ラジオの匂い〈短編小説〉
扇風機はときどき、首振りの低い音を軋ませていた。
部屋の温度計は26℃を少し上回り、若干の蒸し暑さはあったものの、エアコンを入れるほどの暑さではなかった。
冷たい水をひたひたに注いだコップを片手に持ち、私は扇風機の前に腰を下ろした。ゆっくりと首を振る扇風機の風は心地よく、風が体から遠ざかっていくたびになぜか、古い古い記憶の匂いが思い出された。
それは、古いラジオの金属の匂いだった。
ラジオは銀色で、四角くて重く、カセットテープをひとつだけセットできるものだった。ボリュームや選局はダイヤル式で、だいたいいつでも、NHK第一放送が流れていた。
そのラジオは母のもので、台所に置かれていた。母が家事をする間、大抵ずっとラジオが流れていた。聴くともなく、ラジオの音は台所に馴染んで流れていた。
カセットテープが入れられることは滅多になかったけれど、開閉ボタンを押すとガシャンと音を立てて開くのが面白く、時折、開いては閉じる、という動作をして遊んだものだった。何より面白いのはアンテナの金属棒で、するすると長く目一杯に伸ばし、あちこちに向けてみるとき、見えない電波を釣り竿で釣るかのようなわくわくした気持ちがした。
その、やたら重くて頑丈に出来ていたラジオの、金属質な匂い。その匂いがふいに、私には感じられたのだった。
手に持ったコップには淡く水滴が付き、目を閉じて一口飲むと、扇風機の風に私は吹かれた。そうして、そうだこんな、扇風機の風になんて当たっているから、ラジオの匂いなんて思い出すんだな、と、勝手に原因に見当をつけている自分がいた。
ラジオが家の中で活躍していたのは、たぶん私が小学校の頃までだ。特に、小学校に上がるまでの幼児の頃は、よくラジオの音が流れていた。アナウンサーの端正な声で読み上げられるニュースや、静かで穏やかな会話、昼のいこいのテーマ音楽、みんなの歌のメロディー。そういったものが淡々と流れる中で、私は過ごしていたのだ。
夏になれば、エアコンのない台所では扇風機が風を送っていたし、開け放たれた窓の向こうには、沙羅の木が白い花を咲かせていた。そして、庭に放し飼いにされた犬たちが寝そべり、思い思いの時間を過ごしていた。
そのうち台所にもテレビが設置され、ラジオは使われなくなったと記憶している。部屋の隅で出番をなくし、埃をかぶって役目を終えたラジオ。嗅いだこともないのに、くすんだ埃っぽい金属の匂いを思い、ちょっと切なくなってしまった。どうしたんだろう、あのラジオは。
私はスマートフォンを手に取り、ラジオアプリのアイコンをタップした。濁りのない、すっきりとした音でラジオ番組の音が流れ出した。子どもの頃に住んでいた家は、山あいにあったために電波の入りが気紛れで、時々雑音が入ったり、天気が悪いと聞こえにくかったりした。でも、今はきれいな音が小さなスマートフォンから流れてくる。これはこれで、悪くない。これも好き。でも、聞こえにくいこともあった、あの大きくて重いラジオの音も好きだなあ。
こうして、好きなものを重ねていけたら素敵じゃない。ね、と、扇風機に前髪を吹かれながら、私はもう一口、コップの水を飲んだ。
