【創作大賞2026応募】 果てしなき果てへ 第十五話 【第二章】 第三話
第十五話 銀砂の番人
一、
ライィの船は、銀砂の最深部へ向かっていた。
フレイはまだ眠っている。私はその隣に座り続けていた。
夜が明けかけた頃、彼の目がゆっくりと開いた。
「ナルディア」
声が掠れていた。
私は彼の手を握った。
その目にはもう、紅の余韻はなかった。けれど別のものが揺れていた。何かを見届けてしまった者の、深い疲れのようなもの。
「俺は、何をした」
「皆、生きていますよ、誰も死んでいません」
「ーーあの男たちは」
「ライィとルヴェインと応急処置をして、彼らの船をファランの方角に流しました」
フレイの目が見開かれた。
しばらく、彼は何も言わなかった。
「ーーお前が、止めてくれたんだな」
「貴方が止まってくれたんです」
彼の顔から、ゆっくりと力が抜けた。
胸の奥で抱えていた何かが許された、というような顔だった。
「俺は」
彼の声に、続きの言葉を探している間があった。
「ーーあのままだと、止まらなかったかもしれない」
「きっと、止まりましたよ」
「ーー」
「貴方の心の奥に、私の声が届きました」
彼の手が、私の手の中でわずかに動いた。
握り返してきた、というほどでもない微かな動き。
ーーフレイ。
心の中で呼んだ。
ーー怖くはありませんでしたよ。
ーー怖かったのは、別のことです。
その続きを声に出して言いたかった。けれど出さなかった。
彼の方が、先に口を開いていた。
「ーー忘れていた」
「何をですか」
彼の目が、しばらく宙のどこかを見ていた。
「ーーお前の隣にいる、ということがどういうことか」
返事が見つからなかった。
代わりに、彼の頬に触れた。涙の跡が、まだ残っている。
しばらく、ふたりはただ手を握り合っていた。
船の外で、砂海の波音が規則的に響いていた。
二、
ライィが舵の上で声を上げた。
「ーー見えたぞっ」
フレイと私は甲板に出た。ルヴェインも振り返る。
水平線の彼方に、小さな影が見えていた。
岩礁とも島ともつかない、ぽつりとした何か。
ライィが舵を強く握りしめている。
何も言わなかった。
彼の代わりに、私が彼の肩に手を置いた。
「お父様の足跡を、ここで見届けましょう」
「ーーああ」
短い返事だった。
それで十分だった。
船が島に近づいていく。
そのとき、砂海の下から巨大な影が浮かび上がった。
刃のような銀色の背鰭。
長い、流線形の胴体。
砂をぬるりと押し分けて現れた。
『クルテル』
「刃」の名を冠する魔物。
そして、オルクスと同じ闇人の果て。
それが、ここに訪れた者を阻んでいた。
それが、噴き上がる砂塵を通じて伝わってきた。
三、
「ーー来たっ」
ライィが舵を強く傾けた。
船が大きく傾く。クルテルの背鰭が船の縁をわずかに掠った。船板が削れる音。
フレイが剣を抜いた。
ライィが革袋から父の遺品を取り出していた。火薬と金属片を独自に組み合わせて作った、砂海の魔物対策の仕掛け。彼の父が、いつか使う日のために、この船の倉に置いていたもの。
ルヴェインが銃を構えた。
クルテルがふたたび突進してくる。
フレイが船縁を蹴って跳んだ。クルテルの背鰭の刃の上に足をつける。
刃の上を走った。
背鰭の付け根。
装甲の薄い場所。
そこに剣を差し込んだ。
ーーおおおお。
クルテルが叫んだ。
その声には言葉がなかった。ただの獣の声。
心話を薄く開いてみた。
彼の内側には、思考らしいものはほとんど残っていなかった。ただ深いところに、刷り込みのようなひとつの衝動だけがある。
阻むこと。
何を、なぜ、と問う部分はもう失われていた。ただ阻む。それだけ。
彼は自覚なく、ここを守っていた。
「フレイ、離れろっ」
ライィの叫び。
フレイが跳んだ。クルテルの背鰭から身体を離す。
ライィが爆弾の導火線に火をつけ、投げ込んだ。
赤い火花が空中を飛ぶ。
爆弾が、クルテルの背鰭の傷口に吸い込まれた。
