でなくサブ代理店のアド遊に投げたの」
「与信管理だよ。広告料金の支払いに不安があったからリスク回避でお宅に投げた。今までと同じだよ」
「本当に支払いの不安だけ?」
「どうゆうことだよ」
「あそこには、一部で嫌な噂があってね」
「噂?」
「そう、まず営業の仕方が、催眠商法っぽい。そして、ポンジ・スキームの自転車操業じゃないかって」
岡田ははっと気づいたような表情になり、
「そういえば、」と話し出した。
当初、アド中部エージェンシーが直で扱う予定だったのだが、編集の方から、それとなくサブへ回せという指示があったというのだ。
「その指示は、編集部のどこから? 経済部?政治部? それとも社会部?」
「直接じゃないから、それはわからない。広告局からは、四階の指示としか聞いてないから」
三階の広告局では、四階にある編集部を「四階」という隠語で呼んでいる。時には、目線を上に投げて「あそこ」と言ったりもする。
記事を作っているセクションと、実質利益の大半を産んでいる広告セクションでは、目に見えぬ確執があるのだろう。
共通しているのは、中小広告会社を下に見る姿勢だけだ。
「聞かせてくれてありがとう」
「何か兆しあるのか?」と岡田。
「多分、社会部あたりは嗅ぎつけてるかもな」
そう言うと久利は腕を組んでため息をついた。
中部新聞本社のある三の丸一丁目から徒歩十分の、三の丸二丁目に愛知県警本部がある。
一階のロビーのベンチで久利は都倉と並んで座っていた。
年が明けて、都倉は中署から県警本部に異動になっていたのだ。
「ついに全館禁煙になりやがってさ」と話すたびに都倉の口元で禁煙パイプが上下する。
それが楊枝を咥えているようなヤクザな印象を与えてくるのは、都倉に刑事生活が染みついたせいか。
「情報屋(たれ込みや)の俺が押しかけてはまずかったか」と久利が聞くと、
「大丈夫だよ、たれ込み屋よく来るし」と都倉。
「たれ込み屋はジョークだよって、否定して欲しかったんだがな」と久利は苦笑い。
「例のパパイヤ共済の件だけど」と話を向けると、都倉は、
「その客とは距離置いた方がいいぞ」と間髪入れずに答えた。
「何かの予定があるのか?」と久利が小声で聞くと、
「これ以上は言えない」と都倉は目線を逸らせて口を閉じた。禁煙パイプも微動だにしない。
察してくれよということか。近々警察動くのかもしれないなと思った。
アドプランニング・遊に戻ると山村が一階の自販機コーナーで缶コーヒーを飲んでいた。
このビルも今年に入ってから館内は禁煙になり、自販機コーナーの奥に喫煙コーナーが作ってあった。分煙だそうだ。
「先輩、この時間に戻るなんて珍しいですね」と山村が言った。
喫煙コーナーに誰もいないことを確認して山村に聞いた。
「例のパパイヤ、今、取引内容どうなってる」
「先月は売り上げありませんけど、4月以降に大きな引き合いがあります。選挙の準備関係や、集会の仕切りとかイベント系で」
山村の弾んだ声が痛ましかった。大きな額でやりがいある仕事、自分も若かったらわくわくしたろう。
覚悟を決めて山村に告げた。
「悪いが、あそこはやばい」
「え? 」という顔の山村に、包み隠さず調べたことを話した。
山村は呆然として、
「あの仕事で、どれだけ自信回復したか」と言った。
何より山村がしょげたのは如月翔が、セミナー受講者を「金」としか見てなかったことだ。
「セミナーで得た自信も偽物だったのかな」という山村に、
「動機は不純だけど、翔の教えたスキルは本物だ。だからこそパパイヤがあんなに金集めてる」
「大友理事長、なぜこんなことするんだろう」と山村は首をひねる。
「彼の願いは、国会議員になることだ。共済もそのための道具に過ぎないんだろう」
「証拠はまだないんですよね」
「ああ、だから警察も乗り込めない。だけど時間の問題だ」
「どうすればいいんですか」
「あそことの取引をやめる」
「どうやって辞めるんですか?
