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【時代小説】ほらふき その一

いかに大江戸広しと云えども。本所ほどの底力は他の街にはあるまいよ。何せかの大火事に屈せず見事に甦ったのだ。この街は凄い。端々まで活気に満ち満ち。行き交うどの人も自らの生を謳歌して見える。それはそれは眩い程だ。羨ましいと思う。反面妬ましいとも思う。何故。その活気は呉服・木津屋…我がお店には届かぬのか。げに忌まわしきは我がお店。今日も沈鬱なお店でなかなか来ぬ客を待たねばならぬ。それを思うと鬱鬱する。とんずらしてしまいたくなる。しかしわたしにそんな度胸はない。意気地無しは黙って業務に勤しむべし。か。

「なんでぇ。市兵衛はいねぇのかぁっ!」と。どえらい剣幕。怒鳴り込んで来たるは長介。年の頃二十五・六。捲し上げた袖から紋紋がちらり。濃い眉に高い鼻梁。キリリとした目元が役者のような一見いい男だが。柄の悪さがでかい体躯と相まってとても堅気には見えぬ。そんな奴だがこの店では番頭の座に胡坐をかいている。

「大っきな声出しなさんな!お客さんびっくりしちまってるじゃねぇですか!」。長介を制し。「お嬢さん方御免なさいね。下品な男が下品な大声で」と。驚く客を笑顔で宥め。それから長介を睨み据える。元より冷かし。買う気なぞ毛頭なかった年増のお嬢さん方。長介の大声に眉をしかめつつこれを好機といそいそ出て行く。ああぁまたしても売り逃したか。長介を睨む目に一層の力が籠る。

出て行くお嬢さん方のでっかい尻を見送りつつどっかと腰掛けた長介。番頭のくせに客が何も買わずに帰ったことなど気にも留めぬ。この男にとっちゃあ客なんぞいない方が気兼ねなくお喋りできていいってことか。こういう阿呆が番頭だからうちはいつでも閑古鳥。思わず溜息が口を吐くが。長介に気取られぬよう音無くそれを遣り過ごす。この男気短につき。気づかれたならば只じゃあ済まぬ。

台風一過の昼下がりの底抜けの明るさ。吹き荒ぶ風は強いがごくごく温い。気持ちいいやら悪いやら。表通りの日差しが目に刺さる程に白い。それに引き換えうちの店内の黒いこと暗いこと。闇の中に詰まれ埃を被った品物がぼうと湿度と冷気を放つ。黴と埃の混ざったどうにも陰気な匂いが満ち満ち。深く吸ったら胸の中から腐っちまいそうだ。

見たところで何も得もない店内に嫌気がさして再び外に目を転ずる。むっつり押し黙る店内の沈黙と違って外は賑やか。嫌が上にも水嵩が増しているであろう裏の川のせせらぎ。晴れ間を喜ぶ幼子たちの笑い声。その中に。微かにチリンチリリン高い音が混ざる。途切れ途切れ風に紛れる物売りの声。商い物は風鈴か籠に入った鈴虫か。雅な商売もあったもの。外の世界はなんとも風雅だ。外の世界が明るければ明るいほど。対比でうちだけ淀んでいる。腐っている。これでは番頭が阿呆でなくても売れぬやも。なんだって俺はこんな死んだお店に奉公に出されたのか。また鬱屈で胸の中から腐ってゆく。

「おい小僧。市兵衛はどうしたのよっ!?」再び大声を張り上げる長介に。「だから大っきな声出しなさんなって!」やや大声で被せつつ。「市っちゃんは熱を出しまして。起き上がれないって云うもんだから今日は暇です」教えてやる。

『市っちゃん』は私と同じ。この死んだお店に奉公に出された者。わたしより二つばかり年下で一年遅くこの店にやって来た。何事にも大仰で浅慮。矢鱈けたたましい長介とは打って変わって思慮深く物静か。冷静沈着。年若い割に随分老け込んで見えるとは本人には云ってない。くだらぬ仕事にも腐らず文句も云わず淡淡とこなす真面目を絵に描いたような奴。仕事をせずに寝ているなんざ初の事。吞み過ぎた次の日にはふらといずこに消える長介とは大違い。正反対の性分を持った長介と市っちゃん。いかにも相容れなさそうなものだが。破れ鍋綴じ蓋というものかこの二人は妙に馬が合い。長介は言伝があれば必ず市っちゃんを呼び。市っちゃんも喧しい長介の物云いにも嫌な顔せずよくよく聞いてやっている。まぁ知らん。せいぜい二人で勝手に仲良くやるこっちゃ。

