透明レモンソーダ 第二章 第二話
第二話
「佐藤さん好きな人がいるって」
腹の虫が思わず声を上げてしまうような香ばしい匂いのする煙が上がる中で、前田は重いため息とともに言葉を吐きだす。
溌溂とした店員の声や顔も名前も知らに人々の声が聞こえる店内で、前田の言葉を正確に聞き取った愛崎と馬場は顔を見合わせた。
講義が全て終わった時間帯に『来て』という言葉と店の所在地を愛崎と馬場に送ったところ、二人はすぐに飛んできて机に伏せていた前田の前に腰を下ろした。
脈絡もなく吐き出した言葉でだいたいのことを察した二人は目を見開いたのちに瞬きを繰り返してから、
「まじか!?」
「嘘だろ」
と、素っ頓狂な声を上げた。
「だから前田のアタックに関して何も言わなかったのか」
「んじゃ、今日は前田の慰め会だな~」
「ダッツ奢るの今度で良い。今日は俺らが奢る」
「仕方ねぇから奢ってやんよ!」
「まだフラれてないから!」
思わず声を上げるが、馬場の笑い声にかき消される。
「悪あがきじゃん!」
「いや、恋はあがいてこそだろ」
「愛ちゃん! イイこと言うねぇ~!」
「最高! 大好き!」と馬場が愛崎に抱き着くが、愛崎は「暑い」と馬場を押し返した。慰め会と言いながら全く慰める気のない二人を、前田はじっとりとした細い目で見る。慰めてほしいわけではないが、放っておいてほしいわけでもない。話を聞いてほしくて呼んだのに。
前田はわざとらしく深い溜息を吐いて上体を起こした。
丁度良いタイミングで運ばれてきた焼き鳥と酒を囲んで、前田は口を開く。
「佐藤さん、たばこ、吸っててさ」
瞼を下ろせば、ライターとタバコの箱を鞄に入れる佐藤の姿が暗闇の中に浮かび上がる。
喫煙所に佐藤が入っていったのを見て、思わず足を止めたこと。喫煙所から出てきた佐藤にタバコを始めた理由を聞いたら、好きな人が吸っていたからと返されたこと。好きな人は内緒だと言われたこと。一部始終を吐き出して、自分用に頼んだレモンサワーを煽る。炭酸が舌を叩いて、それから少しの苦みがやってくる。
「へぇ」
「タバコとか、めっちゃ吸わなそうなのにな~。まぁ、好きな人が吸ってたら吸いたくなるのはわかるかも!」
「馬場、お前に情緒があったのか」
「いやあるし。めちゃくちゃわかるし! だって好きな人が吸ってたらさ、どんな味すんだろ~とか思うじゃん? 俺なら吸うね! マズくても吸うね!!」
「馬場のことは聞いてないから」
「がっびーん! 前田ちゃんが冷たひ~」
「ぴえん」と言いながら焼き肉を頬張る馬場を見ながら、前田はレモンサワーに口をつける。今日は酒を浴びるように飲んで、べろべろに酔ってしまいたい気分だった。二人の奢りなのだから、存分に飲んでやろう。小さな野望を密かに胸に抱いて近くを通った店員に酒の追加を頼む。
「酔っぱらいの面倒はみないぞ」
「けち」
舌を出してみせれば、「可愛くねー」と愛崎がカラカラと口を開けて肩を揺らして笑った。
「佐藤のさ~好きな人って誰なんだろうな~」
前田が頼んだつくねを食べながら馬場が言葉をこぼす。
「俺らの知ってるやつ?」
「どうだろうな。佐藤の交友関係は広いから他の学校のやつかもしれないな」
「他学部と仲いーし?」
「佐藤ちゃんコミュ力激高~」という馬場の言葉に前田は心の中で激しくうなずいた。人と話すときに緊張してまともに言葉を発せない自分とは大違いだ。
「でも、喫煙者となると限られるんじゃないか?」
「たしかに」
そうだ。佐藤がタバコを吸い始めたきっかけは好きな人が吸っていたから。つまり、佐藤の好きな人は喫煙者ということになる。吸っている人は少ないのだから、該当者は少ないだろう。
「でもさ、昔は吸ってたけど止めた人もいるんじゃね?」
馬場の指摘で肩を落とす。たしかに、そうだ。好きな人が今も吸っているとは限らない。盲点だった。
「他の人たちにタバコ吸ったことあるか聞いてみようかな」
佐藤の好きな人を知るためにはそれしか方法はないだろう。だが、話しかける勇気がない己にはできないものだ。
「探偵みたいなことすんの」
「ストーカーの間違いじゃね?」
「最悪だな」
「やらないよ!!」
「あのさ、ふつーに佐藤の友達に聞けばいいだろ」
「それができたらもうやってる……」
前田がまともに話せる相手は愛崎と馬場くらいだ。佐藤の友達と挨拶するのですら大変だというのに、そのうえ好きな人を聞くなんて、絶対にできない。できないことに確信を抱いていた。
店員が追加のお酒をテーブルに置いて去っていく。前田はねぎまを食べて、レモンサワーを飲み干してから、新しく来たレモンサワーを手に取ってグラスを傾けた。
炭酸が舌の上で弾ける。レモンの酸っぱさが炭酸と手を繋いで、舌の上でタップダンスを踊っていた。喉を鳴らして呑み込めば、喉元を蹴って体の中に落ちていく。少しだけ視界が揺れたような気がした。
「友達、友達……ねぇ……」
言葉を繰り返しながら馬場が頬杖をついて汗をかいたグラスをつつく。突然静かになった馬場に、前田も愛崎も目を向ける。見つめても視線が合わないため、眉間にしわが寄っていくのが自分でもわかった。
「なんだよ、馬場。何か言いたいことでもあるの」
口を突き出して言葉を投げつける。馬場は「そういえばさ、俺の友達が言ってたんだけどよ~」と尻ポケットから携帯を取り出して操作をし始めた。正面に座っている前田からは馬場が何をしようとしているのか見えず、眉間のしわを濃くすることしかできなかった。
「ちょーへんなこと言ってたんだよ」
「変なこと?」
思わず聞き返すが、馬場の視線はスマホの画面に向けられたままで、親指は忙しなく画面の上を滑っていた。「あー」や「うー」と意味のない言葉が馬場の口から落ちていき、平らだった額に皺が生まれる。
「なんかさー、他の学部のやつがさー、佐藤を見てー、トオミーだとかなんとか言ってたんだよー」
「トオミ?」
「誰だ?」
前田が愛崎を見ると、愛崎は顔をしかめて首を振っていらえた。
「トオミって誰だし。あいつは佐藤だって言ったらすっげーびっくりしててさ」
「はぁ?」
首を傾げる愛崎を横目に見てから、前田は目を瞑った。
とおみ、トオミ、トオミ……。知らない名前だが、知っているような気がする。どこかで見たような、聞いたような。記憶を掘り起こしてみるが、思い出せない。もどかしくなって頭をかいた。
「トオミって苗字? 名前?」
「苗字だって~。下の名前は、たしか……スミ、なんとかだった気がする」
「ちゃんと覚えとけよ」
「ごめん~」
トオミ、スミ……。透水、澄華?