お宅は怪しいから取引できませんって言うんですか?」と山村は頭を抱えた。
「方法はある」
久利はそう言うと山村に、「上司が挨拶したい」という理由でアポを取らせた。パパイヤ共済への訪問は一時間後とした。
暦の上では春でも、二月の日はまだ短い。日差しはすでに夕方だった。
そのオレンジ色の日を浴びながら久利のマイティーボーイがパパイヤ共済本社の駐車場に滑り込んだのは午後5時だった。
久利が運転席から降りると、助手席から出てきた山村が、後部から大きなショルダーバッグを出して肩にかけた。
二人とも無言で入り口を入る。山村の口は緊張で引きつり真一文字に食いしばられていた。
受付の女性は以前の娘から代わっていた。
前の娘はテレビ局や電通の受付にいそうな美人だったが、今回はサラ金の窓口にいそうな庶民的な娘になっていた。
入ってきた二人を見て慌てて立ち上がりお辞儀をする。ネイルでもいじっていたようだ。
「会議室でお待ちしてます」という娘に、笑顔で応えて奥へ進む。
会議室の扉を開けると大友理事長と秘書のユリ、前進党の地方議員とおぼしき男の三人が談笑しているところだった。
選挙立候補の打ち合わせ中らしい。
久利は三人に笑顔を向けると、
「いつも山村がお世話になってます」と頭を下げた。
「おお、久利さん、いつも山村君が頑張ってくれてますよ」と大友理事長。
大友ユリは、
「こちら名古屋市議の新藤先生です。今度の国政選挙で応援いただけることになりました」と久利たちに男を紹介した。
すぐに新藤に向かい、
「私どもの広告を扱ってくれる代理店さんです」と久利たちを紹介した。
「実は、本日伺いましたのは、他でもない選挙広告についてでございます」と久利。
「何か不都合でもあるのかね」と理事長。
「選挙広告の目的は選挙での勝利です。今のままでは勝てません」
「どういうことなの?」とユリが首をかしげた。
「実は、お恥ずかしい話ですが、私どもアドプランニング・遊は、風俗業や遊技業などの広告を主体にしております。
それが立候補される大友先生の看板に泥を塗る可能性があります」
山村も含む全員が、唖然として口をつぐんでいた。
久利は全員を見回すと、
「お世話になった大友先生の顔に泥を塗る可能性は排除せねばなりません。残念ですが、私ども、パパイヤ共済さまの広告扱いから降りる決心をいたしました」と、きっぱりと言った。
「そんな急な。第一、これからうちはどこを使えばいいの」
「業者の紹介はできませんが、これを参考までに」と言って、久利は名古屋の広告業名鑑を机に置いた。おそらく応じる業者は少ないだろう。
ユリと大友は怒り出した。当然だろう。
「無責任すぎないかね。アド遊さん」
「本当の理由は何!」
二人の口から出る批難の声を浴びながらじっと口をつぐんでいた久利は、一礼して立ち上がると、山村からショルダーバックを受け取り、ファスナーを開けて中に詰め込んできた雑誌を机の上にぶちまけた。
名古屋の風俗業ガイド誌「プレイギャル」と「遊(ユウ)トピア」のバックナンバーだ。
机の上で山を作った雑誌達はセンター挟み込みのヌードグラビアを広げて散らばった。
モデル達は全員、現役のソープ嬢で、顔に掛けた目だけを隠すベネチアン・マスク以外、一糸も纏わぬ裸体であった。
大友ユリが、
「きゃ、」と言って、汚らわしいものでも見るかのように目をそらした。
間髪を入れずに久利は床に土下座した。山村が慌ててそれに従う。
「我が身の恥をさらすようですが、このようなメディアをメイン媒体とする弊社のような代理店と付き合っていると、大友先生のイメージダウンになります。
涙をのんでお取引を諦めます」と久利は言い切った。
理事長とユリが驚いたように目を見開いている。
この後、久利は「先生のために」という理由で今後の広告扱いを固辞し続けた。
市会議員・新藤の、
「アド遊さんの言うことももっともだ。私が対立候補なら、このネタ、イメージダウンに利用するかもしれないなあ」という言葉ですべてが決まった。
「表向きは、これを理由に弊社との取引を再考した、と言うことにしていただいてかまいません」
理事長は渋々同意した。
久利は膝を払って立ち上がると、深々と頭を下げて会議室を出た。山村も無言で従う。
駐車場に出ると、久利の顔に一斉に汗が噴き出してきた。
マイティボーイが停まったのは古出来町の交差点だった。高校時代に通学で利用したバス停で車を停めると、