「何っ熱!?寝てんのか?」即座に立ち上がり住み込みの者の居部屋へ向かおうとする長介。横綱土俵入りよろしく高らかに足音を鳴り響かせる。その背にぴしゃり。「あんまり調子が悪いんで一旦郷里に帰りました」云ってやる。まぁこれは嘘。只でさえ具合が悪いところに。こんな割れ鐘の付喪神にとり憑かれたような男が躍り込んだら一大事。病人もおちおち寝てはいられぬだろうしそれでは治るものも治るまい。だからせめての見舞いの助太刀。これで市っちゃんには貸しが一だ。

「郷里に帰ったって?なんだそんなに悪いのか!医者には見せたんだろうなぁっ!?あぁ?」とどやすは長介。なんだってこの男は常に大声なのか。この長介という男。あまりに話し方の柄が悪いので初めての人は面喰らう。何か自分が怒らせることをしでかしたのではとビビり散らかす。だがそのうちわかるのだ。これは癖。この男においては普通に話をする時でも常に怒鳴っているのだと。そうして段々気にしなくなる。かくいう自分も初めてこの店に奉公に上がった時にはこの男の剣幕に気圧された。それだけではなく泣きべそもかいた。単に怒鳴る大人が怖かっただけのこと。親元で大事に大事に育てられこの度初めて奉公に出た童のことだ無理もない。だがそれで得心する長介ではなく。「男が人前でめそめそ泣くんじゃねぇっ!!」と追い討ちの大喝。それでたまらずお店を出奔したのはここに来てまだ二日だったか三日だか。それを持ってわたしはすっかり根性なしの烙印を押され以来この男は徹底的にわたしを侮蔑。二十路を越えても小僧扱い。まぁいつまでも手代に抜擢されないわたしは「小僧」で間違いないのだが。

「長介さん。今回の市っちゃんの病気はね。医者じゃどうにも出来やぁしない。ありゃあ坊主か陰陽師の範疇だ」
「坊主だぁっ!?何だって坊主よ!?あいつらこそパッと見は恭しく何か唱えたりしてこっちも何か有難ぁいような気がしちまうが。結局小腹の一つ満たせやしねぇ!そんなもんに市兵衛の熱が下げられるってのかぁっ!?」
「坊主丸儲けって奴ですね。いいですなぁ羨ましい。長介さん。うちみたいな商家ってのはそういうことはできねぇもんですか?」
「知るかぁっ!てめぇで考えろっ!それより何だって市兵衛の熱は坊主でなくちゃあ下げられねぇのよ?俺が聞きてぇのはそれよ」
「…市っちゃんね。見ちまったんですよ」
「おう?何をだ?」
「…鬼火です」
「はあぁ鬼火だぁ?」
「市っちゃんね。熱出した日。夕刻になって旦那から一桝屋さんまでお届け物を頼まれて。あそこに行くにはぐるっと大廻に回らにゃならんですが。あの日は既に大風で。おまけにいつ降りだしてもおかしくねぇ空模様ときた。もたもたしてちゃざんざと降られちまうってんで。そいで近道したんですね」
「近道だぁ?」
「大森神社の境内突っ切って裏に廻って茂みに入る。真っ直ぐ抜けたらちょうど一桝屋さんの裏手の笹薮」
「おい待て。大森神社はお稲荷さんじゃねぇのか?」
「そうですよ。だったら何です?」
「おめぇ、さっき市兵衛は鬼火を見たって云ったじゃねぇか!」
「言いましたけど。だったら何です?」
「ほらを吹くんじゃねぇ!お稲荷さんで鬼火を見るってことがあるかいっ!そいつは狐火だぁっ!」
「…。はい?」
「稲荷神社に出る怪火は狐火だろうがぁっ!」「…。え?だったら何です?」
「んあぁ?何だとは何だあぁん!?」
「どうでもいい揚げ足を取らんでください。とにかく市っちゃんは鬼火を見てその瘴気に…」「だから狐火だろうがよっ!稲荷神社に鬼が出たら鬼と狐でごった返すだろうがぁっ!?ああんっ!?」
「…はいはい。わかりましたわかりました。わかりましたよわかりましたとも。承知致しましたです。はい。そんなんどっちでもいいですよ」「わかればいい」
「長介さん。そこまで云うなら云わせて貰いますけどね。鬼だ狐だ云いますけど。わたしは生まれてこの方鬼は一切見たことなし。あの神社で狐を見たことも一度たりともありゃしない。見たのは狸のフンだけだ」
「何っ!狸火だって云いてぇのかっ!」
「…。云いたいのか云いたくないのかと聞かれたら別に云いたかないですよ。はい」
「そうか狸火かぁ…」
「長介さん。わたしが伝えたいのはですね。市っちゃんが瘴気にあてられて調子が悪くなっちまった。そのことです」
「そうだな。云われてみると狸も化けるとは聞くな」
「…」
「…」
「念のため聞きますけど。市っちゃんの熱が坊主か陰陽師でなくちゃあ下げられない理由を聞きたかったんですよね?」
「おうおう。そうよ」
「で?今の説明でお分かりいただけたってことでいいんですかい?」
「おうとも!」
「…。」

