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ジャック・ラカンと「盗まれた手紙」

0.デュパンの怒りについて

私は「盗まれた手紙」(エドガー・アラン・ポー)を読み終えて、どうにも腑に落ちないところがありました。それは物語の終盤で炎のように噴出された、デュパンからD大臣へ向けられる激しい怒りです。

あの男は monstrum horrendum だ。破廉恥な天才だ。

「盗まれた手紙」より
*探偵デュパンの台詞


物語の最後の最後で、かつてデュパンは大臣にひどい仕打ちをされた、と明かされるのですが(たった一文で、簡素に表明されます)、これを動機の全てとするには、彼の激しい怒りは、釣り合いの取れないものと私には思われました。

このデュパンの激しい怒りについて、フランスの精神分析家 ジャック・ラカン はこう記しています。

このようにして、デュパンは彼のいる場所から、そう尋ねる人物に対して明白に女性的な性質をもった激しい怒りを感ぜずにはいられないのです。

「<<盗まれた手紙>>についてのゼミナール」より


「デュパンは激しい怒りを感ぜずにはいられない」

怒りの動機の捜索。
私は警察の流儀に従って、ポーの「盗まれた手紙」とラカンの「<<盗まれた手紙>>についてのゼミナール」を隅から隅まで調べます。どこかに「デュパンはXの理由で激しく怒るのだ」と書かれていないか。しかし、そのような文字 letter はどこにも見つけることができませんでした。

しかし、幸運なことに「盗まれた手紙」は、このような捜索がうまくいかない場合におけるとっておきの解決方法を、作品それ自体の中で示してくれています。それは、優秀な探偵に依頼するという方法です。

探偵たちは私に告げます。

事がらがあまり単純なので、それがかえって、あなた方を当惑させているんだな。

「盗まれた手紙」より
*探偵デュパンの台詞

このように盗まれた手紙も女性の大きな身体と同様に、デュパンがそこに足を踏み入れたとき大臣の事務室のなかいっぱいに身を横たえていたのです。

「<<盗まれた手紙>>についてのゼミナール」より


彼らの言葉どおり、私が見つけられない怒りの動機Xもまた、単純に、無防備な姿で、そこにさらされていたのではないか。彼ら優秀な探偵の助けによって、私は「盗まれた手紙」の全体を、その構造をもう一度見てみようと思わされるのです。

***

「盗まれた手紙」の全体を俯瞰すれば、そこにあるのは反復、繰り返しです。ラカンが整理するように、第一に 王-王妃-大臣の場面が原図として、第二に 警察-大臣-デュパンの場面がそのコピーのようにして現れます(ラカンは、物語中の「手紙を盗まれたご婦人」を王妃、彼女が手紙を見せたくなかった「高貴な方」を王としています)。

しかし、第二の場面は完全なコピーではありませんでした。

第一の場面では、王妃は大臣が手紙を盗んだことを知っています。加えて王妃は、大臣がどのような性格の人物かも知っています。実際、後者の重みによって王妃は実害をこうむっています。なぜなら、もし大臣が「男としてふさわしくないことでも」「なんでも思い切ってやってのける人物」ではなくて、慈悲深く優しい善良な人物であったなら、王妃は彼を訪ねて「あなたはわたし宛の手紙を間違って持っていきました。返してくれますか」と言えばことは済むからです。

第二の場面で、大臣はこの重みを知りません。大臣は誰が手紙を持ち去ったのか知らない。そいつがどんな性格の奴かを知らない。やがてデュパンはこのズレを解消して完全なコピーへと導き、それによって大臣はもう一つの地獄に落ちるはめになります。大臣が落ちる地獄は二つあります。一つは現実に権力を失うこと。もう一つは盲目へと落ちること。盲目に落ちていたのだと気づかされることです。

