透明レモンソーダ 第五章

第五章


『女の子同士の恋人って認められないんだって』

 そういった透水は泣いていた。涙を流したり、鼻をすすったりはしていなかった。しかし、佐藤の瞳に写る透水は、たしかに泣いていた。

『じゃあ、透明人間だ』

 その瞳から雫一滴でも流れてほしくなくて、何か言わなければと口を開いたとき、勝手に飛び出した言葉がそれだった。

 何が、透明人間だ。私たちはここにいるというのに。

 佐藤は心の中で悪態をついたが、目の前の愛おしい人が失笑したのを受けて、数回瞬きをした。

『あははっ!』

 とても可笑しそうに、口を大きく開けて、おなかを抱えながら笑う透水につられて笑みを零す。

『私たち、透明人間だ』

 そう言った透水の頬は赤く染まっていて、目尻には笑いすぎたが故の透明でキラキラとした雫がたまっていた。

 ——透明人間だった。けれど、たしかにここにいた。




***




 走る、走る、走る。

 息を切らして、肩で風を切って、足を前へ前へと進ませる。

 通り過ぎる人々が目を丸くしたり、顔をしかめたりしながら、佐藤を避けていく。早くいかなければと気持ちが体を追い越して先へと走っていく。身体が重くて仕方がなかった。

 握りしめているスマホが絶え間なく震えている。うるさいほど、鳴っている。

 早く、はやく……。

 はやくいかないと、澄華が——……。




***




 佐藤明日香にとって透水澄華は神様みたいな人だった。




 透水澄華に出会ったのは高校に入学してからだった。

 高校入試に無事合格して、どうしても行きたかった高校に通うことになったのだが、佐藤は人付き合いが苦手だった。誰かと名話すときに相手を気遣って、言葉や態度を考えながら話すせいか、思うようにしゃべることができず、気づけば教室の隅で本と顔を突き合わせるようになっていた。

 読書が嫌いというわけではない。本の中の世界はいつだって佐藤を楽しませてくれたのだから。無理して人と話すより、本を読んで様々な世界をみる方が有意義で幸せだった。

 本の虫になっていた佐藤をクラスメイトは陰キャだと笑い、嘲っていたが、透水だけは違った。他のクラスメイトと同じように接し、言葉に詰まったり上手く話せなかったりする佐藤の言葉を、時間をかけて引き出した。

 誰にも平等に優しく、慈しむ。その姿はまるで神様のように美しく、綺麗だった。クラスの中心で輝かしいほどの眩しい笑みを浮かべながら人に囲まれるその姿を、佐藤は見ていることしかできなかった。


 佐藤が透水と交友関係を築くきっかけとなったのは、透水が一人で屋上に上がっていったのを見かけたことだった。

 いつも人々に囲まれている透水が、たった一人で人通りの少ない廊下を歩き、周囲を気にしながら外につながる非常階段を出て屋上に昇って行ったのである。佐藤は早くなる鼓動を抑えながら、息を殺して透水の後ろをつけた。

 屋上に出た透水は、壁に背を預けてしゃがみ込むと、いつも浮かべている笑みを消し、ぼんやりとした顔になり、空を眺めながら手慣れた動作でポケットから煙草とライターを取り出した。佐藤は「あ、」と声を漏らしたが、透水に気づかれることはなかった。

 慣れた様子で白い棒を口に加え、風邪を遮るように手で火元を囲いながら白い棒に火をつける。灰色の煙が薄っすらと立っていた。

 あの、透水さんが煙草を吸っているなんて!

 驚きのあまり声が出そうになり、慌てて口を塞ぐ。未成年喫煙は犯罪で、学校の職員に見つかってしまったら退学になってしまう。そうであるにもかかわらず、透水は吸っていた。

