中国ハッカー集団と日本の情報防衛──官邸セキュリティの盲点と国家的対策
Salt Typhoonが80カ国200社以上を標的に。英国首相の携帯ハッキング事件が明かす日本の脆弱性。縦割り行政、人材不足、端末管理の課題と対策を専門家が徹底分析。
なぜ「官邸ハッキング」は単なるサイバー事件ではないのか
2021年から2024年にかけて、中国の国家支援ハッカー集団「Salt Typhoon(ソルト・タイフーン)」が英国のボリス・ジョンソン、リズ・トラス、リシ・スナク各首相(いずれも当時)の側近数人の携帯電話を標的にしていたことが、英紙デーリー・テレグラフによって報じられた。ハッキングは「首相官邸の中心部に及んだ」とされ、キア・スターマー現首相と上級スタッフも狙われていた恐れがある。
この事件が単なるサイバー犯罪と一線を画すのは、標的が官邸の「ネットワークそのもの」ではなく、「側近の携帯電話」であった点にある。政治家や官僚のスマートフォンには、公式文書よりも「本音のやり取り」や「非公式チャネル」が集まる。外交交渉や安全保障判断の「予兆」が最も早く現れる場所であり、ここを押さえられることは、国家の意思決定プロセスが丸裸になることを意味する。
中国のスパイが英政府高官のテキストメッセージを読んだり通話を盗聴したりした疑いが持たれているが、仮に通話を盗聴できなかったとしても、ハッカーはメタデータにアクセスし、政府高官の連絡先や連絡頻度、おおよその所在地を示す位置情報データを入手できた可能性がある。メタデータは、誰がいつ誰と連絡を取ったかという「関係性の地図」を描き出し、外交交渉や政策決定の構造を推測する上で極めて有用な情報となる。

FBI並びに米国当局によると、Salt Typhoonは80カ国以上の組織に影響を与えており、米国内では少なくとも200の組織がハッキングされた。2024年後半には米国の大手通信会社9社(ベライゾン、AT&T、T-モバイルなど)に侵入し、数千万人のメタデータや位置情報を流出させた。さらに深刻なことに、FBIなど当局が裁判所の許可を得て行う「合法的な通信傍受システム」自体にハッカーがアクセスし、米当局が誰を監視しているかを中国側が把握していた疑いさえ持たれている。これは、捜査機関の監視対象が逆に監視されていたという、諜報活動における「逆転」を意味する。
本稿では、Salt Typhoonの攻撃手法と戦略的意図を解明し、日本の情報安全保障における構造的脆弱性を可視化する。そして、国際比較を通じて日本が取るべき対策を提示する。情報戦の時代において、国家の「免疫力」とは何か──この問いに答えることが本稿の目的である。
1.中国系ハッカー集団Salt Typhoonの特徴と狙い

APT(高度持続的脅威)とは何か
Salt Typhoonは、中国国家安全部(MSS)との関連が極めて強いとされる国家支援型のハッカー集団である。このような攻撃組織は「APT(Advanced Persistent Threat:高度持続的脅威)」と呼ばれ、高度な技術を持ち、長期間にわたって標的のネットワークに潜伏しながら機密情報を窃取する。
APTの特徴は、単発の攻撃ではなく、数ヶ月から数年にわたる継続的な諜報活動にある。攻撃の目的は単なる破壊ではなく、戦略的な情報収集であり、攻撃者は標的のシステムに潜伏しながら、重要な意思決定や政策変更のタイミングで情報を吸い上げる。米国の防衛産業や技術企業を狙った中国のAPTグループ、ウクライナの電力網を攻撃したロシアのAPTグループなど、国家支援型APTは世界中で活動している。
Salt Typhoonは2019年以降から活動が観測されており、特に2023年頃から高度化・活発化した。別名としてOPERATOR PANDA、RedMike、UNC5807、GhostEmperorなどと呼ばれる。米国国家安全保障局(NSA)の元アナリスト、テリー・ダンラップ氏は、Salt Typhoonを「中国の100年戦略の構成要素」と表現している。これは、同グループの活動が単なるサイバー犯罪ではなく、中国の長期的な国家戦略の一環であることを示唆している。