爆発。
砂が舞った。
クルテルの背鰭が半分吹き飛ぶ。
「ナルディア」
フレイがこちらを見た。
私は星霊の宝石を両手で握っていた。
ーーアスティラ様。
ーーユグリシアさん。
心の中で呼んだ。
返事は声ではなかった。
ただ、宝石が温かくなった。
光が私の身体の中に流れ込んでくる。
「フレイ、剣を」
「ああ」
彼が跳んだ。
紅い瞳と純白の光が、彼の刃に重なる。
クルテルの、引き裂かれた背鰭の根元。
そこに剣が振り下ろされた。
光が爆ぜた。
クルテルの巨体が、内側から白く輝く。
ーーおおおお。
彼の声には、最後まで言葉がなかった。
ただ、傷ついた獣の本能的な悲鳴。
彼の巨体が砂海の下へ、ゆっくりと沈んでいった。
完全には倒せなかった。
深いところへ、ゆっくりと運ばれていく。
またいつか、傷を癒すのだろう。
次の聖女がここに辿り着くまでの、長い、長い時間の中で。
彼はそのときまた、本能のままに阻もうとするのだろう。
自分が何のためにここに在るのか、知らないまま。
砂海に静寂が戻った。
四、
船が島の岸に寄せた。
岩肌の小さな島。
中央に、石造りの遺跡が聳えていた。柱が何本か残っている。屋根はもうない。
歳月が、その柱の表面をなめらかに削り取っていた。
四人と一頭は島に上陸した。
ライィの足が、岸辺でしばらく止まった。
何度か踏み出そうとして、止まる。
ようやく一歩を踏み出した。
そして、もう一歩。
岩肌のある場所で、彼が屈んだ。
何かを拾う。
古い、銅製の小さな羅針盤。
砂と潮で、表面がわずかに緑青を吹いていた。けれど、まだ針がある。
「ーー」
ライィの口が開いた。
けれど声は出なかった。
しばらく彼は、その羅針盤を両手の中で見つめていた。
「ーー親父の、だ」
かろうじて聞こえる声。
私とフレイ、ルヴェインが近づいた。
けれど誰も何も言わなかった。
ライィは、その羅針盤を両手で胸の前に抱えた。
「ーーここまで来てたんだな」
「ええ」
「俺、辿り着いたぞ、親父」
最後の一語が声にならなかった。
代わりに、彼は屈み込んで泣いた。
砂海を渡る若き船長として、人前で決して見せなかった、子供のような泣き方だった。
私とフレイ、ルヴェインは彼の隣に立っていた。
何も言わず、ただ立っていた。
波の音だけが響いていた。
慰めの言葉を思いつかなかった。
思いついたとしても、口にはしないだろうと思った。
彼がいま必要としているのは、言葉ではなかった。
ただ、隣にいてくれる誰か。
それだけだったから。
五、
ライィがようやく顔を上げた。
そのとき、遺跡の奥から足音が聞こえた。
小さな、軽い足音。
私は振り返った。
遺跡の柱の影から、ひとりの少女が姿を現した。
長い銀色の髪。
白い、薄い衣。
裸足。
年は十歳くらいに見えた。
その目が、深い星空のような色をしていた。
「ーー聖女よ」
少女が低く口を開いた。
声は幼かった。けれどその奥に、長い時間が堆積していた。
「ようやく辿り着かれましたね」
私は息を止めた。
見た目は子供。けれど、その目の奥にあるものは子供ではなかった。
星霊の宝石が、私の手の中で温かく光った。
「ーーアスティラ様の」
「ええ」
少女は頷いた。
「私はこの島の番人。アスティラの欠片です」
彼女の口元がわずかに緩む。
子供のような表情。
けれど、その奥にあるものはやはり子供ではなかった。
「長らくここで、聖女をお待ちしていました」
六、
「過去にも、ここにいらした方が」
番人は頷いた。
「貴方様は四人目です」
「四人目」
「最初の方は千年前。次は六百年前」
彼女の目が、わずかに遠くを見た。
「三百年前は、エルネアという方がここに向かわれました」
心臓がひとつ跳ねた。
「エルネア様も」
「ええ」
番人はしばらく、何かを思い出すように目を伏せた。
「あの方はエルフ郷からラシュミール公国へお向かいになる前に、ここを目指されました」