 慣れた様子からして、吸うのは初めてではないのだろう。吸っては煙を吐き出すrことを繰り返す姿は何だか様になっていて、格好よく見えた。

 透水澄華は、神様だと思っていた。

 人々に囲まれて笑っている彼女は、とても神々しくて、眩しくて、美しくて、憧れだった。

 しかし、目の前にいる彼女はどうだろうか。

 笑み一つ浮かべずに、どこか疲れ切った様子で、体から淀みを吐き出すかのように汚れた煙を吸っては吐き出すことを繰り返している。

 あぁ、透水さんも人間なんだ。

 もともと同じ人間であったというのに、その気持ちは佐藤の中にストンと落ちた。

 隠れることなく堂々とした態度で、透水の元へと足を進める。

 佐藤がやってくることに気づいた透水は煙草を片手に持ったまま目を丸くして固まっていた。

 透水のすぐ傍で立ち止まる。こちらを見上げる瞳は暗い色をしていた。

 あんなに遠くにいると思っていたのに、こんなにも近かったなんて。

 もっと近づきたい。

 もっと傍にいきた。

「……皆に言う?」

 諦念の滲んだ声が佐藤の鼓膜を柔く打つ。

 佐藤はその場にしゃがみ込み、透水の手から煙草をとってから、火の着いた部分を地面にこすりつけるように押し付けた。

「これで共犯だね」

 腰を上げてから、火も消えて、折れ曲がったタバコをわざと踏みつける。

「んふふっ」

 タバコから目をそらして透水のことを見る。

 透水は先ほどの沈んだ表情がまるで初めからなかったかのように、頬にえくぼを作って笑っていた。

 その笑顔はなんだか泣いているみたいだと、佐藤は思った。




***




 走る、走る、走る。

 手の中に収まっているスマホから、無機質な音が断続的に流れている。

 なり続ける、呼び出し音が切れることはない。

 出て、でてよ、ねぇ!

 祈るようにスマホを握りしめて走り続ける。

 まだ、呼び出し音が止むことはない。




***




 佐藤と透水の交流は誰の目にも入らないまま続いていた。密かに、息を殺して、お互いの手を握り合うように。互いの秘密を打ち明けながら、二人だけの世界を守っていた。

 透水と仲が深くなればなるほど、透水澄華が人間であり、様々な問題を抱えていることを知った。

 両親は、父親の不倫に機に離婚。透水は母に着いていくことになったが、父に捨てられた母は精神を病み、喜怒哀楽をコントロールすることもできなくなってしまったという。これでは母親失格だと嘆いた透水の母は、己の精神状態を保つために男をとっかえひっかえするようになってしまったらしい。

 家に帰ると見知らぬ男がいるのが透水にとっての普通だった。

 しかし、透水は家庭の事情などクラスメイトに一切話すことも見せることもしなかった。一般家庭で育ったかのように、他のクラスメイトと遜色ない生まれであるかというように、話を合わせ、必要であれば偽りを言って聞かせた。

 透水は演じるのが誰よりも上手かったのである。

 それがどうしても許せなかった。

 なぜ、透水がそんな目に合わなければならないのだろうか。

 誰よりも優しくて、誰よりも綺麗な、人間だけれど神様みたいな美しい人が、どうして。

 辛かった、苦しかった、やるせなかった。

 透水は泣かなかったが、透水の分まで佐藤は涙を流した。

 目が腫れて、声が掠れるまで泣いた。

 透水が抱えている辛さを、どうにかして取り除いてあげたいと本気で思った。

 気づけば佐藤は、他者を慈しむことのできる透水のことを心の底から愛おしいと思っていた。自分のすべてを捧げてもいい、透水が幸せになるのならば死んだっていいと思うほどに、心を傾けていた。

 いつも持ち歩いている飴を上げ、二人だけの時は抱きしめて背中をさすり、疲れている顔をしている時は適当な理由をつけて連れ出した。

 佐藤は丁寧に愛を注いだ。

 その愛を返すように、透水は己の持ちうるすべてを佐藤に教えた。

 そんなある日のことだった。

 誰も立ち入らない屋上で密かに会っていた時、透水は佐藤の頬に唇を押し付けた。

 突然の行動に、キスをされた頬を手で覆って透水を凝視した。

「嫌いになった?」

 透水は眉を八の字にして笑った。

 困った顔のような、泣きそうな顔のような、感情がぐちゃぐちゃに混じった顔のまま、笑って見せた。

 馬鹿だなぁ、澄華は。

 佐藤から離れようと立ち上がりかけた透水の手を引いて抱き寄せる。

 鼻と鼻がぶつかる。

 視線が交わる。

 透水の瞳には佐藤しか映っていなかった。

 目をそらすことなく真っ直ぐ見てから、顔の位置をずらして、佐藤は透水の唇に己の唇を重ねる。

 柔らかな感触と温かい熱が唇を伝ってやってくる。

 時間にすれば数秒だっただろう。しかし、佐藤の中では永遠にも近いほどの長い時間にように感じられていて、それが透水も同じであったならばいいと、そう願わずに羽いられなかった。