中国系ハッカーの典型的手法──フィッシング・ゼロデイ・モバイル侵入
Salt Typhoonの攻撃手法は極めて洗練されている。同グループは「環境寄生型(Living off the Land)攻撃」と呼ばれる手法を用いる。これは、標的のシステムにもともと備わっている正規のツールを悪用して攻撃を継続する手法であり、従来のウイルス対策ソフトでは検知が非常に困難である。

環境寄生型攻撃では、攻撃者はマルウェアやハックツールを追加で送り込むことなく、侵害したシステム内にBuilt-inとして存在するツールやバイナリを活用する。Windows OSであればcmd.exeやcertutil.exeといったマイクロソフトによって署名されている正規のファイルを悪用するため、正常な活動と悪意ある活動の区別が極めて困難になる。
具体的な攻撃の流れは以下の通りである。まず、Salt Typhoonは通信事業者のバックボーン/エッジ機器を狙い、既知のCVE(Common Vulnerabilities and Exposures:共通脆弱性識別子)を悪用して侵入する。注目すべきは、ゼロデイ脆弱性(未公表の脆弱性)ではなく、既知の脆弱性を悪用している点である。これは、多くの組織がパッチ適用を怠っており、既知の脆弱性を放置していることを意味する。
侵入後、攻撃者はSNMPやTACACS、RADIUSといったネットワーク管理プロトコルのトラフィックを傍受し、秘密鍵を取得する。さらに、侵害されたスイッチのループバックインターフェイスのアドレスを繰り返し変更し、そのインターフェイスを送信元として使用して、標的の環境内の他のデバイスにSSH接続を行う。これにより、対象のデバイスに設定されていたアクセス制御リスト(ACL)を効果的にバイパスし、横移動(ラテラルムーブメント)を実現する。
なぜ「携帯電話」が最優先ターゲットなのか
スマートフォンが攻撃者にとって魅力的なターゲットである理由は、単一のデバイスに膨大な情報が集約されているからである。電話、SNS、メール、写真、銀行アプリ、QR決済など、多くの重要情報が1台に集中しており、「端末1つに多くの重要情報が集中していることが、攻撃者の標的になる理由」である。
政治家や官僚のスマートフォンは、さらに特別な価値を持つ。公式の通信は暗号化され厳重に管理されているが、携帯電話を通じた「非公式」なやり取りは、しばしばセキュリティ対策が甘い。2009年の日本の国会質問では、「官邸スタッフの誰一人、盗聴防止特殊モジュール搭載の携帯電話を持ち歩いていない」との指摘がなされており、この状況は現在も根本的には改善されていない可能性が高い。
対照的に、米国のオバマ大統領は就任後、機密保持・危機管理面から携帯電話の使用を「上級スタッフやごくわずかな個人的な友人」に制限し、スパイ防止型の携帯端末「バラクベリー」を持たせた。また、米国連邦法では大統領の通信記録の保存が義務付けられ、議会や裁判所からの提出命令の対象となっている。
さらに、欧州連合(EU)は2025年、トランプ政権下で米国との関係が悪化する中、渡米する職員に対して匿名性の高い「バーナーフォン(使い捨て携帯電話)」や簡易ノートパソコンを支給している。これは、米国の諜報機関による通信傍受を警戒した措置である。同盟国ですら相互に監視し合う現実が、ここには示されている。
狙いはスパイ活動か、政治判断の先読みか
Salt Typhoonの攻撃目的は、長期的な諜報活動である。同グループが収集するのは、通話メタデータ、VoIP設定、合法傍受(LI)関連ログ、加入者プロファイルなどであり、これらの情報から、誰がいつ誰と連絡を取ったかという「関係性の地図」を描き出すことができる。
外交交渉や国際会議では、従来から暗号解読を含む通信傍受が実施されてきた。交渉は一定程度ポーカー・ゲーム的な色彩を帯びるため、相手の手の内を知ることが有利に働く。 実際、1995年の日米自動車交渉では通産大臣の通話傍受が行われた可能性が指摘されており、2013年のTPP交渉では、米国が開催前から新興国の主張を良く掌握し、会議期間中も必ず盗聴していたと複数の交渉担当官が証言している。