「辿り着けたのですか」
「ーーいいえ」
番人は首を振った。
「クルテルに阻まれて。ーーあの方はご自分の力の限りを見極めて、お引き返しになりました。とても賢明な判断でした」
「ーー」
「あの方はその後、北のラシュミール公国へ向かわれました。そして命を、ーー」
番人の声がわずかに止まった。
続きは、私にも分かっていた。
エルフ郷の書庫で、ジンラさんが読み上げてくださったエルネア様の手記。
そこに書かれていた、あの結末。
「貴方様は四人目」
番人が続けた。
「そして唯一、ーーここにひとりで来られなかった方です」
その言葉に、私は振り返った。
フレイがいた。
ライィも、ルヴェインもいた。
皆、私を見ていた。
「ーー」
何か言いたかった。けれど言葉が見つからなかった。
代わりに、目だけで彼らに伝えた。
番人がわずかに笑った。
「これが、貴方様の聖女としての性質なのでしょう」
七、
番人の目が、ライィの方を向いた。
「貴方は」
ライィの肩がわずかに揺れた。
「ーー何だ」
「貴方のお父様を、私は覚えています」
時間が止まった。
「ーー」
「十年前、ここに来られました」
彼女の声がわずかに震えていた。
「クルテルに阻まれて、辿り着くことはできませんでしたが、ーーあの方の目は優しかった」
「ーー」
「伝説を本気で信じていらした」
「ーー」
「貴方の目と、同じ色をしていました」
ライィの目から、また涙がこぼれた。
先ほどとは違う涙だった。
番人が続ける。
「あの方を、私は遠くから好ましく思っていました」
「ーー」
「けれど、私には島を守る使命があります」
彼女の声が低くなった。
「あの方をお助けすることができなかった」
「ーー」
「ごめんなさい」
彼女の声が震えた。
「私には、見守ることしかできなかった」
ライィはしばらく何も言わなかった。
それから、ふっと息を吐いた。
「ーーいや」
彼の声が震えていた。
「親父は、ひとりで死んだんじゃない」
「ーー」
「あんたが見ていてくれた」
「ーーはい」
「あんたが好ましく思ってくれていた」
「ーーはい」
「ーーそれで十分だ」
ライィはもう一度泣いた。
けれど、その涙にはもう慟哭の色はなかった。
何かがようやく、彼の中で納まったような涙だった。
番人はライィに近づいた。
小さな手で、彼の頬の涙を拭う。
「お父様の最期は、誇り高いものでした」
「ーーありがとな」
ライィが笑った。
涙を流しながら、笑った。
その笑みの中に、長年の重荷がようやく降ろされた色があった。
八、
番人が私の方に向き直った。
「聖女」
「はい」
「ここから先は、貴方の選択です」
「選択」
「ええ」
番人の声が低くなる。
「貴方様は今、聖女としての力をひとつ得ることができます」
「ーー」
「攻撃の力。打ち倒す力。星霊の力をより深く引き出す力」
「ーー」
「あるいは、ーー守る力」
「守る力」
「誰かを守るために、ご自分の身を盾にする力」
彼女はしばらく目を伏せた。
「エルネア様が、闇人をひとり救うごとに命を削った、あの力の系統です」
しばらく答えなかった。
フレイの方を見た。
彼は私の目を見ていた。
何も言わなかった。
私が選ぶ。
そういう目だった。
ライィを見た。
彼の目に深いものがあった。
父を想っているのが分かった。
エルネア様のように命を削って闇人を救う、その道。
父もそれを追っていたのかもしれない、という目だった。
ルヴェインを見た。
彼の目には、わずかな心配があった。
けれど、それを口には出さなかった。彼もまた、私の選択を待っていた。
自分の手の中の星霊の宝石を見た。
答えは、もう心の中にあった。
形にする必要はなかった。
ただ、口を開いた。
「守る力をください」
番人が頷いた。
「貴方らしい選択です」
「ーー」
「ただし、お伝えしておかなければなりません」
彼女の声が低くなる。
「この力は、ご自分を守ることはできません」
「ーーはい」