大臣は知らない。

王妃は知っていたのに大臣は知らない。まさに王妃は知っていたからこそ、その知の重みによって身動きできなかった。この重荷がなければ王妃は軽やかな足取りで大臣を訪ねて行って「手紙を返してよ」と言えたはずなのに。王妃を押しつぶしていたこの重荷は、少しの遅延を経て、あるべきところに戻されます。デュパンから大臣へ宛てられた手紙がそれを遅ればせながら担うので物語はおもしろいわけですが、私はその重さを量るために一つの操作を試みたいと思います。それは、この少しの遅延を強制的に解消するという操作です。

大臣がデュパンを招き入れた場面に、かつての王妃が抱いた知を、彼女の警戒と恐怖を、ここで担うべき人物に背負わせてみます。「(やや!デュパンがやってきたぞ。彼は明晰さで知られる人物だ。まずいな。彼は間抜けな警察と違って、俺の企てを見破ってしまうかもしれない)」。

翻って、実際のところは、大臣は無警戒にデュパンを招き入れてしまいます。無能な警察を招き入れるのと同じようにです。

大臣は不当にもデュパンをみくびっていたのです。

このようなぞんざいな扱いは、デュパンの心情を燃え上がらせるのに十分ではないでしょうか。そして、炎の糧となるこの扱いの不当さへ、さらに薪がくべられます。かつてウィーンでデュパンは大臣に「この恨みは忘れないぞ」と letter を叩きつけました。そこには当然「お前も決して忘れるなよ」という裏書があったはずです。にもかかわらず、大臣はデュパンのことをすっかり忘れてしまっている。私はここに恋慕のようなものを見ます。「僕を忘れないでいて」。ラカンがデュパンの怒りについて加えていた修飾が思い起こされないでしょうか。

***

探偵の作法で、あるいは、丁半ばくちの天才少年のやり口を自分なりに真似てみたりして、私たちは警察の流儀では見つけられなかった「デュパンの怒りの理由X」を手にすることができました。しかし今、私たちに共有されると思われる居心地の悪さについて述べて、もう少しだけデュパンの作法を追ってみるのが適当と思われます。

しかし、もし彼がいわゆる勝負師であるならば、自分の手を公開する前に最後に自分のカードを調べるはずです。そしてそこに自分の手札を読んで、面汚しを避けるために頃合いをみてテーブルを立つに違いありません。

「<<盗まれた手紙>>についてのゼミナール」より

現在の場合では、僕は降ってゆく者にはなんの同情も__少なくとも憐憫も__持っていない。

「盗まれた手紙」より
*探偵デュパンの台詞


居心地の悪さとは、私たちの場所についてのものです。
私たちは最初にまず警察でした。そして探偵のつもりになってやってみたわけですが、警察と探偵に挟まれた「大臣」の場所を飛び越えるわけにはいかないだろうという予感があります。果たして、盗まれていたのはXだけなのでしょうか? それを探し当て慢心している私の隙をついて、デュパンのような抜け目ない誰かが、もっと大切なYやZを掠め取ってはいないでしょうか?

この警戒と恐怖を記述したうえで、デュパンの去り際までを追ってみましょう。彼はこう言って賭けのテーブルから降ります。「(現在の)僕は、かの者になんの憐憫も持っていない」。いいえ、かつてのデュパンはそれを持っていました。デュパンは「僕を忘れてくれるな」と大臣に執着していたのですが、それを捨てたと語ります。ラカンが指摘するように、面汚しにしかならない自らの手の内のカードを読んで、今がまさにそれを捨て去るべきときだと悟ったのでしょう。特に優れた探偵は恋の終わり方さえ指南できるということです。

探偵は最後通牒と呼ぶべき手紙をかの者に送った後で、彼の現在の場所と、その場所への行き方を、まさに今それを求めている我々読者に開示するという望外のアフターサービスを含めた大仕事を終えました。