日本外務省の情報システムや外交通信が米国NSAに侵入されている可能性も高い。2012年6月現在、NSAはフランス外務省のVPN(世界中の在外公館と外務本省を結ぶ通信網)への侵入に成功しており、同様のことが日本外務省に対しても行われていると考えられる。
Salt Typhoonが英国首相の側近の携帯電話を標的にした狙いは、単なる機密情報の窃取にとどまらない。政治家の意思決定プロセス、政策の優先順位、外交交渉のレッドライン(譲れない一線)、さらには政治家個人の人間関係や心理状態まで、包括的に把握することが可能になる。これにより、中国は英国政府の動きを先読みし、自国に有利な外交戦略を展開できるようになる。
2.なぜ首相官邸が狙われるのか──情報戦の構造

日本の政治中枢の「情報の集約点」としての官邸
首相官邸は、日本の政治における最も重要な意思決定の場である。各省庁からの情報が集約され、内閣の方針が決定される。官邸の側近、特に首相秘書官や官房副長官補は、省庁間の調整や政策の優先順位付けにおいて中心的な役割を果たす。
しかし、日本のサイバー防衛体制には構造的な弱点が存在する。第一に、縦割り行政の弊害である。防衛省、総務省、経済産業省、警察など関係省庁が多岐にわたり、従来の縦割り体制では対応できないとの危機感が高まっている。内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)は出向者が集まる組織に過ぎず、実際の業務は各省庁が担っている。サイバー防衛隊も陸海空の縦割りは続き、予算の奪い合いも激しい。
2025年7月1日、NISCは「国家サイバー統括室(NCO)」へと大幅改組され、対象別・案件単位の縦割り組織を廃し、政策企画、インテリジェンス分析、技術支援など機能別の横割りチームが配置されることになった。しかし、組織改編だけでは問題は解決しない。
側近の携帯が持つ「非公式チャネル」の危険性
官邸の側近が使用する携帯電話は、公式の通信ルートとは異なる「非公式チャネル」として機能する。政治家同士の私的な連絡、政策調整の打診、メディア対応の相談など、公式文書には残らないやり取りが携帯電話を通じて行われる。
2009年の国会質問で指摘されたように、「地下の危機管理センター以外は一般の場所と同じように携帯電話は使用できる」状況であり、「官邸スタッフの誰一人、盗聴防止特殊モジュール搭載の携帯電話を持ち歩いていない」との指摘がなされている。この状況が現在も続いているとすれば、官邸の側近の携帯電話は、外国の諜報機関にとって格好の標的となる。
スマートフォンのセキュリティ対策は、ユーザ側に依存しており、常時インターネット接続状態となっているため、攻撃の隙も生まれやすい。さらに、プッシュ通知のメタデータ(どのアプリがいつ通知を受け取ったか、位置情報など)は、アップルとグーグルのサーバーを経由しており、複数の政府がこれらの履歴の開示を要求していることが明らかになっている。
日本のサイバー防衛の弱点──組織分断・人材不足・端末管理
日本のサイバー防衛体制には、組織分断、人材不足、端末管理の甘さという三つの構造的弱点が存在する。
第一に、組織分断の問題である。関係省庁が多岐にわたり、NISC(現NCO)は調整役に過ぎず、実際の業務は各省庁が担っている。これでは、国全体のサイバー安全保障を俯瞰し、迅速に対応することが困難である。
第二に、深刻な人材不足である。日本では約11万人のサイバーセキュリティ人材が不足しており、需給ギャップは97.6%に達し、供給人材の約2倍近い需要がある。これは調査対象国の中で最も高い数値である。登録セキスペ(登録情報セキュリティスペシャリスト)は2024年時点で約2.4万人にとどまり、2030年の目標である5万人には遠く及ばない。防衛省は2027年度を目途にサイバー要員を2万人に増強する計画を掲げているが、2024年7月の報告書では、内部育成の拡大と外部の積極的活用など、様々な手段を講じる必要があることが強調されている。

