誰かの〈居場所〉自分という〈居場所〉
人は誰しもが誰かにとっての〈居場所〉であって、知らず知らずのうちに誰かにとっての救いになっている。
ロマンチックでしょ。あまりにも美しい物語なので「いやいや、そんなことないんじゃない?」って思ったりもするよね。僕ですら「綺麗事すぎてちょっと疑わしい」と思うもの。
だけど、この手のロマンチックな言説も、10年以上福祉の現場で対人支援職をやっていると「まあ…? 確かにそういうもんかもね…?」という手触りがあったりもする。嘘みたいな本当の話、というか。
結局のところ人同士って、その大部分が相性みたいなところがある。他者を寄せ付けないようなピリピリとしたオーラを放っている人や、四肢不自由で口語での意思表示すらままならない人にだって、誰かにとっての救いになっている。誰かの〈こころ〉が誰かの〈こころ〉をほぐす瞬間を、僕は(こっそりと)たくさん見てきた。
だからきっと、僕という存在もまた誰かの〈居場所〉になっているのだろうな、と思う。救いのように大袈裟なものじゃなかったとしても。
じゃあさ、じゃあさ。
僕はどんな人にとっての〈居場所〉になれるんだろう?
どんな人を自然体にしたいのか

僕は美しくも不自然なフィルターをかけた〈映え〉的な物語より、〈泥臭ささ〉や〈人間くささ〉が殺菌消臭されていない生っぽさが好き。
いまからちょっと口が悪くなるのですが、ありのままの本音をぶつけますね。
気取るなよ。生成AIで平均化しようとしたりするな。
なめらかになるな、ざらざらとしていてくれ。尖っているところを隠そうとするな。〈平均的なもの〉を美しいとするならば、美しくないところこそにあなたらしさが宿っているじゃないか――。
と、声を大にして叫びたい。
どんな人を自然体にできる可能性がある?
人の不器用さや複雑さを、できるだけありのまま受け入れたいという姿勢を持ち続けていることが僕の強みだと思う。
社会的規範によって誰かの営為を安易にジャッジしない姿勢は、もしかしたら誰かの少しアブノーマルな部分を癒せる、かも。
男の人が〈猥談〉する場所ってなると、マウンティングベースの揶揄じみた居酒屋的語りがほとんどで、心理的な安全性を担保された〈猥談〉ができる場所ってほとんどないと思うんだ。
— ピカット(っ˙˘˙)っ🍖📚|読書垢 (@Hal_capi3) August 11, 2026
人はぜんぶ平均的というわけにはいかないし、どこか世間からズレている点が誰しもどこかしらにある。でも、それがその人の愛おしさではないか。
そんな愛おしさをありのまま受け入れられる人でありたい。僕という〈居場所〉は、そういう心理的なニーズを満たせる存在であれたらよいな。絵空事かな。
僕という人間が醸し出す雰囲気にはどんな性質があり、どんな人を自然体にできるのか。逆に僕という存在は、どんな人に背伸びを強いて、どんな人を過剰に飾り立てるのか。性急に答えを出さず、ゆっくりと考えていきたいね。
