エピローグ
失言をした次の日も、その次の日も、佐藤は大学を休んだ。
友人には風邪を引いたと連絡をしたらしいが、前田にはそうは思えなかった。
謝らなくては意気込んでから数日後、大学に来るようになった佐藤は、前田とのやり取りが嘘であったかのように、平生と変わらぬ表情と態度で教室の中で笑っていた。眩しいほどの笑みを浮かべ、頬にえくぼを作って笑っていた。
講義が重なるたびに、佐藤の姿を探した。
笑顔の彼女を見て安堵の息を零してから、教室に足を踏み入れるようになった。愛崎と馬場に背中を押されても佐藤のいるところへはなかなか行けず、謝ることもなにもできないまま一週間が経っていた。
うじうじと悩んでいるところで、しびれを切らしたのは愛崎だった。
「だぁ! 鬱陶しい!」
そう叫ぶなり、赤い髪を掻き上げて、前田の服を掴んでから馬場とともに佐藤の居る席に近づいたのである。
「あ、愛崎!」
「お前に拒否権はない」
講義の声を上げるが一秒もたたずに切り捨てられる。
悩みに悩んで行動に移せなかったのは自分のせいである。愛崎を苛立たせたのも自分のせいであるのがわかるため、口をつぐむことしかできなかった。
「佐藤―」
「ん?」
明るい声が鼓膜を叩く。
前田が舌に向けていた顔を上げて恐る恐る佐藤のことを見るが、佐藤の様子が変わる気配はなかった。
「おはよ」
「うん、おはよ~」
「隣、いいか?」
「いーよー」
佐藤のいらえを聞くなり、乱暴な手つきで愛崎が前田を佐藤の隣の席に座らせる。椅子の座る部分に尻を打ち付けて思わず声を上げた。
「あ、えと、その」
「おはよう」
「おはよう、ございます」
佐藤はそれ以上何も言わなかった。
少しして、講義が始まる鐘が鳴る。学生たちが席に着くが教授がやってくる気配はない。
ジェンダーの講義で教授が遅れてくるのは今日に限った話ではない。教室内では穏やかな空気が流れていた。
今なら、言えるような気がした。
「あ、あの」
「あのさ」
言葉を遮られて息を止める。
「私のこと、もうあきらめて」
口をぐっと結ぶ。
自分勝手な気持ちを押し付けて、トラウマを呼び起こして、佐藤を怒らせた。それについて謝りたいと思った。
でも、
「ごめん、」
「え」
「諦めるのは、できない」
「……」
前田は佐藤が好きだ。
愛した人を一途に思い続けている佐藤が好きなのだ。
その気持ちだけは否定されたくなかった。
無くしたくはなかった。
だって、好きと思う心は本物なのだから。
「俺、透水さんが好きな佐藤が好き」
「は、ぁ……?」
「だから、佐藤さんのことも、佐藤が愛した透水さんのことも知りたい」
「……ヘンな人」
佐藤はそう言って小さく笑った。顔を抑えて、口元を覆っていたが、笑い声が指の間から落ちていっているせいか、声がよく聞こえていた。
***
明かりがついておらず、カーテンはすべて締め切った真っ暗な部屋の中で、佐藤はスマホを片手に握りしめたまま頭まで毛布をかぶっていた。画面の中では愛おしい人物が涙を流し、声を上げて泣いている。吐いてしまうのではないかというほどの激しい嗚咽を零して、わんわんと泣いている
『ねぇ、明日香——……』
茶色の髪の毛を一つに結び、セーラー服を身にまとった少女——透水澄華が、顔を真っ赤にしながら、必死に言葉を紡いでいく。
『好きになってごめん。愛してごめん。あきらめようとしてもダメだった。好きだよ、ずっとずっとずっと。何度言っても足りないくらい、好き。愛してる』
『愛している』と透水は繰り返し言葉にした。何度も、なんども、泣きながら、佐藤への愛を言葉にして吐き出していく。
「ねぇ、澄華」
透水の言葉は形になり、佐藤の元へ届いた。
しかし、佐藤の言葉は音になっても透水の元へは一つも届かない。
画面越しに時間を超えて顔を合わせることしかできなくなった愛おしい人。
「忘れないよ」
永遠に忘れない。
画面の中にいる限り、佐藤は何度でも透水に会える。言葉が届かなくとも、もう二度と同じ時を刻めなくとも。透水の姿が佐藤の中から消えることはない。
「私も、愛してる」
佐藤はそう呟いて、画面に唇を寄せた。
もう二度と隣にいられないあなたを、私は一生忘れない。
ずっとずっと透明人間のまま生きていくのだ。
そう、思っていた。
「澄華」
囁くように彼女の名前を口にする。
「ずっと透明人間だった。私たち、恋人なのに、恋人って言えなかった」
「でもね、」と言葉を置く。
「私のこと好きな人が、澄華が好きな私が好きって言うの。澄華と私のこと、知りたいって言ったの。透明人間だった私たちのこと、知ろうとしてくるの」
「おかしいね」と佐藤は笑った。
目尻からは一粒の涙が流れていった。