第三に、端末管理の甘さである。2009年の国会質問で指摘されたように、官邸スタッフが盗聴防止特殊モジュール搭載の携帯電話を持ち歩いていない状況は、根本的には改善されていない可能性が高い。政府情報システムではゼロトラスト適用に向けた取り組みが進められており、GSS(政府共通実務IT環境)が各府省庁に順次提供されている(2024年5月現在で10省庁導入済み)、境界型防御から段階的に移行するには、予算的問題もあり数年を要する。
国際比較──米・EU・台湾の対策

米国は、強力な権限と報告義務化を特徴とする。国土安全保障省傘下のCISA(サイバーセキュリティ・インフラセキュリティ庁)が、連邦政府のネットワークや重要インフラのサイバー防護に責任を持つ。重大なサイバーインシデント発生から72時間以内、ランサムウェア身代金支払いから24時間以内にCISAに報告することが義務付けられ、16の重要インフラ分野に関わる事業体(30万社以上)が対象となる。2021年の大統領令によってゼロトラスト原則の導入が加速し、政府諸機関が体系的な措置を講じている。
英国は、GCHQ(政府通信本部)傘下のNCSC(国家サイバーセキュリティセンター)が、情報収集能力と防御を統合している点が特徴である。NCSCは2016年に設立され、政府、公共部門、産業界、慈善団体、一般市民にガイダンスとサポートを提供する。GCHQは国内外の通信の傍受や暗号解読を担当しており、その経験と技術力をNCSCが活用できることが強みである。
さらに、NCSCは「Active Cyber Defence(ACD)プログラム」を展開している。その目的は「英国の大多数の人々を、大多数のサイバー攻撃による大多数の被害から、大多数の時間保護する」ことであり、サイバーセキュリティツールとサービスをプロバイダとして提供している。セルフサービスチェック(早期警告、メールチェック、ウェブチェック等)、検知(ホストベース、防御ドメイン名サービス、脆弱性開示)、破壊と防御(疑わしいメール報告サービス、テイクダウン・サービス等)など、実務的なサービスを無料で提供しており、NCSCはセキュリティサービスプロバイダーとしての役割も果たしている。
台湾は、現実的脅威に直面し、実戦的対応を取っている。2025年に中国から1日当たり263万回のサイバー攻撃を受け、前年比6%増、エネルギー施設への攻撃は前年比1000%増(11倍)となった。中国の「戦備警戒パトロール」40回のうち23回でサイバー攻撃が同時に増加しており、台湾の重要な式典、高官による重要な談話の発表や海外訪問に合わせて攻撃が集中している。台湾の国家安全局は継続的に分析レポートを公開し、国家安全保障チームや関係政府機関と協力して対策を講じている。
これらの国々と比較すると、日本は縦割り、人材不足、端末管理の甘さという構造的弱点を抱えており、国家レベルでの統合的なサイバー防衛体制の構築が急務である。
3.ハッキングが日本の安全保障に与える影響

外交交渉の先読みリスク
外交交渉において、相手の手の内を知ることは決定的な優位をもたらす。戦間期(1921~1945年)、日本外務省の暗号通信は米国のシギント機関によって概ね継続的に傍受解読されていた。1995年の日米自動車交渉では通産大臣の通話傍受が行われた可能性が指摘されており、2013年のTPP交渉では、米国が開催前から新興国の主張を良く掌握し、会議期間中も必ず盗聴していたと複数の交渉担当官が証言している。
Salt Typhoonによる英国首相側近の携帯電話への侵入は、この種の諜報活動が現在も続いていることを示している。中国は、英国政府の外交方針、交渉の優先順位、レッドライン(譲れない一線)を事前に把握し、自国に有利な交渉を展開できる。日本も同様のリスクに晒されている可能性が高い。
防衛政策・同盟調整への影響
防衛政策や同盟調整においても、情報の先読みは戦略的優位をもたらす。米国内の陸軍州兵ネットワークも9カ月以上にわたってSalt Typhoonに侵害されており、構成情報を抜き取られたほか、米国内のその他すべての州および少なくとも4つの米国領土における同様の部隊のネットワークから送受信されたデータなども収集された。