***

現在の私はラカンの letter を眺めています。

手紙というものはいつも送り先に届いている

「<<盗まれた手紙>>についてのゼミナール」より


確かにその通りだと私は同意します。
警察には少なくとも警察に宛てられた手紙は届きます。物語では、哀れな警察にふさわしい「無能さという限界」が届いてしまったわけですが。少しの遅れはあったものの大臣には彼宛の手紙が届けられました。デュパンの場合はというと、彼は忌まわしい手紙を別の紙(小切手)と交換してまず一つ片づけました。もう一つの方は、私はいつか大臣がやぶれかぶれでデュパンを殴りに来やしないかと心配してしまうのですが、デュパンの(それにポーの)大仕事の前で、そんな心配をするのは大きなお世話だと心得ています。

「手紙はいつも送り先に届いている」。誰かがこう換言していたはずです。「文章を読むということは、それが何であれ、自分を読むことである」。

私は、ラカンの letter が誰に宛てられたのかを考えながら、ぼんやりと、彼の「ゼミナール」とポーの「盗まれた手紙」を読み進めてみたいと思うのです。

***


1.誰が探偵になれるのか

われわれが今日あなた方に向かって説明しようと考えているのは、(中略)主体に対して構成力をもっているのは象徴界の秩序であるということなのです。

「<<盗まれた手紙>>についてのゼミナール」より
(*引用文中の略記・中略は筆者による。以下同様)


警視総監はどうすれば探偵になれるのか? 警察が手紙を探しあてるにはどうすればいいか? だって? そりゃ無理さ。あたりまえだろうよ。警察は犯罪を犯せない。デュパンも大臣もやったことは結局は万引きだ。警官にできることじゃない。秩序を保つのが彼らの仕事と善良な市民の義務じゃなかったらカオスだろ。

たまに警官も犯罪を起こしてニュースになるだって? そりゃ例外だろうが。例外じゃなかったらこの世はおしまいだ。そうだ、そうさ、警視総監があの手紙を自分で見つけたかったら例外になりゃいい。まあ探偵というのはほとんどイコール「例外」なのだが。すまんね。退屈な同語反復で。

作り話の存在そのものを可能にしているのがこの真実だということは注意しておきたいと思います。(中略)物語はそれが任意性に支配されていると信じることができるだけ、いっそう正確に象徴の不可避的な性格を明らかにするという利点さえもっているのです。

「<<盗まれた手紙>>についてのゼミナール」より
*先の引用に続けて記述される


じゃあなぜ、君たちが前回の謎解きにおいては警察から探偵になれたのかだって? それはあんたが警察でも探偵でもなくポーの小世界を俯瞰した読者だからだろう。デュパンの背後にポーがいて、ポーの隣にラカンがいる。彼らの小さな世界を前にして、あんたの背後にはかのイヤらしい A がいるぞってわけさ。ラカンによればね。そんで背後にいるそいつをブチャラティがぶっ壊す!スティッキィーフィンガーズ!ブチャラティだよ知らんの?ジョジョ5部のラスト読んでないの? 自分の背後にある光を叩き壊して決定された運命にあらがうんだよ。まあその前にブチャラティは死んでるんだが。

地続きじゃないんだあたりまえだろう。うちはウチソトはそと。チソがその間ってわけじゃない。一歩一歩登った坂の先に求める手紙はないんだ。マーサー教じゃないんだから。警察は警察。探偵は探偵。それが秩序だ終了おわりはい解散。それでいいじゃないか?よくない? 君もしつこいね。じゃあ言わせてもらうが。過程をすっ飛ばして答えだけ求める己の知性に嫌気がさすまでは、結果を隠して教えないやつらの首根っこ捕まえて銃を突きつけて脅せばいいじゃないか。「お前はだれだ?」さあ答えろ応えろよ 3、2、1。「お前こそだれなんだ?」。ズドン。はい答えは闇のなか。疑問文に疑問文で答えるとテスト0点知能空っぽのルール。応えているから本当は100点満点なんだがね。「お前のルールなんかに従うものか」ってさ。

いや、僕は死ねと言ってるわけじゃないが、警視総監が手紙を見つけたいならそのくらいの覚悟で、まあなんだ、転職でもしなきゃならんということだ。

そもそもだ。読んでみろよ、この始末だぞ。

総監は狂気せんばかりにそれをしっかりつかみ、震える手で開いて、その内容を大急ぎでちらりと見、それから扉の方へよろめきよると、とうとう無作法にも、さっきデュパンが小切手を書いてくれと言ったときからひと言も口をきかずに、部屋から、そして家から跳び出して行ったのであった。
彼が行ってしまうと、デュパンは説明をしはじめた。

