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短編小説 : ロシュー

トロンボーンに欠員が出た。

「わたし、やりたいです」

少しだけ嘘。消去法でわたしだと思った。トランペット・パートの中ではわたしが一番体格が良いから。中学のころトロンボーンは触っていたし、遊びで吹いたこともあった。

遅れる。

重い。スライドに慣れない。気を取られて音が遅れる。「遅れるなあ」と独り言を何度か繰り返す。すると、彼が言を拾ってくれた。

「早くなるよりいいと思うよ」

「そうなの?」

会話したことあったかな、くらいの彼はトロンボーン組の中で一人だけ居残り練をやっている彼。無口な印象。静かな印象。一人でいること多。

「ちゃんと今の音を。重くなく、軽くなく、ちゃんと今の音を出す」

「ん?」

「そうすれば、次の音はちゃんと繋がる。中学の先生の受け売り。遅れたら焦らない」

「ほお。焦るなと」

いい先生だなと思った。たしかに上手く行くときは焦ってない。コルネットならバルブはわたしの指みたいに動く。ブレスは声みたいに楽々。その域までは遠いなトロンボーン。楽しさもあるけど練習しないと。「いい先生だね」。わたしはスライドを引っ込めて片側をケースに支えてもらう。彼もそうした。

「変な先生だったよ。おもしろかった。でも、自分でやってみて納得したんだ」

「ふうん、お手本、見せてみてよ」

わたしがそう言うと、彼は少し笑って、それからゆっくりとトロンボーンを構えた。彼が選んだのは ロシュー「メロディアス・エチュード」。声楽のために書かれた、この上なく流麗な練習曲。

彼が息を吸う。

そのブレスは、彼が言った「重くなく、軽くなく、今の音」を、そのまま体現するようだった。迷いなく、ただ、今の音を出すためだけの完璧な呼吸。彼がスライドを滑らせた瞬間、トロンボーンから、アルトになったケイティ・ペリーみたいに華やかな、濃密な、けれど散歩のように軽い音が流れ出した。

スライドは蛇みたいにうねうねと動く、けれど時計のように正確だった。音は流れて一つなのに、女子たちのおしゃべりみたいにぺちゃくちゃ弾んでいた。彼のトロンボーンは歌っている。わたしに向けて歌っていた。

わたしの今は、彼に奪われていた。焦りに似た感情がわたしを彼から遅らせる。わたしのバカ! もっと早く顔を背けるべきだった。きっとわたしは、バカみたいな顔で彼を見ていたはずだから。



#創作大賞2026
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