「いずれ貴方が自分の身を危険に晒したとき、この力は、ーー貴方を見捨てます」
「ーー」
「それでもよろしいですか」
しばらく、何も答えなかった。
けれど、心はもう決まっていた。
「はい」
番人が私の胸に手を当てた。
温かい光が、私の中に流れ込んだ。
星霊の宝石の光と似ていた。けれど少し違った。
より淡い。
より深い。
そして、より優しい。
光は私の身体の内側で、ゆっくりと根を張った。
「これで貴方様は、誰かを抱きしめる人になられました」
九、
光が収まった。
番人が最後に、私に近づいた。
「聖女」
「はい」
「ーー」
彼女はしばらく言葉を探していた。
「貴方は、いずれ知ることになるでしょう」
「ーー何をですか」
「貴方の、生まれた意味を」
心の中で、何かがわずかに揺れた。
具体的なものは何も見えていなかった。
けれど、その揺れだけがあった。
「ーー」
「今は申し上げません」
番人の声に、わずかな寂しさが混じった。
「申し上げる必要は、まだないからです」
「ーー」
「ただ、ーーそのときに」
彼女の目が、私をまっすぐ見ていた。
「祈っています。貴方が、自身の選んだ道を最後まで選び続けられるよう」
彼女の手が私の頬に触れた。
小さな手。
けれど、温かかった。
「お達者で、聖女」
「ーーありがとうございます」
番人が静かに後ろへ下がった。
遺跡の柱の影に戻っていく。
彼女の白い衣が、影の中に溶けるように消えた。
十、
番人と別れて、船に戻った。
船が舵を切る。
王都ラス・フェリアの方角へ。
しばらく、誰も何も言わなかった。
波音だけが静かに重く響いていた。
ライィが最初に口を開いた。
「ーー俺、決めた」
「何をですか」
「砂海を、渡り続ける」
彼の目が、まっすぐ前を見ていた。
「親父は、伝説を追っていた。俺は、ーー」
彼は、しばらく言葉を探していた。
「俺は、生きてる人間を運ぶよ。砂海で人が死なないように」
「ーー」
「親父の辿れなかった航路も、これで分かった。これを地図に残す。誰かが、また銀砂の奥に行こうとしたとき、その人が死なないように」
彼の声に、深い何かがあった。
父を追ってここまで来た少年が、ここで父を自分の中に納めた。
そして、別の道を見つけていた。
「それから、聖女様」
彼が、私の方を向いた。
「あんたがどこかで困ったら、銀砂の便りを寄越せよ」
「ーー」
「砂海を渡ってどこへでも駆けつける。それが、ーー俺のもうひとつの役目だ」
「ライィ」
「ありがとう」
彼は、ふっ、と笑った。
「俺が、勝手に決めたことだ」
その笑みの奥底に深いものがあった。
シェナさんが私に別れの夜に見せた、あの笑みに少し似ていた。
自分の中で、ひとつのものを納めた者の笑み。そして、それと同時に新しい糸をここから結ぼうとしている者の笑み。
「あんたたちが、どこで何をしていても」
ライィの目が、私とフレイ、ルヴェインを順に見た。
「砂海はいつでも開いている。俺がいる」
ルヴェインが、低く口を開いた。
「ライィ殿」
「何だ、王子様」
「貴方は、ファリアス王国の商人たちの最良の案内人になるでしょう」
「ーーそれは商売繁盛ってことか」
「ええ」
ルヴェインが、笑った。
「私も、王都に戻ったら、貴方を推薦します。砂海の新しい航路と案内人として」
「ーーありがてえな、王子様」
ライィが、頭をぼりぼりと掻いた。
「だが、商売だけじゃない。覚えとけ。聖女様、フレイ、王子様。あんたらは俺の家族だ」
その言葉に、息が止まった。
心話で、彼の心の奥に触れた。
そこに、嘘はなかった。
父を、失った少年が十年ひとりで、生きてきたその孤独の終わりが、いまここに、あった。
「ーーありがとう、ライィ」
私の目から、涙がこぼれた。
ルヴェインが、低く口を開いた。
「ナルディア、フレイ。王都に戻りましょう」
「はい」
「私が、お二人をファリアスの庇護下に入れる手続きを進めます」
