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脳という「パチンコ台」で遊ぶ ー 荘子が説く究極の思考法「坐忘(ざぼう)」とは?

私たち60代は、毎日を「一生懸命」に生きてきました。

「もっと成果を出さなきゃ」
「あの人にどう思われているだろう」
「将来のために、これをしておかなくちゃ」

頭をフル回転させて、人生という盤面を攻略しようとする。
それは、とても人間らしい営みです。

けれど荘子はそんな私たちを見て、こう言うかもしれません。

「そんなに、パチンコ台の釘をいじるようなことをしなくてもいいじゃないか」


脳は「釘」を打ち込む装置である


私たちの脳、特に大脳新皮質は、

言葉を操り、
論理的に考え、
比較し、判断をする

といった高度な働きを担っています。

これをパチンコ台に例えるなら、盤面に打ち込まれた「釘」です。

もし盤面に釘が一本もなかったらどうなるか。
玉はただ真下に落ちて終わりです。
そこには迷いも偶然もなく、物語も生まれません。

釘があるからこそ、玉は跳ね、揺れ、思いもよらない軌道を描く。
私たちの迷いや葛藤もまた、人生に奥行きを与えているのです。

問題は「釘」ではなく、思い方


では何が苦しさを生むのか。

それは、私たちがこの「釘」を使って、

「絶対に当たりに入れよう」としすぎることです。

得をしたい
失敗したくない
正しい人間だと思われたい

こうした思い(執着)が強くなりすぎると、私たちは盤面をコントロールしようとして、無理に釘を曲げ始めます。
釘師になっちゃうわけですね。

その結果、

流れは不自然になり
予測は外れ
「思い通りにいかない」というストレスが増えていく

本来、釘は「流れを生むもの」なのに、
いつの間にか「縛るもの」へと変わってしまうのです。

荘子の答え:「坐忘ざぼう」という使い方


ここで「荘子」に出てくる有名なエピソードを見てみましょう。

孔子の弟子・顔回がんかいが修行の成果を報告します。

「私は仁義を忘れました」
「私は礼楽も忘れました」
そして最後に、こう言います。

「私は坐忘しました」

坐忘とは何か。

顔回は、

「身体の感覚や知恵へのこだわりを離れ、万物と一体になること」

と語ります。

ここで大事なのは、

思考に縛られなくなること

です。

釘を「曲げる」のではなく、「外せるようになる」


坐忘をパチンコで表現し直すなら、

釘を好きに曲げることではなく、必要に応じて外せる状態

です。

考えるときは、しっかり考える
でも、こだわりは手放せる
結果にも執着しない

そうなると、玉の動きはコントロールの対象ではなく、
「流れそのもの」として感じられるようになります。

川の流れのように。

当たりか外れかではなく、
流れていくプロセスそのものが、そのまま「道(タオ)」になる。

ここに、荘子のいう自由があります。

「電源OFF」ではなく、「手放す」という技術


現代人が誤解しやすいのは、
坐忘を「何も考えないこと」だと思ってしまう点です。

しかし実際は逆です。

よりクリアに世界を感じるために、余計なこだわりを手放す

それが坐忘です。

思考は残る。
判断も消えない。

ただ、それに振り回されなくなる。

「まあ、いいか」

と。

この違いは、とても大きい。

脳という遊び場


もしかすると私たちは、
自分で打ち込んだ釘に、自分で引っかかっているのかもしれません。

「あ、今こだわっているな」
「また当たりを決めつけているな」

そう気づくだけでも、少し盤面は自由になります。

一日の終わりに、ほんの少しだけ目を閉じてみる。
そして、握りしめているものを、ひとつずつ緩めていく。

そして、

「ありのーままのー、姿でいいのよー」

と歌う(笑)

そのとき、人生は「攻略するもの」から、
ただ味わう「遊び」へと変わっていきます。

脳は、戦うための道具ではなく、
本来は「遊ぶための装置」なのではないでしょうか。

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