春の終わり、夏の始まり 32
義之が帰国したのは、唯史が家を出ようと決意した日の翌日夜であった。
その顔には多少の疲れが見えたが、出迎えた唯史に笑顔を向ける。
「ただいま」
「おかえり」
いつもと変わらぬ義之の優しい表情に、唯史は決意が揺らぐのを感じた。
表情を気取られぬように気をつけながら、キッチンに立つ。
「お茶でも淹れようか?それともビールがいい?」
「もちろんビール。日本のビールが飲みたい」
どさり、と荷物を床に置いて、義之はソファに身を沈めた。
「あー、やっぱり家が一番やわ」
タバコに火を点けて煙を吸い込み、ふううと吐き出す。
2本の缶ビールを手に、唯史もソファに腰を下ろした。
「お疲れ様」
ぷしゅ、とプルタブを開け、1本を義之に差し出す。
サンキュ、と受け取り、義之はグビグビと音をたててビールを喉に流し込んだ。
ビールを飲みながら、義之は仕事の合間にスマートフォンで撮った写真を唯史に見せる。
ヴェネチアの運河、ローマのコロッセオ、ナポリ湾など、イタリアの風景が次々と画面に現れた。
「仕事でベネチアングラスの工場の撮影にも行ったねん。なかなかおもしろかったわ」
義之は仕事の話、訪れた場所、本場のジェラートを食べたことなどを、唯史に話して聞かせる。
だが唯史は、半分上の空で義之の話を聞いていた。
気持ちが揺らぐ前に、決意を伝えなければ。
そのことが頭を占めていたので、相槌もどこかぎこちない。
「唯史、なんかあったん?」
義之も、そんな唯史の様子に気が付いたようだ。
「あ…うん、ちょっと話しとかんとアカンかな、と思って」
まっすぐに自分を見つめる義之の視線に、少々たじろぐ。
「どうしたん?仕事でなんかあったんか?それか元嫁とか?」
優しげな笑みを浮かべながら、義之は心配そうに唯史の顔をのぞきこんだ。
「いや、仕事は問題ないし、元嫁のことはもう何ともない」
そこまで言って、唯史は息を吸い込んだ。
「俺、ここを出ようと思うねん」
一気に言葉を吐き出す。
義之の視線をそらし、うつむく顔には苦悶の表情が浮かんでいる。
義之の顔色が変わった。
「なんで、また」
缶ビールの残りを、義之は一気に飲み干す。
「いつまでも義之に甘えるわけにいかんやろうし……」
唯史は目をそらしたまま、ビールをあおった。
「何言うてんねん、俺はいつまで居てくれてもかめへん、と思ってる」
「いや、でも」
「この家に居づらい理由でもあるんか?」
義之は、心底心配そうな顔を唯史に向ける。
「居づらい理由なんて、何ひとつない。むしろ居心地良すぎるくらいやわ」
「ほな、なんでやねん」
缶に残っていたビールを一気に飲み干し、唯史は義之の顔をまっすぐ見た。
「いずれ、義之も彼女ができて、そのうち結婚もするやろ。俺、義之の人生の厄介者になりたくないねん」
その言葉に、義之は頭を抱えた。
「唯史、俺が結婚する可能性は100パーセント、ない」
ため息をつく義之。
「なんで言い切れるねん」
「そこは言い切れる。絶対ない」
義之は、強い視線を唯史に向けた。
「だいたい、義之ほどの男が独身のままとか、この先考えられへんやろ」
なおも食い下がる唯史。
「ほな理由言おか。唯史、引くなよ」
義之の目には、強い決意がうかがえた。
「唯史、俺がイタリアに行ってる間、荷物届いてるやろ」
「うん、郵便物とか、宅配とか」
「宅配で届いたやつ、どこにある?」
「ちょっと待って、取ってくるわ」
唯史は立ち上がり、玄関へと向かった。
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