「悪いがここからバスで社に帰ってくれ」と山村に告げた。
「ありがとうございました。僕だけではできませんでした。でも、上にどう説明しようかな」
「説明は俺がするから心配するな」
久利はそう言って山村を下ろすと、交差点を左折して今池方面に向かった。
バックミラーには怪訝そうに久利を見送る山村がいた。その山村の横を通り過ぎながら、白いクラウンが同じように左折してきた。
山村を下ろすときも、このクラウンは後方でハザードランプを点けて停車していた。
パパイヤ共済のパーキングで何度か見た記憶のある車だった。尾行されているのだ。
久利はそれを確認すると今池に向かってアクセルを踏んだ。
今池交差点に建つ新今池ビルの一階はパチンコ屋が、そして二階には映画館が入っている。
ビルの西隣のタワーパーキングに車を預けて表に回った久利は、ビルの地下に下りようと東側に回った。そこは舗道と連続した吹き抜けの回廊になっている。回廊と舗道の境界には、二階の今池劇場の掲示板が仕切るように外を向いて建っている。
掲示板のガラスの引き戸の中には、日にたたかれて色が落ち、カラカラに乾いて反り返った映画のチラシが画鋲で留めてあった。「氷の微笑」と「レザボア・ドッグス」の二本立てだ。
その掲示板の裏側に地下へ下りる階段があるのだが、そこで、左右から現れたスーツ姿の男達に行く手を遮られた。
通りには、ハザードを点滅させた例の白いクラウンが停車している。
後ろに逃げようと振り向くと、そこには腕を組んで如月翔が立っていた。
「なんだか不穏だね」と言うと、翔は、
「久利さん、何を知ってるんですか」と聞いてきた。表情は穏やかだが目は笑っていない。
表通りの舗道からは掲示板が陰になって人の目を遮っている。
掲示板を背にした久利は三人に囲まれているのだ。さりげなく見回すと左の男は見覚えがあった。その男に、「髪伸ばしたのか?」と聞くと、
「ヤクザ廃業と同時にね」と答えた。
昨年デートクラブの件でもめたときの坊主頭だった。今はスーツの似合う営業マン風だ。
もう一人はメタルフレームのメガネにコールマン髭をはやした男だが、スケベな顔にしか見えない残念さがあった。
翔以外の二人に共通するのは、東映のVシネマに出てきそうな三下の不良感だった。
「俺は仕事があるんだがな」と言って地下を顎で示した。
「行く前に、何を知ってるか教えてくださいよ」と翔。
「それは例えば、どんなこと」とはぐらかす久利。
翔が目配せすると、元坊主がにやりと笑ってスーツの内ポケットから黒い警棒のようなものを出した。
久利の顔の前に突き出されたそれは、火薬が爆ぜるような音と同時に火花を散らした。
スタンガンだ。
久利は覚悟を決めたように言った。
「聞いてたのは噂だけだったけど、今、確信に変わったよ。
おまえら詐欺の片棒かついでるんだぜ」
翔の顔がさっと曇った。
「営業やってて楽しかったろう? 客からありがとうと言われてうれしかったろう?」
「それは僕のスキルですから」と翔は胸を張った。
「客を掌の上で転がしてるように感じたろうけど、それは違う」
「どういうことですか」と翔。
「客は営業を信頼して掌に乗ってくれたんだ。転がしてるんじゃない。転がされてくれてるんだよ」
翔は黙り込んだ。元坊主とコールマン髭もその翔を目にして戸惑ったようだ。
「信用してくれた客を騙しているんだ」と久利はさらに追い詰める。
「俺はきれい事は言わねえが。インチキ商材を売りつけるって行為は、営業、セールスって仕事に泥を塗ることだ。
同じ営業として、それが悲しい。営業って仕事にプライド持ってるからな。俺」
「警察には言ったのかよ」と元坊主。
「証拠もないし、俺が知ってるのは噂だけだ」
「じゃあ、なぜパパイヤの仕事から逃げたんだよ」と翔。
「与信管理だよ。
知ってるだろう、アド遊での俺のあだ名。回収強行班、一人チーム。
ちょっとでも将来、破綻の可能性があれば動くんだ」
翔の目を見て久利は言った。
「俺たちアド遊は、パパイヤ共済さんから広告取引を打ち切られた。理由は、アド遊がエロ広告屋だからだ。
そういうことにして選挙まで乗り切ってくれ。俺たちはもう無関係だ」
翔は大きく息を吐くと、二人に目配せをした。
髭も元坊主も「いいんですか?」という表情を隠せない。
「いいんだ。この人はチクるようなタマじゃねえ」
自分に言い聞かすように話すと、翔は久利に背を向けた。
