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山あいの民宿「かすみ草の咲くころ」【短編小説・読切】

六月の終わり。

一台の黒いセダンが、「ひだまり」の駐車場へゆっくり入ってきた。

運転していたのは六十代半ばほどの男性だった。

車から降りると、大きく息を吸い込む。

「いい空気ですね。」

「夜は、もっと静かですよ。」

私はそう答えた。

男性は庭を見渡し、小さくうなずいた。



夕方、玄関先を掃いていると、男性が庭で足を止めた。

「かわいい花ですね。」

白く小さな花が風に揺れている。

「ああ、かすみ草です。」

「毎年、この辺によく咲くんですよ。」

男性はしゃがみ込み、しばらく眺めていた。

「花言葉なんかも、あるんでしょうね。」

「あるみたいですよ。」

「詳しいことは、おばあちゃんの方が知ってます。」

縁側のおばあちゃんと目が合った。

何も言わず、湯のみを包むように持って、小さく笑っている。



夕食には山菜や川魚、それに料理長自慢の猪肉の煮込みが並んだ。

料理長が徳利を置く。

「今日は伯楽星と、愛宕の松だ。」

「飲み比べてみるか。」

男性は盃を手に取り、嬉しそうに笑った。

「これは、うれしい。」

「どちらも好きなんです。」

料理長が目を細める。

「料理に合わせて選んだからな。」

「明日は栗団子、予約しとくか?」

「ぜひお願いします、そのためにに来たようなものですから。」

食卓に笑いが広がった。



二日目の夜。

共同浴場へ向かう途中、小さな男の子が父親と歩いていた。

「大きくなったら何になるんだ?」

父親が尋ねる。

「大工さん。」

男の子は迷わず答えた。

「ぼくが作った家で、みんなが笑ってたら嬉しい。」

男性は足を止めた。

湯けむりの向こうを見つめたまま、しばらく動かなかった。



翌朝。

縁側でお茶を飲みながら、男性がぽつりと話し始めた。

「三十代で会社を興しました。」


「家族を楽にしたかった。」

「社員にも苦労はさせたくなかった。」

「それだけだったんです。」

娘さんが結婚したいと連れてきた相手は、仕事で付き合いのあった行政書士だった。

私は言った。

『うちへ来なさい。待遇は悪くしない。』

「良かれと思っていました。」

「でも娘は、『勝手にして』と言って家を出ました。」

風が吹き、庭のかすみ草が静かに揺れる。

男性は湯のみを見つめたまま続けた。

「私は話しているつもりでした。」

少し間を置いて、

「でも、一度も娘の話を聞いていなかった。」

私は返事をしなかった。


沢の音だけが、ゆっくり耳に届いていた。



帰る朝。

母が紙袋を手渡す。

「栗団子です。朝、届けてもらいました。」

「ありがとうございます。」

男性は大事そうに受け取り、車へ向かう途中で、もう一度かすみ草を見つめた。

「花言葉、調べました。」

私は振り向く。

「感謝。」

「幸福。」

少し照れたように笑う。


「無垢の愛…だそうですね。」



車が見えなくなるまで見送ってから、私は庭へ出た。

風は止み、かすみ草も静かだった。

花の足元には、小さな白い羽が一枚。


鳥の羽かもしれない。

風が運んできただけかもしれない。


私はそのままにして、山を見上げた。


縁側から、おばあちゃんの声がした。

「きれいだったねぇ。」

私は小さく会釈をして、玄関へ戻った。




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