「盗まれた手紙」より


ほら、警視総監はお望みの手紙を探偵から受け取ったら帰っちまったぞ。探偵の謎解き解説を待たずにな。彼はこれっぽっちも事件の謎なんか興味ないのさ。見てみろよポーの筆致を。彼は探偵の種明かしになんぞ一瞥だってくれてやらない。実に鮮やかだ。心地よいほどの俗物っぷりだ。総監こそ結果だけを求め過程をすっ飛ばすキングクリムゾンの使い手だったというわけよ。

警視総監は謎解きなんて望んでいない。どうして自分らが手紙を見つけられないのかなんてどうでもいいんだ。彼の望みは別のところにある。彼のちいさな頭を占めているのは、あの美しい王妃を苦しめている手紙を一分一秒でも早く届けてあげたいってことだけよ。つまりそういうことさ。わかるだろ? その純粋一途な思いに比べたら目の前の奇妙な男がどうやって手紙を見つけたかなんて心底どうでもいいんだ。そんなのに一片の価値もない!ああ愛しい王妃よ!もう少しだけ待っていてください!あなたの騎士たるこのわたくしがすぐに馳せ参じます!

まだわからないのか?

警視総監は探偵じゃない。警察は決して探偵になれない。しかし、一人の男として、彼は一流の探偵だったってことさ。

じじつ、そもそも原初的な性格をそなえている女性の語り手が置かれていた極端な状態は、彼女が事件の性質を変えることを拒んでいたとしても、警視総監がここで彼女に言葉をかけるとしたら、それはいわば、彼がすでに札つきとなっている想像力の欠如という資格でそうする以外にはないのだと信じるのは誤っているでしょう。

「<<盗まれた手紙>>についてのゼミナール」より


まず大前提だ。なんで警察は大臣を牢屋にぶち込まないんだ?盗人だぞ奴は。答えは次の疑問文だ。どうして王妃は警察なんかに捜索を依頼したんだ?王の番犬だぞ彼らは。彼女は王から隠し通さねばならんのだろう?警察に頼むわけがないじゃないか。事態はまったく逆だ。彼らの鼻に嗅ぎつかれないように王妃は細心の注意を払わねばいかん。警察だけじゃないぜ。なにしろ宮殿にいるのは王に忠誠を誓った臣下たる目や耳や口たちだからな。まさに王妃は四面楚歌。彼女の味方なんて誰もいないはずなんだ。

というのも、この真実味がわれわれのところへ届くまでの、二重の、いや三重のフィルター、つまり、(中略)デュパンの友人、腰巾着による話---それから警視総監がこれによってデュパンに知ってもらう話---それはつまり<王妃>がデュパンに対して行う報告ですが、これはただの偶然の配列の結果がそこにあるのだと考えるわけにはいきません。

「<<盗まれた手紙>>についてのゼミナール」より


王妃は警察に手紙の捜索を依頼していない。できるわけがないんだ。だから「盗まれた手紙」という物語は始まらない。じゃあ、いったい誰がこの重くて動かすことのできない物語を転がし始めたんだ?

「お、王妃さま」
「失礼ですが、もしやお身体の具合が悪いのでは?」
「いえ、ご様子が、その、いつもと違っておられたので」

そう、声をかけたのは警視総監の方だ。まあ、ほかの世界線もこの秩序の元で想定可能ではあるのだが。物語の始まりに必要な力を自然に満たすのが、こうさ。

「わたくしは何があっても貴女の味方です」
「わたくしはあなたの秘密を死んでも守ります」
「たとえそれが王への裏切りになるとしても」
「さあ、すっかり打ち明けてほしいのです」