勢いよく目を開ける。
透水澄華。そうだ、ジェンダーの講義で佐藤さんが書いていた文字だ。頭の中に広がっていた霧が晴れるような心地で息をゆっくりと吐く。
「でもなんでびっくりしたんだろう……」
「あー、ね。なんかトオミに似てるんだって」
「ほら」と言って馬場がスマホをテーブルの上に置く。ガタンと音を立てて置かれた画面の割れたスマホには二人の少女が映っていた。
「この前スマホ変えたって言ってなかったか?」
「昨日落として画面割った」
「馬鹿か」
「えへっ」
「褒めてねーよ」
二人のやりとりを聞きながら写真を凝視する。
どちらもセーラー服を身に着けていて、片方は肩にかかるくらいの黒髪、もう片方は茶髪を一つにまとめている。割れた画面の中にいる二人は、見ているこちらも思わず笑顔になってしまうようなとても明るい笑顔を浮かべていた。
茶色の髪の少女が佐藤だろう。ならばこの黒髪の少女が透水澄華だろうか。
「この黒髪がトオミ?」
「いんや」
愛崎の言葉に馬場が首を振る。前田は顔を上げて馬場を見つめた。
「この茶色の髪の人がトオミなんだって」
「え、」
言葉を失い、写真に目を落とす。
「はぁ? じゃあ佐藤は?」
「黒髪の方」
「うそだ」
画面の中にいる茶髪の少女はどこからどう見ても佐藤だ。大学の講義の合間に友達と話している時に見せる笑顔とそっくりである。
「マジなんだって」
馬場がスマホの画面の上で漢数字の一を描くように指を滑らせる。次に出てきたのは茶色の少女だけの写真だった。先ほどと同じくセーラー服を身にまとい、こちらに向かって笑顔を浮かべたままピースを向けている。
「こっちがトオミ!」
「うっそだろ」
愛崎が身を乗り出してスマホの画面を凝視する。目をこすってから目を見開いてもう一度じっくり見た後、置かれたスマホを手に取ってスマホの画面を顔に近づけたり離したりして写真を確認した。
「いやいや、どう見ても佐藤だろ」
息を吐きながらテーブルの上にスマホを置く。今後は前田がスマホを手に取った。
画面をスライドして、一枚目の佐藤と透水が映った写真を再度見る。
きらきらとした笑顔で、とても嬉しそうであるのが伝わってくる。眩しすぎて目を細めてしまいたくなるくらいだ。
じっと見つめる。笑顔の二人。しかし、その笑顔がなんだか、
「ちょっと似てる、かも?」
かも、ではない。かなり似ている。
眉や目の形、口角のあげ方、頬にできるえくぼ。髪の毛の色や髪の長さが異なるが、笑顔がとても良く似ている。いつも見ている佐藤の笑顔がそこにはあった。まるで双子のようである。
「お前の目は節穴か」
「いやいやいや、よく見てよ! 似てるじゃん!」
愛崎と馬場に画面を向ける。
「た、しかに……?」
「言われてみれば、似てなくも、ない?」
「透水さんについて、明日佐藤さんに聞いてみる」
どうしてこんなにも似ているだろうか。透水とはいったいどんな関係なんだろうか。どうしても知りたいと思った。
割れた画面の中で笑っている二人のことが、知りたい。
「あー、それはちょっと……やめといたほうがいいかも」
「え、」
なんで、と非難の言葉を重ねる前に馬場が口を開く。
「いや、あのー、さ?」
馬場は口を開いては閉じてを繰り返してから、深呼吸を一つする。黒い目が右へ左へと揺れていた。
「……馬場?」
愛崎の声を聴いて目を瞑り、大きく息を吐いてから口を開いた。
——トオミ、自殺したらしいんだわ。
前田には馬場の言っている事がすぐに理解できなかった。
喧騒が遠のく。
息をするのも忘れていた。
自殺?
いつの間にか馬場のスマホの画面は黒に染まっていた。
