「形式」の強さと「オリジナル」という呪い ~らーめん再遊記論「ベジシャキ豚麺堂編」~
サムネイルは『らーめん再遊記』2巻 No.159より引用
『らーめん再遊記』という漫画の面白い点は色々あるのだが、その中でも、当たり前に存在するにも関わらず、というか当たり前すぎてドラマであったり批評の俎上には上りにくい題材を率先して扱っているという点がある。
ラーメンの自動販売機であるとか、インスタントラーメンであるとか、広く店舗を展開するチェーン店といった具合にだ。
単行本2巻~3巻、話数だと第10杯目から第20杯目にかけて描かれる「ベジシャキ豚麺堂編」において主な舞台となるのは、郊外のロードサイド中心にチェーン展開しているベジシャキ豚麺堂というラーメン店である。
劇中でも言及されるように、そういった店にはいわゆるラーメン語りをするようなマニア客は皆無で、メインの客層はファミリー層やトラックドライバーなど、「娯楽としてのラーメン」ではなく「食事としてのラーメン」を求めにくる客だ。
そういった、どこにでもあるしマニア的な評価はされなくても、行けばそれなりにおいしいラーメンが食べられて、手堅く客を掴んでいる店舗でのアルバイトとして芹沢は業務しつつ、自身の真の目的、「万人の形式」を創造することを目指しているということが語られる。
ここは『らーめん再遊記』における白眉といえる非常に重要なエピソードで、すでに自分で書いたnoteの記事もあるので、興味のある方はそちらをどうぞ、だが今回の本題である「ベジシャキ豚麺堂編」はここでは終わらない。
このエピソードで対比されるのは、マニア的な評価はついていないとはいえば手堅くチェーン展開するくらいの支持を集めるベジシャキ豚面堂の有する「形式」の手堅さ、そこから独立し、自身の味を追求しようとするが理想が先走るあまり集客には全くつながっていない「オリジナル」の脆弱さである。
もっとも印象的なのはベジシャキ豚麺堂では人気店の人望と実力のある店長だった加納が、独立開業したものの全く流行らないラーメン店に芹沢を招き、新メニューを披露した時に全開になる芹沢節だ。
才能があるとはいえ、まだ一流のアマチュアに過ぎない若者がその時点で増長し二流のプロにすらなれないという現実に直面するものの、調子に乗り過ぎて厳しい現実を直視できなくなってしまったことでやがて転落していくという話が、かつて同級生だった野球選手の例えで語られるんだが、これは本当にいろんな分野に当てはまる普遍性のある話である。

ベジシャキ豚麺堂という既に一定の客がついていて、定番の人気メニューという「形式」も確立している店舗での新メニューを作る上では実力を発揮出来ていた加納のオリジナリティは、独立して店舗を開業し、そのまま人気店になれるほどに力のあるオリジナリティではない。自身の味で勝負したいと意気込み、店のおすすめメニューがなんなのかも過剰にアピールしようともせずに、期間限定のオリジナルメニューを作ろうなどと考えている加納に対する芹沢の言葉は辛辣だ。
ここで対比される既に確立された手堅い「形式」と、作り手だけが自信過剰に陥り、食べれば伝わると過信する「オリジナル」の対比は本当に様々な分野で目にする話だ。私の所属するゲーム業界でも結局人気IPのナンバリングの続編が圧倒的に強くてオリジナルへの挑戦って本当に難しいものになっているし、大規模タイトルよりも挑戦がし易い筈のインディーゲーム界隈でも圧倒的に「メトロイドヴァニア」や「ローグライク/ライト」といった「形式」が人気であったりすることなどは、結局のところ既に馴染みのある「形式」が如何に強いかということの一つの実例だろう。
その後、物語はベジシャキ豚麺堂の社長が乱入するような形で、「小さな勲章の呪い」にかかった加納の呪いを解くために、自身が店を辞めるきっかけを作った因縁のある同僚の鹿内と社内のメニューコンテストで競わせようとする。