日本の防衛省も、2025年8月27日に国家サイバー統括室・警察庁を含む複数当局とともに、中国政府支援のAPTが世界の通信・政府・運輸・宿泊・軍事などのネットワークを継続的に侵害しているとの共同注意喚起を出している。日本の防衛政策や日米同盟の調整に関する情報が、中国に筒抜けになっている可能性は否定できない。
選挙・世論操作との接続可能性
サイバー攻撃は、選挙や世論操作にも利用される。2016年米大統領選挙では、ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)が民主・共和両党関係者300人超にフィッシングメールを送付し、米民主党全国委員会(DNC)の内部文書やクリントン候補の選挙対策責任者ポデスタ氏のEメールを盗み、暴露した。攻撃者の狙いは特定候補者の当落にとどまらず、「民主主義への信頼」を損ねることであった。
選挙関連インフラに対してサイバー攻撃があったという「事実」や改竄の「恐れ」だけで、その選挙の信頼性は失われる。日本でも、自民党デジタル社会推進本部が外国勢力によるデジタル情報干渉に対して実効性のある対策を求める緊急提言を取りまとめている(2024年)。
中国は、人民解放軍が実施する非軍事的な戦略的影響工作の体系として「三戦(輿論戦・心理戦・法律戦)」を展開している。輿論戦は、海外/国内の世論、言論空間を操作・誘導し、自国に有利な国際世論を形成する。心理戦は、相手国の意思決定層・国民の心理に影響を与え、威圧、分断、萎縮、諦めさせる。法律戦は、国際法や国内法を自国に有利に解釈・運用する。サイバー攻撃は、これらの三戦と組み合わせることで、より強力な影響力を発揮する。
企業・自治体への波及──サプライチェーン攻撃

サイバー攻撃は、政府機関にとどまらず、企業や自治体にも波及する。特に深刻なのが「サプライチェーン攻撃」である。これは、ターゲット企業に直接攻撃するのではなく、セキュリティ対策に弱点がある関連企業や取引先・委託先企業に攻撃を仕掛け、この企業を踏み台としてターゲット企業に不正侵入する手法である。
一度サイバー攻撃の被害に遭うと、自社のみならずサプライチェーン全体に被害が連鎖し、事業停止や大規模な情報漏洩といった事態に発展しかねない。2025年上半期に国内の上場企業が公表した被害報告では、子会社経由が14件、そのうち12件は海外の子会社経由であった。
日本の製造業で被害が目立つ。2022年2月末(26日発覚)、トヨタ自動車の主要な部品供給元である小島プレス工業がランサムウェア攻撃を受け、3月1日に国内全14工場の稼働が停止した。この事例は、サプライチェーン攻撃の被害を受けた企業が単なる「被害者」では終わらず、サプライチェーン全体に影響をおよぼす「加害者」にもなるジレンマを示している。
4.日本が取るべき対策──「技術」だけでは防げない理由

端末管理とゼロトラストの徹底
日本政府は、政府情報システムでゼロトラスト適用に向けた取り組みを進めている。ゼロトラストとは、「ネットワークの内外を問わず、すべての通信を信頼しない」という考え方であり、権限を制限し、ケースバイケースでリソースへのアクセスを許可する。
デジタル庁は自治体に「ゼロトラストアーキテクチャ」の導入を促進しており、GSS(政府共通実務IT環境)を各府省庁に順次提供している(2024年5月現在で10省庁導入済み)。しかし、境界型防御から段階的に移行するには、予算的問題もあり数年を要する。
端末管理においては、多要素認証(MFA)の導入が不可欠である。また、官邸スタッフに対して、盗聴防止特殊モジュール搭載の携帯電話を支給することも検討すべきである。米国のオバマ大統領が就任後に「バラクベリー」を使用したように、日本の首相や官邸スタッフにも、セキュリティが強化された携帯端末を支給する必要がある。
政治家・官僚の「情報リテラシー」問題
技術的な対策だけでは不十分である。政治家や官僚の「情報リテラシー」の向上が不可欠である。従業員に潜在的な脅威と安全なコンピューティングの実践に関する知識を身につけさせることで、企業はセキュリティ・インシデントの可能性を減らすことができる。研修プログラムでは、フィッシング、パスワード管理、データ保護などのトピックを取り上げるべきである。
