透明レモンソーダ 第一章 第一話
『はいはーい! 笑って笑って!』
茶色の髪をポニーテールにしたセーラー服の少女が、満面の笑みを浮かべてこちらに手を伸ばしている。
『どんな顔も可愛いけど、笑った顔が一番可愛いよ!』
第一話
隣の席に座りたいからという理由で朝から選択講義を入れたのは間違いだった。
自分の愚かさを密かに嘆きながら「ふあふ」と間抜けな声とともに欠伸をこぼすと、右隣を歩いていた馬場かしやが、
「お、寝不足か? それとも夜更かし? あ、もしかしてシコってた?」
と、己の欲求に忠実な言葉を口にした。
周囲には男女ともに数多の学生がいる中、そういったことを口にできるのは何も考えてない馬場の個性というべきか。前田当麻はなんと答えるべきか迷ったが、上手い返しが思いつかなかったので「あはは」と愛想笑いでいらえた。
馬場はそういうやつだ。脳みそと口が直結しているのではないかというほど、思っているだろう言葉がすぐに音となる。公共の場であろうとなかろうと、常識がある人であれば発言するのを躊躇うような言葉でさえ、ぽんと口から吐き出してしまう。良くも悪くも素直なところが彼のキャラクターとして浸透して『馬鹿な馬場』と同級生から愛されているのだから、何とも言えない。
「馬場、それはここでいうべきじゃねーよ」
「アホ」と軽い叱責を飛ばして馬場の頭を軽く子突くのは、馬場の左隣を歩いていた愛崎龍成だった。真っ赤に染められた癖のある髪に白いシャツにジーンズといったカジュアルな服装の愛崎は、まさに『垢ぬけた男子大学生』の姿そのもので、男女ともに人気がある。中学、高校と一緒だった前田にとっては髪の毛の色が黒から赤に変わった程度で、垢ぬけた感じは全くないのだが、さっぱりとした風貌がそうみせているらしい。前田には『垢ぬけ』の基準がよくわからなかった。周りがそういうのであればそうなのだろう。
「ごめんって。でも、前田がこんな朝から講義受けるのだって、佐藤ちゃんがいるからっしょ?」
「馬鹿! 口に出すなよ!」
「好きな人がいるのって別に恥ずかしがることじゃなくね? 告白すればいーじゃん」
「ねぇ」と馬場が愛崎に話題を振る。
「好きなら好きって言って当たって砕けた方が早いと思う」
「そん時は、『前田慰め会』開いてやんよ!」
「なんで俺がフラれる前提なのさ」
「いやぁ……ね~」
歩いているうちに一時間目の講義が行われる教室にたどり着く。前田は馬場に背中を押されて三人の中で一番初めに教室に足を踏み入れた。
壁や天井が木で覆われた教室の中にはすでに受講生の半分ほどが集まっていた。前田は瞬きを繰り返して視界を良好にしてから、可笑しな挙動には思われないように、自然に見えるようにあたりを見渡した。右側には教壇があり、左側にいくにしたがって席が高くなっていく。階段状になっている座席のため教壇から学生の顔が見えるし、学生は教授の顔も黒板やスクリーンも見えるというわけだ。
あ。
教室の真ん中よりも前、講義スライドが投影されるスクリーンの近くの席に、彼女——佐藤明日香が座っているのが目に入った。
ミルクチョコレート色の明るい茶色の髪をポニーテールにしている佐藤は、机の上に飴玉と教科書とルーズリーフを置いている。けれど、それら勉強道具に目を向けることなく近くに座っている女子学生と楽しそうに話をしていた。二重が綺麗な目が優しげに細められていて頬にはえくぼが見えている。佐藤が笑うたびに結ばれた髪の毛がゆらゆら嬉しそうに揺れていた。
「まーえだ!」
振り返ると目と口を三日月のようにして、にやにやというような効果音がつきそうな気持ちの悪い笑みを浮かべた馬場がいた。