「ーーありがとうございます、ルヴェイン」「リーナ殿の行方も、同時に、調べ始めます」
声は力強かった。
彼もやるべき芯が定まったのだ。
四人と一頭は、王都の方角へ向かって進んでいる。
フォリアが、心話で囁いた。
ーー嬉しい。
ーー皆、一緒いる。
ーーこれでいい。
私は、彼女の蔓に頬を寄せた。
「うん」
そう答えた。
そう、信じていた。
十一、
夕方。
王都への帰路の途中だった。
空がほのかに赤く染まり始めていた。
砂海の波音が、その赤を淡くすくい上げては、また落としていた。
何かを忘れているような気がした。
心の隅でそんな思いがよぎった。けれど、それが何かは分からなかった。
フレイが船尾で剣の手入れをしていた。ライィは舵を握っている。ルヴェインが地図に何かを書き込んでいた。
穏やかな時間。
あまりにも穏やかすぎる時間。
その穏やかさが、ふっと引き裂かれた。
空気が軋んだ。
遠くの空が、わずかに揺らぐ。
ライィが最初に気づいた。
「ーーおい」
彼の声が低くなる。
「何か来るぞ」
フレイの手が剣の柄に置かれた。
ルヴェインが銃の安全装置を外す。
空のある一点。
そこに影が現れた。
点が、ゆっくりと大きくなる。
近づいてくる。
翼を広げて。
その翼の縁が、赤く燃えていた。
フレイの呼吸が止まった。
ーー知っている。
ーーこの気配を。
彼の口が、ひとつの名前を形にした。
「ーーザイン」
その名前は波音に半分呑まれた。
影が船の上空に達した。
空中で、それは止まる。
長い黒髪が、赤い熱風にゆっくりと煽られていた。
紅い瞳。
背中の、巨大な燃える羽根。
その全てが、現実とは思えないほど光景だった。
「ーー久しぶりだな」
声が降ってきた。
低くて、どこか笑っているような声。
昔の知り合いに街角でばったり会ったような軽さで。
その軽さが、かえって空気を重くした。
フレイは答えなかった。
剣を抜くこともしなかった。
ただ見上げていた。
ーーザイン、お前は、ーー
彼の心の、その言葉の続きが、心話で薄く私に届いた。
けれど、続きはない。
言葉が見つからない。
仲間でもない。
兄弟でもない。
ただ、同じ場所にいた男。
「フレイ。降りてもいいか」
ザインがふっと笑った。
「立ち話もなんだろう」
返事を待たずに、彼は降りてきた。
甲板に音もなく足が着く。
羽根がゆっくりとたたまれた。けれど消えなかった。背中でまだ揺らめいている。
ーーもう、間合いのなか、だ。
フレイはそれでも剣を抜かなかった。
動けば、何かが決定的に始まってしまう。
それを本能で避けていた。
ザインの目が、ゆっくりと私を見つけた。
十二、
彼の目が、しばらく私を見つめた。
値踏みするような目ではなかった。
むしろ、確認している目だった。
「ーーああ、なるほど」
彼は低く呟いた。
「これが、お前の選んだ聖女様か」
フレイは答えなかった。
「フレイ」
ザインが首を傾ける。
「お前、変わったな」
「ーー」
「昔はもう少し、目に炎があったが」
「ーー」
「丸くなったのか。それとも、ーー何かを見つけたのか」
彼の口元がわずかに緩んだ。
その笑みが嫌な感じだった。
心話で、彼の心に触れようとしてみた。
硬い壁があった。
でも、その壁の隙間から、わずかに染み出てくるものがある。
嫉妬。
深い、深い嫉妬。
それから、それと同じ深さの孤独。
「聖女様」
ザインの目がこちらに戻った。
「俺の名前、聞いてるか。フレイから」
「ーー名前だけ伺っています」
「それだけか」
「ええ」
「ふん」
彼は笑った。
「相変わらず口が重い」
ザインはゆっくりと甲板を歩き始めた。
ライィが銃を構える。ルヴェインも銃を向けた。
ザインはそれを見ようともしなかった。
「フレイ。お前、こいつらに俺たちのこと、どこまで話した」
「ーー」
「五人のこと」
「ーー」
「まあいいや。話したくないよな」
ザインはふっと笑った。
