【創作大賞2026応募】 果てしなき果てへ 第零話 【第一章】 プロローグ
あらすじ
ラナーグ王国の王女ナルディアは、数百年に一度に現れる「聖女」であった。その繁栄を約束するという謎めいた力、それを巡りあらゆる勢力が彼女を取り合おうとする。
そのなかで人ならざる力を宿したその男――フレイは、彼女をさらいその力を自分のために利用しようとするがーー。
人間とひとならざるもの達の暮らす世界。
二人は各地で起こる怪異と争いへ身を投じながら、やがて世界の裏側に潜む“何か”へ近づいてゆく。
それは、失われた伝承の真実か。
あるいは、人も世界も飲み込む、深淵の災厄か。
これは、世界から弾かれた者達が、それでも明日へ進もうとする物語。
第零話― 亡国の王女
一、
泣きたいのに、私は笑っていた。
頬の内側を噛んで。
唇の端を持ち上げて。
誰にも見抜かれないように。
これ以上ないほど、穏やかに。
ティル・ノーア聖王国、聖都ラヴァーナ。王城の謁見の間で、私は膝をついていた。黒髪を後ろに流し、簡素な法衣に身を包んで。年は、十九になる。
「ナルディア・ミ・ラナーグ。そなたを、我が国の聖女に任ずる」
玉座から降る声は穏やかだった。
穏やかすぎるほどに。
私は、顔を上げないまま低く応じた。
「謹んでお受けいたします。この身命を賭して、この世に繁栄をもたらすことをお誓い申し上げます」
差し出されたのは、銀の翼を象ったペンダント。これを持つ者は、魔物を討ち、民を癒し、やがてこの国の聖母となる。そう定められている。
握る指に力がこもった。
――これが、私の終わりのはじまりだ。
胸の奥で、そっと呟いた。
表に出すことはできない。
私の顔は、まだ微笑みの形を保ったままだった。
二、
数百年に一度、生まれるという聖女。
国に繁栄をもたらすという、伝説の少女。
預言者が、その名を私だと告げたのは、つい一月ほど前のことだ。
麦畑で、種を蒔いていた。
私の領地は貧しい。この時期は、上下の別なく、皆で土に膝をつく。そこへ聖騎士が乗りつけた。半ば攫うように、私を連れ出した。手についた土を払う暇もなかった。
驚いた顔のまま固まった、妹のエリシュアに後を託して。
訳もわからぬまま、聖王の言葉を受けた。
聖女の素質を持つこと。
聖王家に迎え入れられること。
そして、五人いる王子の誰かと婚を結び、子を成すこと。
それが、聖女の使命だと言い渡された。
逆らえるわけもなかった。
下手なことを口にすれば、領地は奪われ、エリシュアは望まぬ婚を強いられ、領民がどうなるかも分からない。それくらいは、未熟な私にも痛いほど分かっていた。
引き合わされた王子たちは、私を上から下まで眺め、ろくに口も利かずに去っていった。
あの目が嫌だった。
畜舎の家畜を値踏みするような、乾いた目。
私を、私としてではなく、子を産む器として見る目。
三、
帰りたかった。
瞼の裏に、領地の麦畑が浮かぶ。
あそこには、明日の天気を語り合った大切な人もいた。何でもない、雨の予感を。種の蒔きどきを。肩を並べて案じ合った、あの時間が。
いまになって思う。
あれが、いちばん幸せだったのだと。
最後に何も話せなかったことだけが、悔やまれてならない。
「ナルディア・ミ・ラナーグ」
玉座から、老いた声がもう一度落ちてきた。
「そなたは、大切な聖女の血筋を持つ者だ。聖王国に根を下ろし、子を成すことも考えてほしい。ゆっくりでよい。心に留めてくれ」
私は、顔を上げずに微笑んだ。
「はい。心に留めておきます」
当然、留める気は毛頭なかった。
老王が、私の血を欲しがっていることはとうに気づいている。ラナーグ王家にのみ流れるという、繁栄を約束する古き血。それを引き込むために。滅んだ王国の姫を、わざわざここまで招き入れたのだ。
四、
ふと思う。
私が生まれた、その前後のことだ。
立て続けの災害が、痩せた小国を襲った。実りは枯れ、土地は痩せ、ラナーグは衰え、やがて滅んだ。まるで世界そのものから、ひそかに何かが抜き取られていくように。
――あれは、本当に偶然だったのだろうか。
なぜ、よりにもよって。
聖女が生まれる、その時に。
その問いだけが、時折、頭の隅を掠める。けれど、答えに近づくのがなぜか恐ろしくて。私はいつも、考えるのを途中でやめてしまう。
いまは、それより。
目の前の、この場を生きのびることだ。
笑う。
それが、私に残されたただひとつの武器だ。
ここで泣き顔を見せることだけは、できなかった。
この微笑みは、私の鎧だ。
本当の自分を守るための、綺麗な鎧。
誰も、この下にあるものを見ない。
見ようともしない。
それでいい。