「キスは口でしょ」

 してやったりと片方の口角を上げていらえる。

「さいっこう!」

 透水は声を上げて佐藤の身体に抱き着いた。

 互いに互いの身体に腕を回して、話さぬように力一杯抱きしめる。苦しくなるほど、ぎゅうぎゅうと抱きしめて、それから少しだけ力を抜いて体を離してからもう一度唇を合わせた。

 酸素を渡し合うように、愛を渡し合いながら、何度も何度も口づけをした。




***




 走る、走る、走る。




***




 透水には母親が勝手に決めた相手がいると知ったのは、暑い夏の日のことだった。

「いいなずけ、だってさ。古いよね~」

 垂れる汗をぬぐいながら、軽々しく言う。

 辛いことも、苦しいことも、軽い口調で言うのは透水の癖だった。

「いやだって言ってるのにさぁ」

 レモン味の飴を口の中で転がしながら、言葉を口にする。

 本当は投げ出しただろうに。なんでって叫びたいだろうに。

 なんてことないような顔で言うだけだった。

「もう、決まってるんだって」

 明日の天気を告げるような口調で、透水は淡々と話す。

 聞いていられなかった。

 このままでは、透水が壊れてしまうのではないかと本気で思った。

「澄華」

「ん?」

 タバコの箱を握っていた手を両手で包み込む。

 汗が流れるほどの暑さだというのに、その手は冷え切っていて冷たかった。

「澄華、逃げよっか」

 カラン。

 透水の口の中で飴玉が転がる音がした。

「私もさ、一緒に逃げるから」

「ダメだよ」

 ガリッと飴が欠ける音がした。

「だめ、だよ」

 ガラガラと乱暴な音がした。口の中を転がっていくような音だった。

「明日香のこと、巻き込めない」

「巻き込んでよ。私、澄華のためなら死んでも良いって、」

「そんな悲しいこと言わないで!」

 悲鳴に似た声が透水の口から零れ落ちた。

 初めて聞く声色に思わず言葉をのむ。

「明日香、あすか、ねぇ、私の神様」

 かみさま? それは澄華のほうだよ。

「ずっとずっと綺麗だと思ってた。汚さないようにしようって思っていた」

 それは、まるで懺悔のようで。

「澄華……」

「私、私が明日香のこと好きになったから、好きになってしまったから……ごめん、」

「謝らないで! 私よりも澄華のほうがずっとずっと美しくて、綺麗で、素敵だよ。神様みたいな人、私の大好きな澄華」

「明日香は私につられてそう言っているだけ! 私に流されてそう思って、言ってるだけだよ! 好きなんかじゃ、」

 ちがう! 

「違う!」

 思わずカッとなって叫んだ。透水に、言われたくなかった。透水だけには、私の気持ちを否定されたくなかった。

 透水の言葉を遮って、己の言葉を重ねていく。

「ずっとずっと一緒にいたい。……私、澄華となら何でもできるよ。だって私の人生全部あげたいって、そう思ってるから! これが愛じゃないなら、何が愛なの!」

 何もかも全てあげたいと思った。

 透水澄華に佐藤明日香のすべてを捧げたいと本気で思った。

 これが愛でないのならば、何を愛と呼ぶのだろうか。

 透水の口の中からガコリと鈍い音が聞こえた。飴が割れた音だった。

 透水が腕の中に佐藤を閉じ込める。季節の暑さも忘れて、互いのぬくもりにすがった。

「明日香は馬鹿だよ。本当にバカ」

 鼻をすする音が聞こえたが、気づかないふりをした。

「少しの間、こうしててもいい?」

「少し、なんて寂しいこと言わないでよ。ずっとずっとこうしてて」

 抱きしめる腕に力を籠める。

 この愛おしい時間がずっと続けばいいとそう思った。




***




 走る、はしる、ハシル——……




***




 逃げることもできず、抱きしめ合ったあの日から数日後、突然透水が学校を休んだ。クラスメイトにも教員にも連絡を入れないまま、学校にはやってこず、クラスの真ん中に位置する席は空白であった。