「うるさい」
「何も言ってねーけど?」
「顔がうるさい」
「顔!?」
馬場が「ガビョーン」と変な声を出しながら目と口を見開き、ムンクの叫びのように両手で頭を挟むように持つ。そうかと思うと、泣く真似をしながら愛崎に抱き着いた。
「愛ちゃーん……前田っちがいじめるみょーん……」
「いじめてなんかないよ!」
ついつい言葉が強くなってしまったのは仕方がない。それくらいは許してほしい。
「馬場はいじりすぎ。前田は真に受けすぎ。とっとと教室入るぞー」
自身にまとわりつく馬場を引きずりながら歩く愛崎に背中を押されて歩き出す。進む先には佐藤がいた。心臓の音が大きくなっていく気がした。
「おはよ」
愛崎の挨拶をきっかけに挨拶が飛び交う。前田も流れに乗って挨拶を投げてみたが、佐藤に届いたとは思えなかった。
「隣座ってもいい?」
「いーよー!」
愛崎の言葉に佐藤が元気よく返事をして、己の荷物を少しだけ反対側に寄せる。
愛崎が佐藤さんの隣に座るのかな。いいなぁ。なんて、ぼんやり佐藤の隣の席を眺めていると、愛崎に腕を掴まれて先ほどまで見ていた席に座らされた。
「え、あ、え!?」
「それじゃ、俺はこーこ!」
戸惑っている間にも馬場が前田の隣、佐藤がいる方とは反対の席に腰を下ろす。逃げ場はどこにもなかった。要領を得ない言葉ばかりが口から零れ落ちて、膝の上に乗って積みあがっていく。愛崎は何食わぬ顔をして後ろの席に座る女子学生の隣に移動して腰を下ろした。
「大丈夫?」
「う、うん……」
心臓がぎゅんと音を立てて跳ね上がる。
佐藤さんに話しかけられた!
佐藤さんに話しかけられた!
話しかけられただけで大袈裟だときっと馬場は笑うだろうが、前田にとって佐藤に話しかけられたことは好きな人に話しかけられたことと同義なのだから、嬉しいを超えて幸せであった。
「はい、じゃーこれあげる」
佐藤はクスクスと小さく笑うと机の上に置いていた飴玉を一つ取ってこちらに差し出した。
「いいの?」
「うん。いーよ」
「あ、ありがとう」
掌を向ければその上に飴玉が乗せられた。真っ赤な袋には『イチゴ味』と丁寧に書かれている。
机の上を見る。そこには黄色の袋が残っている。
レモン味の飴。それは……。
「あれ、イチゴ嫌い?」
「え、いやっ、そうじゃなくって、」
「レモンがよかった?」
「あ、」
「あははっ! 素直! でもごめんね、レモンだけはあげられないんだ~」
知っていたことだ。佐藤さんは絶対に他の人にレモン味の飴をあげない。
「……大丈夫」
でも、そのレモン味の飴を貰えるような、そんな人間になりたいと思ってしまった。
佐藤が眉を八の字にして謝罪の言葉を口にするなり、ポケットの中にレモン味の飴をしまい込む。前田は一部始終をイチゴ味の飴を握りしめながらみていた。
「飴、ありがとう」
「どういたしまして!」
佐藤がふわりと花開くように優しく微笑む。前田にとっては目を瞑ってしまいそうなほど眩しい笑みだった。
講義が始まる鐘が鳴り、教材とパソコンを片手に抱えた教授が教室に姿を現す。教授の存在を誰よりも早く気付いた佐藤が
「お、始まるね」
と、小声で言った。佐藤の言葉を合図に周囲の者たちは話すのを止めて教授の方を見る。優等生ぶっているとか、リーダーシップを発揮したとか、そんなわざとらしい指揮ではなく、自然な声かけに聞こえた。佐藤の人柄が友人を動かしたのだろう。
佐藤さんはすごいなぁ。
周りに合わせるようにして前田も体の向きを前に向けて、鞄から教科書とノートを取り出した。
教室の明かりが消えてスクリーンにスライドが投影される。
それから、ジェンダーの講義が始まった。
