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自然と導かれる先にこそ学びがある ─ 老荘に学ぶ「導」のあり方

私には子どもが4人います。
思えば、長男には厳しくし過ぎました。

「きちんと育てなければ。それが親の責任だ」

そう思い込み、気合が入りすぎていたのです。

「正しい方向へ導かなければいけない」

そう考え、長男の環境を、
私なりに“整えて”いきました。

例えば、おもちゃ。
教育的に良さそうなものを、
私が選んで与えていました。

5歳くらいの頃だったでしょうか。
おもちゃ売り場で、長男が曇った顔でこう言いました。

「なんで、お父さんが選ぶの?」

その一言に、
私はふと我に返りました。

子どもにも、自分で選びたいという気持ちがある。
当たり前のことに、
そのとき初めて気づかされたのです。

「そうか。そうなのか……」

自分も、確かに子どもだったはずなのに、
子どもの頃の感覚を、すっかり忘れていました。

それ以来、おもちゃは自分で選ばせることにしました。

こうして私は、子どもに教えられながら、子育てを続けてきたのです。

末っ子には、かなり甘くなってしまいましたが、それでもつい「導こう」としてしまうことはあります。

ちなみに今は、末っ子の結婚問題です。

酒が入ると、

「そろそろ孫の顔が見たいなあ」

などと言ってしまい、妻から非難されます(笑)。


導こうとするほど、流れは止まる


こちらが「正しい」と思う道を示したのに、なぜか相手は動かない。

あるいは、
良かれと思って助言したのに、かえって関係がぎくしゃくしてしまった。

そんな経験はありませんか。

私は経営コンサルタントとして、管理者研修などで、

「他人の心は変えられない」

と、繰り返しお伝えしてきました。

上司は、部下が思うように動かないとき、イライラして怒鳴ってしまうことがあります。

そこまでしなくても、説教をしてしまうことはあるでしょう。

それは実は、

部下に主導権を握られている状態

でもあります。

動かせないものを動かそうとするほど、馬鹿げたことはありません。

巨大な岩を、必死で押しているようなものです。
うまくいくはずがないのです。

他人をこちらの思いどおりに動かすことは、本質的に考えれば、できません。
他人の心を、直接変えることはできないからです。

老子は言います。

上善じょうぜんは水のごとし

水は、誰かを導こうとはしません。
ただ、低いほうへ自然に流れるだけです。

「遊」から「導」へ


このシリーズでは、

観 → 情 → 気 → 喜 → 形 → 水 → 遊

と辿ってきました。

「遊」に至ると、人はようやく、余白を持てるようになります。

余白が生まれると、すぐに答えを出そうとしなくなる。
正しくあろうと、無理をしなくなる。

すると、状況は勝手に動き始めます。

誰が動くべきか

どこに無理があるか

何をしないほうがいいか

これらが見えてくるのです。

「導く」という行為はなく、自律的な動きがそれにとって代わるのです。

導くのではなく、導かれる


老荘思想における「導」は、先頭に立って引っ張ることではありません。

むしろ、

流れを邪魔しない

余計な手出しをしない

「自分が正しい」という立場を降りる

こうした引き算によって、
結果として、道が現れる状態です。

人は、「やらされた」ときではなく「自分で気づいた」ときにこそ、深く学びます。

導かれるとは、支配されることではありません。
人が自律的に動き出す瞬間なのです。

小さなエピソード


ある会社の営業会議でのことです。

社長が若手社員に、新しい企画について意見を求めました。
ところが、そのたびに社長自身が、

「いや、それよりもね」

と話をかぶせてしまう。
結果、会議は社長の独演会のようになっていました。

本人は「助けている」つもりなのです。
経験の浅い若手が迷わないように、
道を整えているつもりでした。

そこで私は、次の会議では、社長には傍観者オブザーバーに徹してもらうようお願いしました。
私は司会役を務めました。

すると不思議なことに、若手の表情が変わり、場の空気が軽くなったのです。

意見が次々に出て、互いに修正し合う。

最後に社長に意見を求めると、結果的に、若手の案がほぼそのまま採用されました。

誰かが導いたわけではありません。
道が、自然に現れただけでした。

今日からできる「導」の練習


「導かれる導き」は、特別な修行をしなくても練習できます。

まずは、これだけで十分です。

すぐに答えを言わない
 ─ 3秒、間を置いてみる

相手の言葉を途中で切らない
 ─ 完成度より「最後まで」

正しさより、流れを見る
 ─ 今、場は軽いか、重いか

うまくいったら、
 「何もしなかった自分」を評価する

これを続けていくと、
「導いている感覚」は薄れていきます。

その代わりに、物事が自然に進む感覚が少しずつ増えてきます。

それでいいのです。

60代が特に注意すべき点


年を重ねると、経験も、知識も増えます。

その結果、

「私はわかっている」

と思いがち。これが前に出た瞬間、導きは止まります。

老子は、知を増やすことよりも、知を手放す勇気を重んじました。

本当に導ける人ほど、前に立ちません。

後ろからも押さず、横から操らず、ただ中央にいる。

60代は、力を抜き、遊びの意識を持ち、水のように場に溶ける。

すると、自分自身もまた、何かに導かれていることに気づきます。

計画通りではない。
でも、なぜか、しっくりくる。

それは偶然ではなく、無為の結果です。

導こうとしない人のもとに、人は集まります。
進むべき方向が自然と見えてきます。

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