遠ざかる翔の背中を見ながら、あれは昔の自分だと久利は思った。自信満々で、客を手玉にとれると過信していた若い頃の自分だ。
一歩間違えれば、
「俺も翔と同様に営業の暗黒面に落ちていたかもしれない」と思った。
アドプランニング・遊に戻ると営業部の時計は午後七時を指していた。部内は無人だ。壁の予定表を見ると帰宅してない営業も直帰になっている。
久利は上司のデスクの前に立つと、ジャケットの内ポケットから出した封筒をデスクに置いた。
封筒には精一杯の丁寧な字で「退職届」と書いてある。封筒の中には「一身上の都合で」という理由の届けと、もう一通、パパイヤ共済に関する事後報告がしたためられてある。
周囲の誰もいない社員のデスクに、軽く一礼すると部屋を出た。
三階の制作へ回ると、今日もまたデスクワークをしているのはデザインの岩田美子だけだった。
「遅いじゃないか」と言うと、
「締め切り近いのが一本あってさ」と岩田女史は苦笑いした。
久利が会社を辞めることを告げると、
「ライター一本で行くの?」と聞いてきた。
「驚かないの?」
「予感はしてた。早いか遅いかだけで」
「わかってるんだな、俺のこと」
そう言うと岩田女史はにっこりと笑い、
「ご文運を」と言った。
久利はうれしそうに笑うと部屋を出た。
駐車場に出るとちょうど戻ってきた山村がいた。
「お疲れさん」と言うと、
「僕は見てただけですから、本当のお疲れは先輩ですよ」
「実は今、会社辞めてきた」と告げると、
「ぼ、僕のためにですか、」と気色ばんだ。
「いやいや、俺は自分のために辞めるんだ」と苦笑いで否定する。そしてジャケットの内ポケットから封筒を出し、
「パパイヤの件、上司にはこう説明したから。おまえも口裏合わせろ」と言って山村に渡した。
パパイヤ共済が破綻する頃にはわかってくれるだろう。そう遠いことではないはずだ。
マイティーボーイに乗り込んでイグニションを回す。
バックミラーに映る山村が深々と一礼しているのが見えた。
「よせやい」と呟いてアクセルを踏む。
丸の内三丁目から夜の街に向かった。最後の挨拶回りでもするかと思ったのだ。
FMラジオを付けると歌が流れ出した。佐野元春の「約束の橋」だった。
夕闇が迫るナゴヤのネオン街を流しながらいつかこの時代を小説に書ける時が来るだろうかと思った。
スナック・ノンノンの店内は空いていた。
この店は、サラリーマン達の帰宅前の最後の一服のための店になっていて、混み出すのは夕食後、午後8時過ぎからだった。
流れている有線放送の曲は稲垣潤一の「思い出のビーチクラブ」だった。
カウンターに座った久利は、
「懐かしいじゃん」と呟いた。新人の頃によく聞いていたからだ。
客の少ないこの時間帯は店内に流れる有線放送の歌も、若い娘達の好むJ-POPの曲が多かった。年配の客が増える時間帯には演歌にしたりジャズにしたりするようだ。
カウンター越しに久利の前にママの和泉和子が座り、その隣でミチコがグラスに瓶ビールを注いだ。
「実は今日、会社辞めてきました」という久利の言葉に、
「まあ、」と和子。
「後任は多分、山村です」
「ああ、あの人ね」と和子は頷いた。
「これからどうするんですか?」とミチコが聞いた。
「しばらくライターとしてやってみますよ」
そういった久利の表情は何やらすっきりとして見えた。
「なんだか、憑きものが落ちたみたいね」
「ママ、うまいこと言うじゃないか」と久利は苦笑いしながら、「憑きもの」ってのは会社員生活そのものだったのかもしれないと思った。
「ということでもうあまり店には来れないかも」
それを聞いたミチコはしばらく考えて、
「じゃあ、」と言って名刺入れから名刺を出し、黙って久利に差し出した。
「ああ、名刺は前に貰ってるよ」と言うと、
「それ私の本名と電話番号」
「ええ?本当かよ」と驚く久利。
よく見ると名刺の角は丸くないしノンノンのロゴも入っていない。
「あらあら、初めて見たわ。チーママがそれを男の客に渡すの」と和子ママが微笑んだ。
「私の一番悔しいことって何だと思う」とミチコが聞いた。
「わからない」と久利。
ミチコは悪戯っぽく笑うと、
「本命の人から、商売だって思われることよ」といってにっこりと笑った。
店内に流れる有線の曲が替わった。
「これも懐かしい曲だな」と久利が照れたように呟いた。
曲は大沢誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」だった。
おわり
