透明レモンソーダ 第三章 第二話
第二話
どくどくと耳まで聞こえてくるほど大きな音を立てて忙しなく動いている心臓を押さえつけるように深呼吸をしてから、食堂に足を踏み入れる。高い天井の下には数えるのも億劫になるほどの数のテーブルと椅子が並んでいた。
昼時はあふれるほど人がいるというのに、講義のほとんどが終わった時間帯となると、人が殆どいなかった。食堂を見渡してみると、ところどころ人がいるが、パソコンをいじっていたり、どこかで買っただろうお菓子を広げて談笑したりと、周囲への注意を一切払っていない人たちばかりである。佐藤の姿はどこにもなかった。
小さく息を吐き出して、他の人と距離があり、入り口から見える席に腰を下ろす。リュックサックを下ろして抱えるようにして持つと、少しだけゆっくりと呼吸ができるような気がした。
リュックサックを抱きしめる腕に力を込めてから身を縮こまらせて待っていると、一つの足音が耳に入ってきた。次第に大きくなる音に、ごくりと唾を呑み込む。入り口をじっと見つめていると茶髪の髪を揺らしながら佐藤が入ってきたのが視界に写った。
来た。
口の中が乾いていく感覚を覚えながら、おそるおそる手を挙げる。佐藤はすぐに前田の姿を見つけて、駆け寄ってきた。
「お待たせ」
前田の前の椅子を引き、その隣の椅子に自身の鞄を置いてから引いた椅子に腰を下ろす。
「待ってないよ」
ほんの少し声が裏返る。リュックサックを抱える腕に力が入ったのが見えただろうに、佐藤は何も言わなかった。
「ううん、待たせちゃったでしょ?」
「これはお詫び~」と鞄からイチゴ味の飴玉を取り出して佐藤は前田の前に飴を置く。
「あ、ありがと」
真っ赤な袋のそれに一瞬だけ目を伏せてから、笑顔を浮かべて飴を受け取った。ぎこちない笑みだったかもしれない。上手く笑えた自信はなかった。
「それで、何が聞きたいの~?」
前置きもなく、佐藤が本題に切り込む。
ふぅと息を吐き出して、唾を一回、二回と呑み込んで、舌で唇と舐めてから、口を開く。
「え、っと……」
聞きたいことはたくさんある。透水澄華のこと、関係、似ている理由……あと、好きな人。
だが、どう話を始めればよいのかわからない。どう聞けば佐藤が話してくれるか想像もつかない。
写真に写っていた黒髪の少女と茶髪の少女。
佐藤明日香と透水澄華。
眩しいくらいに明るい笑みを浮かべている二人。
目を疑いたくなるほど、笑顔が似ている二人。
二人の関係は?
佐藤の好きな人とは?
「あ、の……」
——トオミ、自殺したらしいんだわ。
馬場の声が脳裏に蘇り、言葉の形を崩す。
「何?」
知りたい。
知っていいのか。
聞きたい。
聞いていいのか。
一度深く深呼吸をする。
「さとう、さん……」
「うん」
佐藤が柔らかな声でうなずく。
つばを飲み込んで、
「とおみ、すみかさん……って……」
と、名前を口にした。
名前のあとの言葉が出てこなかった。
目の前にはテーブルのクリーム色が広がっている。いつの間にか視線が下がっていたらしい。リュックサックをぎゅっと抱えなおしてから、おそるおそる顔を上げる。
——そこには、表情を無くしてただ目を見開いている佐藤がいた。
「さとう、さ、」
間違えた、と思った。
「どこで聞いたの」
前田の言葉を遮るように発せられた佐藤の声は剣呑さが絡んでいた。
平生の温かさを纏った弾ける明るい声とは似ても似つかない、冷え切った低い声だった。
ひゅっと喉が鳴る。
見開かれた目が元の形に戻ってから、目尻が吊り上がっていく。眉間には皺ができていた。
息をすることも忘れていた。否、できなかった。何かが皮膚の上を這って行くような感覚がして怪我逆立っていくのを感じた。
