穢多非人は何故約1000年たった今でも卑しいのか
穢多非人と呼ばれる階級差別が日本には古来からある。
この差別は現代日本ではほとんど言われることは無くなったが、今でも田舎の方や古い人間は
特定の名字や地域を聞くと穢多非人だ、部落地区だと差別する。差別だけを見たら可哀想だな、差別は良く無いなと私も思っていた。
しかし、彼らの差別はされるべくしてされているのでは無いか?差別を正当化するわけではなく
なぜ、差別されるようなことを今でも続けるのか
その是非について問いたい。
穢多非人とは
中世〜江戸時代の日本で、差別的に扱われた身分の人々のこと。
穢多(えた) 主に動物の屠殺や皮革業などを担っていた人々。仏教の「殺生を禁ずる」教えから差別された。
非人(ひにん)罪を犯した者や、乞食、芸能などで生計を立てていた人々。人に非らずとして差別された。
そして、権力側が民を管理しやすくするために「身分制度→士農工商穢多非人 を設けた。
そして明治時代に身分制度は法律上廃止されたが、差別的な意識や慣習は根強く残るまま
現代でも部落差別として形を変えて残っており、結婚、就職、居住地などで不利益を受けている。
中世〜江戸時代の日本は地震や大雨により津波、洪水が発生しやすく、その際インフラ整備が発展していないため、良く氾濫を起こし河辺の田んぼや家は浸水してしまっていた。なので、身分の高い人々は氾濫の被害が少ない内地に家や土地を設け、身分の低い人間たちを海辺や川辺、山奥などに追いやり、その土地に住んでいる人々を見下して差別してきた。
彼らは氾濫や土砂崩れ、内地から離れた不自由な生活により困窮し、苦しい生活を長年強いられてきた。
そのため、長きにわたり困窮を強いられてきた環境の中で、子どもたちは親の生き様を自然と模倣し、その価値観や生活様式を受け継いできた。その結果、貧困や社会的疎外の連鎖が断ち切られぬまま、卑しい生き方が世代を超えて固定化されていった。
こう考えられる。
つまり彼らが卑しいのは
卑しいと感じさせている日本の差別的文が根付いているからではなく、本当に今でも卑しいのだ。
しかし、その卑しいことは悪いことではない。育ちが悪いために起こってしまった、仕方のないことなのだ。
だが、仕方が無いから 可哀想だから
と彼らは向ける人の感性は変わらない。もちろん私も例外では無い。
現代でも
バイキングで一度で何皿もお皿に取り食べきれない量を取ってきたり、無くならないのに割り込みをしたり、
すぐ嘘をついて金品をたかろうとしたり
品がない行動を取る人間のことを
育ちのせいだ、文化のせいだ、仕方が無い。
と理解できるほどこの世の人達はできていない。
中国人の横柄な態度には毅然とした態度を示すのに
なぜ穢多非人には甘いのか?辛い思いをしてきた人には甘く法整備すべきなのか?
全国水平社とは穢多非人を積極的差別するために用意されたものなのか?答えは違う。
人は平等に扱われるべきだ。生まれが貧乏であろうが、裕福であろうが、ブスであろうがチビであろうが変わらず人には平等に法律が存在する。
身長が高いから無罪! ブスだから無期懲役!
などと言う判断基準は存在しないのである。
では、生まれの血筋がどこであれ
行った犯罪に対しては平等に裁かれるべきであり、平等に扱われるべきである。
彼らの育った文化を尊重し、彼らのことを丁重に扱う今の日本社会に私は憤りを感じる。
私たちの先祖がしてきた部落差別の精算は、とうの昔に済んでいる。
済んでいる上で言わせてもらう。部落差別はいまだに存在するし、私は差別をする。
中国人であれ、黒人であれ、穢多非人であれ、
平等に人として扱う上で、横柄な人間には差別をする。
差別も逆差別も、根底にあるのは「属性による扱いの差」だ。真の公平とは、出自や背景ではなく、人そのものをフラットに見る視点から始まるのではないだろうか。
彼らに優しさの手を差し伸べる必要はもう無い。