「俺だって、新しい仲間に昔の話をいちいちしないさ」
彼は私の前で立ち止まった。
手は伸ばさなかった。
ただ、見ていた。
そして、目が細められた。
「聖女様。ひとつ聞いていいか」
「ーー何でしょう」
「あんた、いまいくつだ」
唐突な問いだった。
「ーー十九です」
「そうか」
ザインは頷いた。
「俺と同じ年だな」
その瞬間、何かが私の中でわずかに軋んだ。
ザインの口元がわずかに緩む。
「フレイもだ」
「ーー」
「ナスティも、ギルバーグも、ナルヴィも、皆だ」
彼は私の目をまっすぐ見ていた。
「俺たち、皆、同じ年に生まれた」
「ーー」
「面白い偶然だな」
「ーー」
「いや、ーー偶然だと思うか」
心臓がひとつ跳ねた。
彼はそれ以上、説明しなかった。
ただ笑った。
「フレイ」
ザインが振り返る。
「お前、聖女様に自分の生まれた年を話したことあるか」
「ーー」
「おまえの母親が、闇人と関わってしまった年のことだ」
フレイの呼吸が止まった。
「ーーお前」
「俺、別に何も言ってないぜ。聖女様のご想像にお任せするさ」
ザインは私の方を向き直った。
「ーー聖女様」
「ーー」
「あんた、ご自分の生まれた年をもう一度、よく考えてみるといい」
声が出なかった。
頭の中で、何かが計算され始めていた。
ーー私の生まれた年。
ーーフレイの生まれた年。
ーー彼の母さまが闇人と関わった年。
全部、同じ。
全部、同じだった。
「あんたが生まれた年に、俺たちは皆生まれた」
ザインの声が、遠く聞こえた。
「それを聞いたら、何を思う」
「ーー」
「答えは、もう出てる、そうだろ」
彼の目に嘲りが宿った。
けれど、その嘲りの奥に何か別のものも揺れていた。
ーー彼自身も、それを誰かに聞きたかった。
ーー誰かに、自分がなぜ生まれたのかを聞きたかった。
ーー彼にも答えなどない。
心話で、わずかに伝わってきた。
けれど、それを伝える余裕はなかった。
私自身が、いま立っていることで精一杯だった。
十三、
「ーーもういい」
フレイの声が低く震えていた。
「ザイン。ーー彼女から離れろ」
「おっと」
ザインが振り返った。
「フレイ、声が震えてるぜ」
「ーー」
「お前、知らなかったのか。俺たちが皆、同じ年に生まれたって」
「ーー」
「だろうな。あんたの母親は、お前にそれを教える暇もなかったし」
フレイの剣が抜かれた。
空気が変わった。
彼の瞳が紅く染まり始めている。
「黒影を解放するか」
ザインの口元が緩んだ。
「いいぜ。お前の力、久しぶりに見てみたい」
彼の背中の羽根が、強く燃え上がった。
赤い炎が、甲板を舐めるように走る。
フレイが跳んだ。
ザインも飛んだ。
ふたりが空中でぶつかった。
剣と炎の衝突。
甲板が揺れた。
ライィが舵を強く握りしめる。
ルヴェインが銃を撃った。けれど、ザインの周りの炎が弾を溶かした。
空中で、ふたりは激しくぶつかり合う。
フレイの黒影。
見えない波動。
ザインの赤炎。
空を飛ぶ翼。
力の系統が違っていた。
黒影は、相手を押し潰す力。
赤炎は、相手を焼き尽くす力。
ぶつかり合えば、相殺される。
けれど、相殺されないものがあった。
位置の不利。
フレイは跳ぶしかできない。
ザインは滞空できる。
時間が経つほど、フレイが消耗していく。
胸が軋んだ。
彼の消耗が、心話で伝わってくる。
ーーフレイ。
ーー戻ってください。
心話で呼びかけた。
けれど彼は聞かなかった。
いや、聞きたくても聞ける状況ではなかった。
ザインの炎の球が、ひとつ、フレイの背中に向かって放たれた。
フレイはそれに気づいていなかった。
考える前に、身体が動いていた。
船縁を蹴って、跳んでいた。
フレイと炎の球の間に入る。
番人からもらった力。
誰かを守るための力。
ーー間に合って。
それだけが頭の中にあった。
炎が私の胸に当たった。
熱さはなかった。
ただ、深い衝撃があった。
番人の力が、炎をわずかに和らげていた。