鎧とは、そういうものだ。
目頭が熱くなった。
気のせいだと、思うことにした。
五、
謁見が終わり、自室へ戻る回廊で。
侍従の女に呼び止められた。
「ナルディアさま。明日の夜、聖王さまが晩餐の席を設けるとのことです。離宮にて、まずはおふたりだけで。第三王子と第五王子も、ご同席をご希望とのことです」
ナルディアは、答える前にひとつ息を吸った。
「ありがたく、お受けいたします」
侍従の背が遠ざかる。
それから私は、自分の唇がまだ微笑みの形を保っていることに気づいた。
笑うのが、本当に得意になった。
故国を後にした、あの夜から。
回廊の窓から、夕暮れの庭が見えた。聖都の空は、故国の空によく似ていた。けれど、その下を歩く人々の顔は、もう故国のものではなかった。
私は、ここでは独りだ。
そう思って、すぐに打ち消す。
独りであることを惜しんではいけない。
独りでなければ、為せないことがある。
足を、再び進めた。
その日まで。
この鎧は脱がない。
――そう、心に決めたのだから。
六、
衝撃が、馬車を揺らした。
外は魔導灯のほの暗い光と、三日月の銀のひかりが降り注ぐだけだ。
晩餐会の帰途、離宮からの帰り道のことだった。慣れない上品なドレス。柔らかいクッションの敷かれた座席。そのすべてが、私には収まりが悪かった。
私は田舎貴族――いや、最近はそれすらも意識から薄れていた。ただの田舎の娘だ。そう簡単に慣れるものではなかった。
しかし、その慣れないものを叩き壊そうとするものが、走行する馬車の扉を勢いよく開け放った。
頭からすっぽり被った黒装束、目元だけが切り取られた頭巾。その手には、赤く濡れた剣があった。
「黙ってご同行願いたい、聖女殿。我らはとある国の遣いの者だ。聖王国より丁重なもてなしをすることは、約束させていただく」
馭者の苦鳴が、夜風に混じって聞こえた。同行していた二名の騎士の姿は、もうどこにもない。
城内であるという安心感を逆手に取った襲撃、ということだろう。
私には、どうすることもできなかった。こんな恐ろしい襲撃者に、敵うすべなどない。
「……私に、そうまでして取り合う価値があるのですか」
頭巾越しに、目が細くなるのが分かった。
「我らは頼まれただけだ。――だが、貴方を狙う者は多い。その価値を知らぬのは、貴方だけだ」
私が……?
優秀な子供を産むことだけを期待されている――他にもそれを望む者がいる、というのか。
「一体、誰がそのようなことを――!」
瞬間だった。
瞬きの間と言い換えてもいい。黒頭巾の身体が、腰のあたりからくの字に折れて崩れ落ちた。
まるで、見えない拳に殴り飛ばされたように。
続いて、馬車の前方からも二度、何かが叩きつけられたような揺れ。悲鳴。叫び。
怖い。
何が起こっているの。こんな立て続けに――。
入口の縁に、骨張った手がかかった。強い手だ。農作業で日に焼かれた、太い指ではない。タコのある、硬く叩いて固められた手。
その手に力が入ったと思った次の瞬間、男が馬車のなかにくるりと飛び込んできた。
黒髪。私と同じ色。シオンの白とは違う色。瞳も深い黒。それも、私と同じだ。
背は、私の頭ひとつ分、高い。
「聖女、だな」
ただ、その一言。
腰を引き寄せられ、あっという間に藁束のように肩へ担ぎ上げられた。すごい力だった。抵抗する間もなかった。
「口を閉じておけ。舌を噛むぞ」
夜風が顔に当たった。
揺らされている、と気づいたのは少し経ってからだ。男は走っていた。二頭立ての馬車が、ものすごい速さで遠ざかってゆく。馭者と、見知らぬ襲撃者たちが地に倒れているのが目に入った。誰も動かない。死んでいるのかもしれない。
途端に、寒気が走った。指先が冷たくなった。
私も、あんな風になるのだろうか。攫われて、酷い、口にできないような目にあわされて、最期は――。
「……やだ」
思わず、声が漏れた。笑顔の仮面のことなど、考える余裕はもうなかった。
「……やだ、やだ、離して……!」
揺れて、舌を噛んだ。それでも、止まらなかった。
死にたくなかった。
望まない結婚をしても、生きてさえいれば、いつかまたエリシュアに会えるかもしれない。シオンに呆れた顔をされたって構わなかった。領民のみんなの顔を見て、今年のでき具合は今ひとつだね、と笑い合いたかった。
「殺さない、で……!何でもするから……」
男の背中を、こぶしで叩いていた。
あれほど怖かったはずなのに。
鉄のように固い背中だった。
「……お願い、お願いだから、私を返してよぉ……みんなのところに……」
ぼろぼろに泣いていた。
こんなときに、笑う?無理だよ。私、弱いんだよ。無力なんだよ。