王妃の肩をもち王を敵に回すこと。王妃と警視総監が共犯となるのが、物語が始まるための条件だ。

最後の疑問文だ。
なぜ警視総監は王妃の秘密に気づいた?彼女の地位と名誉をそこに賭けた必死の演技を見破って、なぜ総監だけが真実をつかむことができたんだ? もう一度言うぞ。彼は警察である前に一人の男として、一流の探偵だったのさ。

「わたしには手に取るようにわかる」
「麗しい貴女の宝石のような瞳に」
「かつてなかった影がさしている」
「それはわたしに告げている」
「助けて、と」

警視総監は王妃のストーカーだったって? 別にそうでも構わんが、詩人ならこう語るだろう。恋人たちの間には、それが一方的であったり妄想的であったりする場合でも、そこには彼と彼女の間でだけ成立するような、秘密の言語が存在する。深い愛のなかで一人の男だけが受け取ることができた手紙 letter 。僕はこの letter を学識と呼びたいよ。どんなに高名な研究者であったとしても、こと王妃研究にかけて総監の右に出るものはないだろう。

かくして「盗まれた手紙」と呼ばれる物語は、警視総監の恋によってはじまり、デュパンが大臣に向けていた恋心を捨てることによって終わるのさ。美しいラブストーリーだと思わないか? 僕はこの物語に恋してるよ。これでわかったろう?恋は盲目なんて言われるが実際にはその燃える熱情のなかでだけ捉えられることがある。警視総監は無能な警察だったかもしれないが、彼の愛はもっと大切な始まりの letter を捕まえていたんだ。ハッピーエンド。これでいいと思うだろう? そう、君も恋をすべきだ。おおいに僕たちはそれをするべきなんだ。こんな素晴らしい物語を前にしたらそう思わされるだろう?

なんだって? 君には恋人もいないし好いている誰かもいないだって? ばか言っちゃいけないよ。いるじゃないか素晴らしいパートナーが。君はそいつと長年連れ添ったせいでお互いをすっかり空気のような存在と思い込んでいるだけさ。

***


2.デュパンの敗北と探偵ラカン

こんにちは。またお会いできて光栄です。

探偵デュパンの敗北について記述する前に、少しだけの回り道をさせてください。もし読者のなかに、まだ「盗まれた手紙」にあたっていない方がいらっしゃるなら、ぜひ、この素晴らしい短編小説に触れてみることをお勧めします。私の文章を読み進める必要はありません。リンクはこちらです。AIによると1時間もかからずに読み終えられるそうです。これからポーの作品に触れるあなたの幸運に私は嫉妬さえ感じてしまいます。それでは、いってらっしゃい。

「僕は思うんだがね――G――、あなたはこの事件に対してまだできるだけ――骨を折ってはいないようですな。あなたはもうちっと――やれたと僕は思うんだがな、え?」

「なあにね、――パッ、パッ――あなたは――パッ、パッ――この事件について人の意見を用いたらよかったろうにね、え? パッ、パッ、パッ。――あなたはアバニシーの話を覚えていますか?」

「盗まれた手紙」より
*G警視総監へのデュパンの台詞


パッ、パッ。これはデュパンがパイプを吹かしている音と思われます。デュパンはくだんの手紙を手中に収め、事件を解決して、警視総監にそれを渡す前にこのありさまなのですが、とても失礼な態度です。そして、彼は物語の中でここでだけ ――パッ、パッ―― をやっています。いつもこんな態度をとっている礼儀知らずではないのです。それがデュパンの苛立ちを、そして敗北を告げる鐘の音 letter なのですが、それは同時に私にも敗北をつきつけています。

結論から述べます。デュパンは警視総監に騙されていました。

この詐欺事件を、いったい「盗まれた手紙」にはいくつの事件が重ねられているというのか、私はクラクラしていますが、この事件群を順序立てて扱うために三人の探偵を仮設し、彼らの助けを得ながら解決を試みています。三人の探偵とは、まず物語の探偵デュパン、そして「1.誰が探偵になれるのか」の語り手(イチ、と名付けます)、そして「0.デュパンの怒りについて」の筆者であり、今この文章を記述する私(レイ)です。