そこでは、「オリジナル」を創出する才能は皆無ながらも既存のものを改良、改善する「アレンジャー」としての才能を秘めていた鹿内と、自身の「オリジナル」の才覚を過信していたことを反省し、質の高さを維持しつつ、伝わりやすいキャッチーさにも重きを置いたメニューを繰り出す加納が互角の勝負を展開する。
普通のグルメ漫画ならばこのまま良い話で終わるのだが、そのいい感じの展開が気に入らない芹沢も勝負に参加し、両者のいい感じの勝負を叩き潰さんばかりの展開で勝負は芹沢の勝利で終わる。
なんでこのような余計な横やりを入れてしまうのかといえば、それは芹沢の性格が悪いから……ではなく、より地に足をつけた形での問題の解決を図ろうとするからだ。メニューコンテストによって、加納がかかっていた小さな勲章という「呪い」は確かに解けた。鹿内との因縁も解消され、両者は和解した。しかし、物語はそこで終わらない。
最後の打ち上げ的に皆が集まった酒場にて、ベジシャキ豚麺堂の社長自身から、左遷かと思われた加納の異動先である産業道路店における定番メニューの人気ぶりと、小さい店舗ながらも他店にも負けない人気の高さから、確立された「形式」の強さを学んでほしかったという異動に込められた意図が語られ、周囲に波紋と誤解を生んでしまったことについての謝罪がされる。
そうして、社長へのわだかまりも解消した加納だが、最後に残った課題である閑古鳥のなく自身の店舗の立て直し策として、餃子とチャーハンをメニューとして追加することが社長から提案される。提案された当初は半信半疑だった加納だが、その効果はすぐに現れ、閑古鳥が鳴いていた店はすっかり繁盛店へと変わる。そんな人気店へと変わった店に再び訪れた芹沢から前作『らーめん才遊記』でも描かれていた「食事満足度」の重要性が語られ、同時に加納にラーメン店を経営する上でのアドバイスと励ましが贈られる。
かつて芹沢自身も味には絶対の自信のある「淡口らあめん」を看板メニューとして掲げてラーメン店を開業し、見事に閑古鳥が鳴いて廃業寸前にまで陥った芹沢は、なんだかんだいっても、かつての自分に似た部分の多い加納に肩入れしているし、優しい。やはり、芹沢の本心としては加納に頑張ってほしいのだろう。
だが、ラーメン店の経営という面で見ると、「アレンジャー」としての自身の才を自覚する以前から、加納が店長を務めていた頃以上の売り上げを叩き出すようになった鹿内の方が優秀であることは間違いない。加納だって正直いってベジシャキ豚麺堂で働き続けたほうが生涯年収は高かったんじゃないかという気もする。
自身のオリジナリティで勝負したいという理想に燃える若者は、餃子とチャーハンという究極のベタ、ラーメン&チャーハン&餃子セットという最強の「形式」を受け入れ地に足をつけて歩みはじめ、ベジシャキ豚麺堂は変わらず繁盛を続け、芹沢は加納の店をこっそり見守りつつ無言で去ることで物語は終わる。
「ベジシャキ豚麺堂編」は、「自分の作品」から「万人の形式」を目指す、芹沢の新しい始まりのエピソードであると同時に、かつての芹沢と同じように「自分の作品」に固執する若者たちに、永く続く「万人の形式」への接続を促す形でそれぞれの成長を描くエピソードでもある。「自分の作品」という「オリジナル」は儚くもろいが、確立された「形式」はそんな夢よりも強く永く生き続ける。
かつて誰よりも「自分の作品」を追い求めた芹沢が次に求めようとしているのはそんなタフな「形式」である。『らーめん再遊記』は芹沢というロマンチストな主人公がどこまでも貪欲に夢を追いかける物語だ。だからどれほど芹沢が悪態をついて偽悪的に振舞おうとも根本のところでは美しいのである。
