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「承認欲求」ってラベル、正しいの?

「承認欲求」というのが僕にはピンとこないんですよ。

他人から賞賛や同意を得たい、こういうことだと思うのですが、それは嘘の賞賛でも良いのでしょうか? たとえば、noteだとスキがありますけど、コンテンツに対してのスキなのか、返礼のスキなのかって分からないじゃないですか。

「100の返礼スキより一つのコメントが欲しい」そういうのもありますよね。あと「賞賛じゃなくてもいい。非難や嫌悪であろうと反応があればいい」というのもあります。炎上ですね。これも承認欲求なのでしょうか?

僕にはよくわかりません。

ここで、関連するかもしれない引用をします。
精神分析家ジャック・ラカンの言です。

「我あり」へ翻るものとしての「我思う」が目指すもの、それは一つの現実界です。しかし、真実は相変わらず外部に止まっていますから、次にデカルトは確保しなくてはなりません。何を、でしょうか。騙すことのない<他者>、さらにいうと、それが存在するというだけで真理の基礎を保証することのできる<他者>、彼が確保したばかりのその現実界そのものによって真理の次元を見出しうるために必要な基礎が彼自身の客観的理性のうちにあることを彼に保証することのできる<他者>を確保しなくてはならないのです。

ジャック・ラカン「精神分析の四基本概念」より引用

これは、哲学者デカルトの「コギト」についての文章です。

「我思う、ゆえに我あり」

ラカンは、このコギトが成立するためには条件が必要だと書いています。
その条件とは「この我が、狂っていないこと」です。

まあ、そりゃそうです。「ワレオモウ」と言ってる人の思考回路が壊れていて無茶苦茶だったらコギトは成立しません。なので、全知全能の神に「あなたは狂ってませんよ」と教えてもらわなくちゃならない。そういうことをラカンは言っています。

現実に神は見当たらないので、僕は僕が狂っていないことを誰かに証明してもらわないといけないのですが、この場合は医者に聞けばいいと思います。

ですが、哲学的には、この医者が狂っていないことを誰が証明すんの? という問題があります。学会が証明する? 選挙で選ばれた総理大臣や大統領が証明する? じゃあ、その大統領が狂ってたらどうするの?

こんなわけで、人の知性は「誰かに「私って狂ってないよね?」と聞かなきゃいけない」という強迫下にあることは、構造的に言えます。

現実に「私は狂ってないよね?」と他人に聞くとヤバイ人と思われちゃうので、こうなります。

「私の言ってることわかる?」
「僕の書いてること通じてるよね?」

通じてる。
現実での落としどころとして「話が通じる」をもって「私たちは狂っていない。私は正常だ」とする。これは僕にとって納得できる話です。

もし、僕が名付けるとしたらこれは「通信欲望」です。

この通信欲望が、赤の他人の集合地であるSNSで発揮されるとき、「承認欲求」と呼ばれるものになるのだろうか?

僕はそんな風に考えたりしています。




少し考えを進めると

「私たちは正常だ。私は正しい」
通じるときはこうですが、あまり通じないときに、こうなってしまいそうです。

「あなたは正しくない」
「あなたたちは異常だ」

己に「私が狂っているのではないか?」 と疑いを向けるのではなく、通じない相手へ「あなたが異常なのだ」としてしまう。日常生活の中で、僕たちは多くの「通じる成功体験」を持っていますから、これは自然な成り行きと思われます。

「通信欲望」を用いると、SNSなどで起こりがちな分断を上記のように説明することが可能です。翻って「承認欲求」という言葉は、自己愛の充足ばかりへ目を向けさせ、その根底にある「正常さへの強迫」を覆い隠しているのではないでしょうか。

もし、SNSが単なる褒め合いの場ではなく、互いの正気を担保し合うための綱渡りのような場所なのだとしたら。僕たちが本当に恐れているのは、他人に認められないことではなくて、誰にも「通じない」という暗闇の中で、自分を見失うことなのかもしれません。



#創作大賞2026
#エッセイ部門


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