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思うように書けなくても、書くことを手放したくない

ちゃんとした文章を書こうとしすぎていたのかもしれない。
だから、思うように書けなくなったのだろうか。

思えばずっと文章を書いてきた。

小学4年生の頃、友だちを真似て小説を書き始めた。
読書感想文を書くのが好きで毎年文集に載せてもらっていた。

中高生の頃から本格的に小説を書き、大人になってからは投稿用に10万字の作品も書き上げた。
同時に個人的なブログを何年も続けていた。

息子が幼稚園に入ってからは、noteを始めた。
noteは「書く私」をより強固にした。

呼吸をするように書いてきたのに、最近はまとまったものを出そうとすると途端に思考回路が鈍る。
一時は書けても、すぐ燃料切れになる。
充電がスムーズに溜まっていかないのだ。

ジブリ映画の「魔女の宅急便」で、主人公のキキがある日飛べなくなるシーンがある。

「前は何も考えずに飛べていたのに」。
そんな風に戸惑いを露わにするキキを見るたびに、ほかのことでスランプがあったとしても「書くこと」に限ってはこうならないだろうな、と慢心めいたものがあった。

それがどうだろう。
今の私はまさにキキの心境だ。

正確には、何も考えずに書いていた訳ではない。
膨大に考えているのを無自覚に、書いていた。
それが今は、ちょっと難しい。
長く書いていると、こういうこともあるのだろうか。

「気持ちが乗らない時に書いてもいいものは書けないよ」。
焦りを滲ませる私を夫がそうたしなめた。

正直、思ったより重症なのかもしれない。

こうして考えていることをつらつらと書くことはできる。
はっきりと伝えたいことがあるときは、形式立てて書ける。
だけど万全ではない。

言ってしまえば、自分で自分にショックを受けている。

どこかで、マリオの無敵状態みたいな「バリバリ書ける自分」の残像がちらついているのかもしれない。
だから落差に膝をついている。

書くことに限らず、誰もがこんな鬱屈とした時期を過ごし、いつか思いがけず乗り越えるのだろうか。

個人的に書くことはできても、どこか自分が自分でなくなってしまったようで、何と結ぶべきなのかもすぐには浮かばない。

負けず嫌いだから、本当は失意の中にいる自分なんて見せたくない。
だけどあまりにも途方に暮れていて、ぶっちゃけ運営している「テラス手帖」を秋の間に再開できるかすら見通しが立たなくて、いっそ書くことから距離を置いたほうがいいのかもしれないとさえ思う。

もしくは「もっと楽に書いていいんだよ」と声をかけてもらえたら、救われるのだろうか。

今はただ、日々のことをこなしながらドリップコーヒーでも淹れて、読書でもしようか。

確かなのは、キーボードを打っていて視界が滲んでいること。
それが「書くこと」を手放したくない、何よりの証拠なことだ。


※ヘッダー画像はぷんさんからお借りしました。いつもありがとうございます。



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