政治家や官僚は、携帯電話を通じたやり取りが監視されている可能性を常に意識し、機密性の高い情報は暗号化された公式の通信ルートを使用すべきである。また、プッシュ通知のメタデータからも情報が漏洩する可能性があることを理解し、不要なアプリの通知をオフにするなど、基本的な対策を徹底する必要がある。
国家レベルのサイバー司令塔の必要性
日本のサイバー防衛体制における最大の課題は、縦割り行政の弊害である。2025年7月1日にNISCが「国家サイバー統括室(NCO)」へと大幅改組されたことは前進であるが、真の意味での「司令塔」となるには、さらなる権限強化が必要である。
自民党デジタル社会推進本部の提言(2021年6月)では、NISCの抜本強化と、通信情報利用の適正化などを担保する独立機関の整備が求められている。また、2025年12月23日に閣議決定された「サイバーセキュリティ戦略」では、能動的サイバー防御(Active Cyber Defense)の導入が明記された。これは、攻撃を受けてから対処するのではなく、攻撃の着手段階またはその準備段階において、国が主体的に介入し、被害を未然に防止する概念である。
平時から国が通信情報を監視・分析し、攻撃の予兆を検知した段階で相手方サーバーへの侵入・無害化(ハッキングバックを含む無力化措置)を可能にする法的権限の行使が検討されている。ただし、憲法第21条「通信の秘密」との整合性を慎重に図る必要があり、独立した監視機関の設置が不可欠である。
国際連携──米・豪・NATOとの情報共有
サイバー攻撃は国境を越えて行われるため、国際連携が不可欠である。米国CISAは、2025-2026国際戦略計画を公表し、米国が依存する海外インフラのレジリエンス強化、統合的なサイバー防衛の強化、国際活動における政府機関間の調整の統一を掲げている。国際パートナーと積極的に関与し、支援し、リスクアセスメントを行うことで、グローバルなサイバーセキュリティ標準、規範、ベストプラクティスの採用を促進している。
日本も、自民党デジタル社会推進本部の提言で、日本が特にアジア太平洋地域におけるサイバーセキュリティを主導し、同盟国・同志国と連携しつつ、ASEAN や島嶼国の能力構築支援を進めることが求められている。2025年8月27日の共同注意喚起のように、日本の国家サイバー統括室・警察庁は、米国NSA・CISA・FBI、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、英国、韓国などの法執行機関と協力している。この種の国際連携を一層強化し、脅威情報の共有、共同訓練、能力構築支援を推進する必要がある。
5.まとめ──情報戦の時代に必要な「国家の免疫力」とは

サイバー攻撃は「戦争の前段階」
Salt Typhoonによる英国首相側近の携帯電話への侵入は、単なるサイバー犯罪ではない。これは、情報戦の一環としての「戦略的スパイ活動」であり、戦争の前段階における諜報活動である。 中国は、長期的な戦略の一環として、西側諸国の政治指導者の意思決定プロセスを把握し、自国に有利な外交・安全保障環境を構築しようとしている。
台湾は、中国から1日当たり263万回のサイバー攻撃を受けており、有事を想定し、初期段階でのミサイル攻撃と同時にサイバー攻撃が行われると予想している。日本も、台湾有事が発生した場合、中国から同様のサイバー攻撃を受ける可能性が高い。サイバー攻撃は、もはや「もし起きたら」ではなく、「いつ起きるか」という段階に入っている。
日本の脆弱性をどう克服するか
日本のサイバー防衛体制には、縦割り行政、人材不足、端末管理の甘さという三つの構造的弱点が存在する。これらを克服するには、以下の対策が必要である。
第一に、国家レベルの司令塔の強化である。NCOの権限を強化し、省庁間の調整だけでなく、実際の作戦遂行能力を持つ組織とする必要がある。能動的サイバー防御の導入に際しては、憲法第21条「通信の秘密」との整合性を図りつつ、独立した監視機関を設置し、透明性と説明責任を確保することが不可欠である。