「聖女なんて、なりたくなかった……ラナーグに、あそこに帰してよぉ――!」
しばらく、男は何も言わなかった。
ただ走り続ける、その背中の鼓動だけが、頬越しに伝わってきた。
やがて、静かな低い声が落ちてきた。
「……俺には、おまえの力が必要なんだ。悪いとは思うが、付き合ってもらう」
ひとを殺した者の出す声とは、思えないほど落ち着いていた。
不思議なことに、聞いていると、ほんの少しだけ呼吸が整った。
「私の力が、必要……?」
「そうだ。それが終われば、帰してやってもいい」
帰して、やってもいい。
その言葉を、口の中で繰り返した。
帰れる。
もしかしたら、私は、帰れるのかもしれない。
涙はまだ止まらなかったけれど、頬の熱が、少しずつ引いていくのが分かった。震えていた指先に、ようやく感覚が戻ってくる。
ああ、そうか。
このひとは、私を殺すために連れて来たのではないのだ。
そう思うと、強張っていた肩から、ゆっくりと力が抜けた。
代わりに、別の感情が、胸の奥でゆっくりと形を取り始めた。
――待って。
私、何でもするから、と言ったけれど。
よく考えたら、それは、まずいのではないだろうか。
頬を伝う涙の感触が、急に気恥ずかしくなった。さっきまで、あんなに必死にしがみついて、泣いて、叩いて。それで「何でもする」だなんて。
しかも私を担いでいるのは、年も近いらしい男の人だ。
頬に、別の意味で熱が戻ってきた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
このひとは、私の「力」が必要だと言った。「私」が必要だとは言っていない。それなら、ちゃんと話せば、ちゃんと条件を決めれば、きっと――。
息を、深く吸った。夜風が、ようやく冷たく感じられた。
頬の涙を、担がれたままの不自由な姿勢で、肩口に擦りつけて拭った。
話さなければ、と思った。
ここで黙って運ばれていくだけでは、本当に「物」のままだ。離宮で王子たちに値踏みされたときと、何も変わらない。
私は、物ではない。
なら、口を開くしかない。それに、もうひとつ。これだけは、確かめなければいけない。非常に大切なことだ。
「……あの」
声が、思ったよりも小さくなった。一度、唾を飲み込んで、もう一度。
「……あの、ひとつ、お聞きしてもいいですか」
「なんだ」
「……私に、酷いことをしないと、約束してくれますか」
「酷い、こと?」
「……女の私に、言わせないでくださいよ。察してください」
ほんの一瞬の沈黙のあと、男はぎょっとしたように言葉を返してきた。
「……おまえ、そんな子供のような身体つきで、何を言って――痛っ、髪を引っ張るな、引っ掻くな!猫か何かか、おまえはっ」
背中が硬いなら、こうするしかないでしょうに。
というか、子供のような、とは何ですか。失礼な。それ以上言ったら、ただではおきませんからね。
いえ、違う。今、怒っている場合ではない。
涙の余韻と、怒りと、気恥ずかしさが、ぐちゃぐちゃに混ざって、頭の中が忙しい。それでも口だけは動いた。動かさなければ、と思った。
「うるさいですよ!――あと、ついでに言わせていただきますけど」
「まだ何かあるのか」
「待遇の改善を要求します。私が必要なんですよね?それなら、大事に扱ってください。せめて、おぶってください!」
言ってしまってから、自分でも驚いた。
さっきまで、お願いだから、と泣いていた口で要求なんて。
でも、と思う。
泣いていても、何も変わらない。それは、聖都に連れて来られたときに、嫌というほど思い知った。
名も知らぬ彼は、しばらく無言だった。
それから、しぶしぶといった様子で、私を背中におぶりなおしてくれた。「調子が狂う」と、小さく呟くのが聞こえた。
肩越しに見えた横顔は、私より二、三歳ほど年上だろうか。あるいは、同年代。それぐらいに見える。
「とにかく、小一時間したら着く。それまで騒がず静かにしていてくれ。――騒いだら、それなりの対処をさせてもらう」
そう言って最後に、用意していた外套を頭から被せられた。再び、風が顔に当たる。
顔や服装を隠すためでもあるのだろう。けれど、夜風の寒さを気遣ってくれた――と考えるのは、おかしいだろうか。
再び、私を背に乗せたままの疾走が始まった。
十メルテはあろうかという城壁すら、壁のわずかな凹凸を足がかりに、二跳びで飛び越える。聖都の城下町へ、街の闇へと、彼は迷いなく身を躍らせていった。
心臓の音が、期待と不安と、ほんの少しの怖れで、やかましく鳴り響いていた。
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