それでも衝撃は私の身体を貫いた。
息ができなかった。
砂海に落ちる。
遠くで、フレイの声が聞こえた。
「ーーナルディアっ」
その声は、絶望の形をしていた。
彼の心の何かがまた壊れたと、心話で感じ取った。
ザインが空中で私を抱きとめた。
ゆっくりと。
私の顔を覗き込んだ。
「ーー聖女様、無茶をするもんだな」
彼の声に、わずかに感心したような色があった。
「フレイ、見たか」
ザインが振り返る。
「お前の聖女様、お前のために自分から炎の中に跳び込んだぞ」
フレイは答えなかった。
ただ、剣を握る手が震えていた。
「ーーいい女じゃないか」
ザインが笑った。
「もったいないな。お前みたいな男には」
彼は私を抱え上げた。
軽々と。
私の意識は、もう半分薄れていた。
けれど、まだ聞こえていた。
「連れていくぜ」
「ーーザインっ」
「俺の楽しみを邪魔するなよ」
「ーー待て、お前、ーー」
「他の奴らが来る前に、俺は決着をつける」
遠くで声が聞こえる
彼の声に、わずかに何かが混じっていた。
焦りのような色。
ザインの羽根が強く燃え上がった。
彼の身体が空へ舞い上がる。
私を抱えたまま。
「ーーナルディア」
フレイの声が遠くなった。
私は最後の力で首をわずかに動かした。
彼の顔が見えた。
遠くなっていく、彼の顔。
絶望の形をした顔。
心話で何か伝えたかった。
けれど、力はもう残っていなかった。
ただ、目で見つめた。
彼の目も、私を見ていた。
それで伝わると信じた。
夕日の中で、ザインの羽根が燃えていた。
私は目を閉じた。
十四、
空を運ばれていた。
どれくらいの時間か分からない。
意識は半分夢のなか、半分現実にあった。
夢の中で、ラナーグの庭が見えた。
父さまが林檎の木に水をやっていた。
私はまだ小さくて、庭で転んで膝を擦りむき、泣いていた。
母さまが薬を塗ってくれた。
父さまが振り返って笑った。
「ーーナルディア」
父さまの声。
「お前が生まれて、よかった」
心臓が軋んだ。
夢の中で、涙が止まらなくなった。
父さま。
私が生まれてよかったって、本当に思っていてくれましたか。
私が生まれたから、誰かが不幸になった。
私が生まれたから、ーー。
夢の中で、私は答えを知っていた。
けれど、その答えを形にする勇気はなかった。
父さまの目が、私を見ていた。
「お前が生まれて、よかった」
もう一度、言った。
「お前は、お前の選んだものを最後まで選び続けたらいい」
夢が、霧のように薄れた。
目を開けた。
空が深い夕日の色に染まっていた。
ザインの羽根が、まだ燃えている。
彼の腕は私を抱えていた。
きつくはなかった。
むしろ、丁寧に抱えていた。
「ーー目、覚めたか」
彼の声が、上から降ってきた。
「ーーはい」
「気分は」
「ーー聞かないでください」
「ふん」
彼は笑った。
「強い女だな」
強くはない。
ただ、ーー。
続きの言葉を考えなかった。
ただ、林檎の木の青い葉の揺れだけが心に残っていた。
父さまが何年も育てた、その木。
たった一度の、甘い実のために。
私も、いま、ーー。
形にはしない。
ただ、その揺れだけを心に置いた。
ザインが何かを感じ取ったのか、ふと口を開いた。
「ーー聖女」
「ーーはい」
「ーーなんで泣かないんだ」
「ーー泣いていますよ」
私は低く答えた。
「貴方には、見えていないだけです」
ザインはしばらく何も答えなかった。
それから、ふっと息を吐いた。
「ーーフレイは、いい女を選んだな」
その声に、嘲りはもうなかった。
代わりに、何か別のものがわずかに混じっていた。
それが何かを確かめる余裕はなかった。
空が深く暮れていく。
地上が近づいてくる。
どこかの屋敷の屋根が見えた。
大きな、貴族の館。
そこへ、ザインは降下していった。
私を抱えたまま。
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