第二に、人材育成の加速である。登録セキスペの目標人数を2030年までに5万人に増やすだけでは不十分である。大学や専門学校におけるサイバーセキュリティのカリキュラムを強化し、専門の研修やトレーニングプログラムを提供する必要がある。また、民間企業の専門人材を政府が積極的に活用する仕組みも必要である。
第三に、端末管理の徹底である。官邸スタッフに対して、盗聴防止特殊モジュール搭載の携帯電話を支給し、ゼロトラストアーキテクチャを政府機関全体に展開する。また、政治家や官僚に対する情報リテラシー教育を徹底し、機密性の高い情報は暗号化された公式の通信ルートを使用するよう徹底する。
第四に、サプライチェーン全体でのセキュリティ強化である。大手企業は、取引先や子会社に対して定期的な注意喚起やポリシーの徹底を行い、中小企業はその要請に応える必要がある。2026年に施行される「サイバー対処能力強化法」では、システム開発や運用にあたるITベンダーと顧客側の役割分担を定めるガイドラインが作成される予定であり、これを活用してサプライチェーン全体のセキュリティレベルを底上げする必要がある。
第五に、国際連携の強化である。米国、オーストラリア、英国など、同盟国・同志国と脅威情報を共有し、共同訓練を実施し、能力構築支援を推進する。アジア太平洋地域におけるサイバーセキュリティのリーダーとして、ASEANや島嶼国の能力構築を支援することも、日本の戦略的利益に資する。
読者への問いかけ──情報安全保障は誰の問題か
情報安全保障は、政府だけの問題ではない。 企業、自治体、そして一人ひとりの国民が、サイバー攻撃のリスクを理解し、基本的な対策を講じる必要がある。パスワードの強化、多要素認証の導入、不審なメールへの警戒など、個人レベルでできる対策は多い。
企業は、サプライチェーン全体のセキュリティを意識し、取引先や子会社に対してもセキュリティ対策を求める必要がある。自治体は、住民情報や行政サービスに関わるデータを守るため、ゼロトラストアーキテクチャの導入を進める必要がある。
情報戦の時代において、国家の「免疫力」とは、政府、企業、自治体、国民が一体となって、サイバー攻撃に対する防御力を高めることである。 技術的な対策だけでなく、組織の体制、人材育成、国際連携、そして一人ひとりの情報リテラシーの向上が不可欠である。Salt Typhoonによる英国首相側近の携帯電話への侵入は、日本にとっても他人事ではない。今こそ、情報安全保障の構造的脆弱性を克服し、国家の「免疫力」を強化する時である。

参考ニュース記事
Salt Typhoon(ソルト・タイフーン)
中国の国家安全部(MSS)との関連が指摘されているハッカー集団。通信事業者のバックボーンなど、インフラへの侵入を得意とする。
APT(Advanced Persistent Threat)
特定の組織や国を長期的・継続的に狙う、高度で執拗なサイバー攻撃集団やその攻撃形態。
環境寄生型(Living off the Land)攻撃
外部から悪意あるソフトを持ち込むのではなく、OS(Windows等)に最初から備わっている正規のツールを悪用する手法。検知が極めて困難
ゼロトラスト
「ネットワークの内部・外部を問わず、全ての通信を信頼しない」という前提に立ち、常に認証と検証を繰り返す最新のセキュリティ概念。
メタデータ
メール本文や通話内容そのものではなく、「誰が・いつ・どこから・誰に」送ったかなどの周辺情報。
ゼロデイ脆弱性
ソフトウェアの開発者も気づいていない、修正パッチが提供される前の未知のセキュリティ上の弱点。
サプライチェーン攻撃
ターゲット企業そのものではなく、その取引先や委託先などを足がかりに侵入するサイバー攻撃。
能動的サイバー防御(Active Cyber Defense)
攻撃されてから守るだけでなく、攻撃の準備や初期段階で国などが先回りして妨害・無力化を図る防御手法。
ログ
システムや端末で起きた操作やアクセスの履歴を記録したデータ。異常の発見や原因調査に使われる。
インシデント
サイバー攻撃や情報漏えいなど、セキュリティ上の問題や事件の総称。