 クラスメイトは訝しげにぽっかりと空いた箇所を見つめ、教員は慌てた様子で教室を飛び出した。

 嫌な予感がした。

 近くに座っていたクラスメイトに体調不良を訴えて、スマホを握りしめてから教室を飛び出し、下駄箱で靴を履き替えて学校を出た。

 どこにいるのかわからなかった。

 わからなかったから、思い出の場所をすべて訪れた。

 橋の下、歩道橋の上、帰り道、人通りの少ない道。

 笑いあって並んで歩いた場所。互いの体温を確かめるように抱きしめ合った場所。隠れるようにキスをした場所。

 思い当たる場所全てを走って巡った。

 透水に電話をかけながら、ずっとずっと走った。走り続けた。

 心臓が悲鳴を上げて、足が棒のようになっても、息が乱れて吐きそうになっても、止まることができなかった。

 繋がらないスマホから流れる音が、頭にこびりついてうるさいくらいにわんわんと大きな音になっていく。

 何十回、否、何百回と続いた呼び出し音が切れたのは、佐藤が学校の下駄箱に戻ってきた時だった。

「すみか!」

 息も絶え絶えのまま、名前を呼んだ。

「どこに、いるの!」

『ん~眺めのいいところ』

 そう言われて、はっとして今度は学校の階段を駆け上がった。

 眺めがいい場所と言えば学校の屋上しかなかった。

 学校に来ていないからと学校の外を探していたため気づかなかった。

 階段を駆け上がる。

 何度か躓いて転び、段差に足を強打して痛みにもがいた。それでも階段を上ることはやめなかった。

『ごめんね』

 何を謝っているの。

『女の子と付き合ってること、ばれちゃった』

 その言葉はまるで死刑宣告に聞こえた。

『転校するって、親に言われたの。それで、これからはいいなずけの居るバーで働かされるみたい』

 なんだそれ、なんだそれ!

『あ、明日香が相手ってことは隠し通したから安心して』

 何も安心できなかった。

 どうして、自分のことを大切にしてくれないの。

 どうして私のことを呼んでくれないの。

 呼んでくれればどこへだって飛んでいくのに。

 どこまででも助けに行くのに。

『もうダメ。ダメだったんだよ』

 電話から聞こえた声が震えていた。

 屋上までの道のりが果てしなく遠い。

 永遠につかないのではないかと思ってしまうほど、長い長い距離のように思えた。

『私の人生、もうだめ。明日香といられないなら、いらない』

 はしる、はしる、はしる、

『明日香と二人、許されない恋をして、透明人間になった』

 ねぇ、

『こんなに心臓がバクバク動いて、感情たちがはじけて身体にしみこんでいくのに、いっぱい頑張って生きているのに。許されない。いないモノにされる。私たちはここにいるのに』

 なんで、

『私、明日香と恋人で幸せだったよ』

 どうして、

『私のこと、忘れないでね』

 忘れないよ。忘れないために、ここにいることを証明するためにたくさん動画を撮ったじゃん!

『明日香』

 はしる、はしる、ハシル。

 階段を上がって非常階段に出て、屋上に飛び込むようにして入る。

 どうして、お別れの言葉みたいなことを言うの!

 ねぇ、

「すみ、か!!」

 掠れた声で叫ぶ。

 叫んだ言葉が形になったかどうかわからなかった。

 柵の向こうに、透水が立っている。

 耳にスマホを当てた状態で顔だけ振り返って、佐藤をその瞳に写すなり、穏やかな顔をして笑った。

「明日香」

 電波に乗らない、本物の声が鼓膜を震わせる。

「澄華!」

 崩れそうになる足を叱責して透水の元へと進む。

「明日香、愛してる!」

 目の前にいる透水の口から、スマホの音から、愛の言葉が飛び出す。

 その瞬間、透水が地面を蹴って、

 ——空に溶けた。

 スマホが手から落ちる。

 柵に駆け寄ろうとしたが足がもつれて盛大に転んだ。

 息は整わず、満足に酸素を吸うこともかなわない。

 地面を這って柵までたどり着く。

 誰かの叫び声を聞いた。

 地面を見る勇気はなかった。


 好きで好きで大好きで愛しているあなたは空にとけてきえてしまった。




***




 息を整えることもできず、その場に崩れるように座り込む。

 涙は出なかった。

 立つことも億劫で、服が汚れることもどうでもよかった。

 透水が空を飛んだ日から、秘密の抜け道が封鎖され、屋上へは完全に行けなくなった。もう二度と。佐藤は透水と過ごした場所にはたどり着けなくなってしまったのである。

 学校の敷地内を囲むフェンスを握りしめる。校庭では部活動に励む生徒たちの明るい声が響いていた。

 落としたスマホには前田の名前が表示されていた。

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