まず、レイが見落としていたもの。これは過去の私に届かなかった手紙ですが、それは「盗まれた手紙」という物語の背景にある単純な派閥対決の構図です。それは王派と王妃派の対決です。文言を単純にするためだけに、王派=正義、王妃派=悪として、正義と悪の対立図にしておきます。

王派と王妃派の対決についてはイチが語ってくれました。公的には警察と警視総監は王派=正義に属しています。しかし、ゆえあって(ゆえについては「1.誰が探偵になれるのか」の探偵イチにゆずります)警視総監は王妃派に寝返ります。公的には正義、私的には悪という二重性がデュパンを騙すわけですが、さらに「彼を騙したのは彼の知性だ」と付け加えないわけにはいきません。デュパンは警視総監がどのような人物であるか、その性格をよく知っていたはずです。

我々は心から彼を歓迎した。この男には軽蔑したいところもあるが面白いところもあったし、それに我々はここ数年間、彼に会わなかったからである。

「盗まれた手紙」より


デュパンとその友人は警視総監との再会を喜んでいます。そして別の個所でデュパンの友人は総監を「善良な紳士」と表現しています。彼らは「総監は善良な人物であるから、私たちを騙す詐欺師であるはずがない」というごく自然な論法に浸っていました。

探し物が見つからず悲嘆に暮れている善良な紳士の背中を見送って、デュパンはこの紳士、警視総監に代わって当の手紙を奪還しにゆきます。ここで注意しなければいけないのは、デュパンは己の行動が、王派と王妃派の対立図上に位置することを、少なくともはっきりとは知らなかったという事実です。

実際に、警視総監は(実は私的な性格の)困りごとをデュパンに相談するときに(実はこれも私的相談であって事件解決依頼では決してない!)、王妃がどうであるとか王様がこうであるとかとは、一言も口に出していないのです。

その盗み方は、大胆であるとともに巧妙でもあったのです。その書類は――うち明けて申せば、手紙なんですが――その盗まれたお方が、王宮の奥の間にお一人でいらしたときにお受け取りになられたものです。そのご婦人がそれを読んでおいでになるときに、もう一人の高貴な方がふいに入って来られた。ところが、そのご婦人は、その手紙をとりわけその方には見せたくないと思っておられたものなんですな。

「盗まれた手紙」より
*G警視総監の台詞


探偵デュパンは知らなかった。

手紙を奪還するという自身の行いが、自身を、王妃派=悪の陣営の人物として立脚させてしまうことを知らなかった。さらにまずいのは、この行動が警視総監の依頼を受けてのものではないことです。総監は相談しに来ただけで頼んでなんかいない。助言を求めただけで行動を求めたわけではないのです。手紙を奪還したのはデュパンの独断行動であって、よく言って親切な先回り、あえて悪く言えば大きなお世話なのです。ですから、デュパンはこう嘆くこともできません。

「僕はあいつに騙されたんだ。この手紙が王妃の裏切りの証拠だなんて知らなかった。あいつが、警視総監がとってこいって頼むから、とってきただけなんだ」

違います。デュパンが勝手にやったことです。

警視総監が探偵宅を訪ねて未解決事件の経緯を話す。デュパンは当然これを解決依頼と認識します。我々読者もそう認識します。そして警視総監が警察を代表する人物であるという事実によって、デュパンは当然これが正義の行いだと認識します。我々読者もそう認識します。しかし、すべて誤認だったのです。

そして過去の自分たちが予測できなかった思いがけない結果がドアをノックしています。私たち読者はどうってことありませんが、デュパンを襲うのは深刻な事態です。手紙を警視総監に渡すことによって、デュパンは悪に加担した裏切り者となってしまいました。彼が手紙を王妃派に渡さずに、王派へ届けるという「王を裏切らない」世界線も仮定でき、その場合の王妃、警視総監、大臣といった人物たちの顛末を予測してみるのも面白いですし、デュパンの脳裏にも一瞬それがよぎったはずです。ただ、ことの自然な成り行きは、悪気のない詐欺師へ例の パッ、パッ を食らわせる場面となるのだと私(レイ)は思わされるのです。デュパンはアバニシーを持ち出して警視総監に鏡を突きつけるのを忘れてはいません。ここにも反復、繰り返しがあります。その端っこは繋がれてパイプの煙のようなみごとな輪っかになりました。