目の前の女性は、本当に佐藤明日香なのだろうか。
笑顔が一切ない、どこまでも冷たいまなざしが小さくなることしかできない前田を射貫く。
「答えて」
鋭い言葉が飛んでくる。
前田は小さく息を吸って勢いよくいらえた。
「しゃ、しゃしん!」
「写真?」
「写真、を、み、見ました!!」
「何の?」
「さ、佐藤、さんと、透水さんが、う、写った写真、です!」
「ふぅん」
まるで尋問のようだった。
走ってもいないのに、息は上がっていて肩で呼吸をしていることに気づく。
「どれだろ。まぁいいや、それで?」
佐藤が顎をくいっと動かして、前田の言葉の続きを促した。
もう、なるようになれ。回らない頭で記憶だけを掘り起こして言葉にしていく。
「えっと、友達が、その友達から変なことを言われたって言ってて。佐藤さんが透水さんと似てるって言われたらしくて、それで写真、見せてもらって、二人が、写ってるやつで、」
つばを飲み込む。口の中が、喉が、からからと乾いて仕方がなかった。
「佐藤さんだと思ってた茶色の髪の人が透水さんで、黒髪の人が、佐藤さんで……二人とも違う人なのに、笑顔が、その、似ていて、」
瞬きをする。
瞼が下りるたびに、暗闇の中で二人の少女の輝かしい笑顔が浮かんだ。
上手く言えない。
話がまとまらない。
もう自分が何を話しているのかさえ分からなかった。
「そう」
言葉が、止まる。
興味がなさそうな温度のない平坦な声が鼓膜を打った瞬間、これから紡ごうとしていた言葉たちが、口の中で音もなく弾けて消えていった。
「だから?」
鋭い目に睨まれて、今すぐにでも逃げ出したい気分に駆られる。誰かに助けてもらいたいと心の底から願った。
「私と澄華の何が気になったの?」
「えっと……透水、さんが、あの、その、佐藤さんに、似てて」
「さっきも聞いた」
「あ、ご、ごめん、その、それで、透水さんがどんな人、なにか、気になって」
「気になって、何? 聞いてどうするの?」
「え、あ、」
「澄華の話を聞いてどうしたいの? 興味本位?」
佐藤は吐き捨てるように言うと一呼吸おいて、「はっ」と自嘲した。
「似てる? そうだよ、似てるの、似せてるの。似ていて当たり前だよ。だって私が澄華の真似をしているんだもの。髪の毛の染め方も、結び方も、メイクの仕方も、笑い方も、全部、全部、全部、澄華が私に教えてくれたんだから」
佐藤は乾いた笑みをこぼして、
「可愛いは作れる。笑顔も、顔の動かし方でよく魅せられる」
突き放すような言い方に前田は何も言葉を返せなかった。
佐藤は似せているといった。似ているのは、故意ではなく、意図的。
死んだ透水澄華の姿を、佐藤明日香はわざと真似ているということである。
なんで? なんのために?
そもそも——……。
「これで満足?」
佐藤は行儀悪く頬杖をついて前田を睨みつけながら唾を吐き出すかの如く言葉を吐きだした。だが、前田の耳には佐藤の言葉など届いていなかった。
「透水さんは本当に自殺したの」
佐藤がひゅっと喉を鳴らす。
その時やっと己の疑問が口から零れたことに気づいた。
「あ、えっと、」
佐藤は目を見開いたまま、開いた口をゆっくりと閉じる。瞬きすら忘れて前田を凝視していた。
やってしまった。
そう思った。
だが、そう思う頃には遅すぎた。
あまりにもデリケートな話題を、簡単に口にしてしまったのだ。どうにかしないと。どうにかして、やりすごさないと。
どうしよう、どうしよう。どうしたら、佐藤さんに、
「本当」
凛とした声だった。
揺らぎのない真っ直ぐな声色に身体が、頭が、思考が、心が、全て止まる。まるで時間の流れも止まったかのように感じた。
「本当だよ」
佐藤はそういうと席を立ち、鞄を乱暴につかんで前田の前から姿を消した。