ああ。只でさえ潰れかけのお店で万年小僧の私は人生を浪費するばかり。なのにまたしても阿呆とのくだらん会話で時間を無駄にしてしまった。そのことが胸の中にまた溜まり。一つ一つは些細な鬱屈がもはや膨大な層を成して。呼吸を圧迫するようだ。くだらんつまらん。くだらんつまらん。一層こんな店鬼火に祟られて燃え尽きちまえと。縁起でもない黒い念想がむくむく沸く。だがそんな愚念はすぐに潰える。もしこのお店が火事になったら。ヘタレのわたしは泣きながら神仏にすがり。裏の川の水を手桶で必死にかけるんだろう。所詮わたしはその程度の小者だ。小僧くんだりだ。くだらんつまらん。くだらんつまらん。

「しかしよ小僧。市兵衛は郷里に帰ってよ。あいつの郷里には狸火をなんとかできる坊主はいんのか?」ふいに長介に話しかけられてはっとした。こいつはまだ喋っていたのか。

「一応わたしの話を聞いてたようですね」皮肉を云いながらくだらん夢想を追い払う。

「んあぁ?たりめぇよぉっ!ずっと聞いてたろうが!で。どうなのよ?いるのかいねぇのか!?」
「えぇっと…。市っちゃんの郷里に坊主…いやいや介さん。鬼火が出たのは大森神社なんですから。調伏するのはそこでしたらいいんじゃないですか?」
「鬼火じゃなくて狸火な!そうか!俺はちょいとこれから大森のおっさんのとこ行ってとっとと狸をやっつけろって云って来るぜ!」
「いやちょいと待って下さいな。大森神社の宮司で調伏できるならそもそも端から鬼火なんて出てねぇんじゃないですか?」
「鬼火じゃなくて狸火だってよ!しかし云われてみれば神さんの社に狸が化けて出るたぁどういうことだ?ははーんあの神社インチキだな!?俺は前からそんな気がしていたぜっ」
「罰当たりを云いなさんな。祟られても知りませんよ」

くだらん問にくだらん答を重ね。ぎゃあぎゃあ喧しい長介にほとほと嫌気がさしてきた頃。廊下の軋む音には気づいていたがその足音がはたと近くで止まり。「市兵衛!」長介の声に導かれ振り返れば。顔色は優れぬが確かにそこに市っちゃんが立っているではないか。起き上がれぬのではなかったか?具合は?熱は下がったのか?好奇心と心配がない交ぜになって何と言葉を紡いでいいのやら。地味な着物に地味な顔。髷まで地味で地味三昧。能面のように感情のわからぬ目をこちらに向け。「お前たちは本当に仲が良いな。楽しそうで何より」訥訥と。抑揚のない声。嫌味とも本音ともとれるいつもの喋り口。いつもと変わらぬ市っちゃんに見える。

即座に立ち上がり駆け寄る長介。「おめぇ!狸の呪いにかかっちまったんだってなぁっ!?大丈夫なのかぁっ!?」と。大声を張り上げるが。これは癖。怒っているのではない。その証拠に市っちゃんの顔を覗き込むその目には心配の色がありありと。

「狸の呪い?か。」いきなり突拍子もないことを言われても。市っちゃんは顔色一つ変えず実に淡々と長介に応じる。「おうとも!何でもあの大森神社には狸の怨霊が出るって話よ!な。小僧!そうだろ!?」いきなり突拍子もないことを振られ。「そんなことは云ってませんよ!」あからさまに動じるわたしとは大違い。「市っちゃんが大森神社のお社で鬼火を見て瘴気に当てられたって教えたんです。そしたら長介さんが『大森神社はお稲荷さんだからそれは狐火だ』とかなんとか喚くから…」と。嘘はついていない。勝手に長介が勘違いしただけ。なのに。何故わたしは言い訳がましい喋り方になってしまうのか。ああくだらんつまらん。くだらんつまらん。少し頷いた市っちゃん。「要するに怪異に遭ったということであれば。確かに俺は怪異に遭った」と。長介をこれ以上拗らせぬ方向にサクっと纏める。上手い。思わず舌を巻く。つまり市っちゃんはわたしとは頭の出来が違うのだ。悔しいがそういうことだ。

「おうおうおう。一体おめぇの身に何があったのよ!?」と。身を乗り出し聞く構えの長介。心配しているのかただの好奇心か。随分と熱心だ。「うむ」云った市っちゃん。わたしも市っちゃんが寝込んだのは知っていたがその経緯を本人の口から聞くのは初めてだ。『本当に怪異に遭ったのか?』改めて考えると不意に背筋ざわざわ。ついつい固唾を飲んで次の言葉を待つ。

「あの日は旦那に使いを仰せつかったが。天気が荒れそうだったので。近道を行こうとして俺は大森神社に向かったのだが」

市っちゃんがいつもの喋り口。訥訥と語り始めた。



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