***

さて、ポーによる特別に美しい物語「盗まれた手紙」と、それを題材にしたジャック・ラカンによる論評「<<盗まれた手紙>>についてのゼミナール」が我々読者の目の前に何を差し出しているのかについて、現在の私なりの見解の一端を、述べてみたいと思います。あくまで、現在の私(レイ)の見解の一端です。今の私は探偵を自任できるのかと気をもんでいますから。

たとえ話をさせてください。
私は、私の父親が誰かを知っていますが、それを自分で確かめたことはありません。DNA鑑定を依頼すれば科学的真実を突き止められると思いますが、それをやっていません。私の父が「おまえはわたしの子だ」と言っているのを聞いて、彼だけでなく近い親族たちがそう認識しているのを見聞きして「私は私の父が誰なのかを知っている」としています。正確さを求めて言い換えると「私は私の父が彼なのだと信じている」となります。私の父とされる人や近い親族が私を騙している可能性があるからです。

悪意によってだけではなく、善意によっても人は詐欺師となりうる。そんな事件を「盗まれた手紙」は内包しています。先の父親のたとえ話を延長すれば、私の父を名乗る人物もまた誰かに騙されて彼の子が私であると信じこまされていたらどうでしょうか、そんな事態もありうるわけです。警視総監に「デュパンを騙してやろう」などという邪な意図が無いのは明白です。

そのような事態を認識しておきながら、私は「私の父親は本当に彼なのだろうか?」と疑いながら生きてはいません。デュパンが「僕の行動は正義の行動だろうか?それとも悪のそれなのか?」と疑わなかったようにです。これを油断だと指摘できる資格を持った人物は世界中のどこにもいないと思います。

私の口がとても自然に、当然に、こう言うとき「私は私の父が誰かを知っている」、この事態を「私は言語に騙されている」と表現してはいけないでしょうか。「デュパンは騙されている」と言うのと同じように。

「私は私の父が誰かを知っている」
「いや、違う。君はそう信じているのだ」

私に letter を送って誤謬を指摘してくれたのは、たった一人、ジャック・ラカンでした。

人間にとって、意味表現のなかでもっとも高所にあるものを自分ひとりで支えるのは自然ではないのです。人間がこれを飾り立てようとして占めにやってくる場所は、もっとも驚くべき愚鈍の象徴となるのに適した場所でもあります。

「<<盗まれた手紙>>についてのゼミナール」より


***

最後に、私が展開した今回の推理を根底から覆しかねない材料を、あえて提示します。

僕には一つの目的があったのさ。僕の政治上の贔屓は君もご承知のとおりだ。この事件では、僕は例の貴婦人の一党員として行動するのだ。

「盗まれた手紙」より
*友人に向けたデュパンの台詞


物語の終盤で友人に向けられたデュパンの台詞です。「僕(デュパン)は最初から王妃派さ」とでも言いたげです。これが本当なら私の推理は再検討されなければいけません。しかし、私はこれを嘘だと断定します。お時間が許すならぜひ、初稿「0.デュパンの怒りについて」をご覧になってください。傷つけられたデュパンの高いプライドと、彼に上記の台詞を吐かせるわずかな慰撫とも呼べるものが、何を彼に望ませるかを分析するにあたって、レイの推理が他の探偵たちの助けになることが、私の願いです。

***


出典・参考文献
・小説:エドガー・アラン・ポー「盗まれた手紙」(佐々木直次郎訳、青空文庫、リンク
・論考:ジャック・ラカン「<<盗まれた手紙>>についてのゼミナール」(宮本忠雄ほか訳、「エクリ1」所収、弘文堂、1972年)


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