透明レモンソーダ 第一章 第二話

 スライドの文字を読むだけの講義を受けながら、欠伸をかみ殺して手の中でシャーペンを回す。ちらりと横目で佐藤を見ると、彼女は笑み一つ浮かべずに真っすぐスライドを見た後、ルーズリーフに何やらメモをとっていた。選択授業なのに、真面目だなぁ。

 こちらを振り向いてほしいけれど、気づかれたくない。相反する気持ちを抱きながら、前田は細く息を吐いて、スライドを見てからノートをとるフリをして佐藤をこっそり見た。

 佐藤明日香という女性はとても魅力的な人である。そう思っているのは前田だけではないだろう。


***


 初めて前田と佐藤が顔を合わせて言葉を交わしたのは、大学一年生の後期に行われた必修科目のグループワークの時である。だが、それよりも前——入学してから一か月経ったころから、前田は佐藤のことを一方的に知っていた。

 佐藤は入学当初から目立っていた。

 成績優秀者で入学式に登壇しただとか、大きな声で話すために注目をひいてしまっていただとか、男に媚びているだとか、そんな悪い目立ち方ではない。

 佐藤は誰にも平等に優しく接し、他者を陥れることや卑下することはせず、周囲の人を受け入れている。そして飴やグミといったお菓子を自分の周りにいる人々に、嬉しそうに、楽しそうに、まるでそれが己の幸せだとばかりに渡している。だから悪い噂を立てようにも立てられない。まるで太陽のような明るさを保ちながら、人々に囲まれてきらきらと輝いている彼女を悪く言う人間などいないのだ。

 そのうえ、容姿も整っている。しっかりとした二重に、大きく開いた瞳、笑うとえくぼがみえる小さな顔。流行りにのったメイクではなく、少し整えるくらいの薄化粧が、佐藤の可愛さを引き出している。さらに、他の女子大学生のように髪の毛を巻いたり、金髪に染めたりなどはせず、チョコレート色に似た明るい茶色の髪を一つに結んでいるだけ。そして質素だけれど清潔感がある服を着ていて、とても話しかけやすい容貌をしている。前田には佐藤がとても自然な姿をしているように見えた。

 ——美しくて、綺麗で、眩しい。それが佐藤明日香という人間である。

 笑うと可愛らしいと誰かが言った。しかし、前田は初めて佐藤の笑顔を見た時に『可愛い』よりも『美しい』という感想を抱いた。

 美しかったのだ。

 何が美しいと思ったのかなど、前田には言えなかった。言葉にできなかった。ただ、美しいと感じた、それだけであった。

 講義でグループワークを行うと知ったとき、グループのメンバーを見て、唾をごくりと飲み込んだ。ぐっと握りしめた掌の中には汗がにじんでいた。これは、チャンスだ。そう思った。

 平生ならば講義開始間際に教室に足を踏み入れるのだが、その日は講義が始まる十分ほど前に教室に行き、指定されたグループの座席の位置を確認した後、すでに座っている佐藤のところまで大股で進んでさりげなく佐藤の隣の席に腰を下ろした。

「初めまして、だよね?」

 声をかけてきたのは佐藤だった。

「佐藤明日香です。今日はよろしくね」

 鈴を転がしたような可愛らしい声というよりは、風鈴のりんとした音のような透き通った声だった。乾いた口の中を潤すように舌で口内をなぞってから、震える唇を動かす。

「まえだ……前田、当麻です。その、えっと、よ、よろしくお願いします」

「あはは! 同級生だから、ため口でいーよ!」

「わ、わかった。よろしく、佐藤さん」

「佐藤でいーのに」

「それは、なんだか……恐れ多くって……」

「恐れ多いって!」

 「あはは!」と肩を揺らして笑う。嘲りなどではない、本当におかしそうに手で口元を隠して笑っていた。

 こんなに近くに座っているのに、いる場所はとても遠く感じた。佐藤は前田のことなど特にどうとも思っていないのだろう。人によって態度を変えることがない彼女は、おどおどとした様子でしか話せない前田に対して苛立ちを感じる様子も、面倒くさそうにする様子もみせなかった。たったそれだけ、されどそれだけ。その姿勢にまるで神様のような柔らかさと包容力を感じてしまい、前田は身を縮こまらせることしかできなかった。やっぱり、佐藤さんと俺は違うんだ。同じところに立てない。違う場所を生きているみたいだ。

 佐藤は笑った後、息を整えて自分の鞄からコンビニでよく見かける飴の袋を取り出し、袋の口を開いて袋に入った飴が見えるように前田に向かって袋を突き出す。

「じゃあ、お近づきの印に、飴をどーぞ! レモン味以外の好きな味を選んでね」

「レモン味以外?」

 なんで、レモン以外なんだろう。

 袋の中から除く、黄色の袋をじっと見つめていると、袋の向こうにいる佐藤が眉を八の字にして困ったように笑った。

「レモン味は私専用なんだ~。だから、ごめんね? レモン味はあげられないの」

「そ、そっか……俺、レモン味じゃなくて大丈夫だから」

「ありがとう」

 佐藤の顔を直視できず、袋の中をじっと見つめる。飴はあまり食べないこともあって、味の好き嫌いはなかった。なんでもいい、でも、佐藤さんが飴をくれるというのだからもらいたい。

 決まらずにうんうんと悩んでいると、「決まらない?」と佐藤に声を掛けられた。

 ここで決まらないと言ったら優柔不断だと思われるだろうか。変な奴とみられるのだろうか。

「あ、えっと、」

 何と答えたらいいのかわからずに、意味のない言葉ばかりが口からこぼれる。あぁ、どうしよう、どうしよう。焦れば焦るほど、思考が止まる。何も考えられなくなる。息が浅くなっていくのを感じながら、膝の上で指をいじることしかできなかった。

「よし!」

 佐藤は前田に突き出した袋を一度自分の元に戻した。

 あぁ、嫌われたかも。

 初対面で、まともに会話もできない人間がどうして佐藤の隣にいられると思ったのだろうか。前田は鼻の頭がつんと痛んだのを無視して佐藤の動きを眺めることにした。

 空いた袋の口元にお椀のように丸めた己の手を添えて、軽く口元を下にして袋を振る。ガサガサと袋がこすれる音がして、細い手の上に赤い袋に包まれた飴玉がころりと転がった。

「お、イチゴ味!」

 佐藤がなんだか嬉しそうな声を上げ、袋の口を上にしてから鞄の中に戻すとイチゴ味の飴が乗った手を前田に向けた。

「はい、どーぞ!」

 「いきなり好きなのを選んでって言われても困るよねぇ」なんて言いながら、佐藤はにぱっという効果音が付くような明るさではじけるような笑みを浮かべる。笑顔は明るいのに、優しくて、柔らかくて——ひどく、眩しかった。その瞬間、前田の頭からつま先にかけて稲妻が駆け抜けた。

 ——あ、好きだ。

 まるで天啓を受けたかのように、全身に走った衝撃の名前を知る。

 スキ、すき、好き。あぁ! そっか、そうなんだ!! これが、人を好きになるってことなんだ! 誰かを好きになるなんて一生ないと思っていたのに!

「イチゴは苦手だった?」

「へ、ぇ!? いや、ちがうっ、ごめん、好きです!!」

 好きです、佐藤さんが。

「そんなにイチゴが好きなの?」

 肩を揺らして笑う佐藤の手からイチゴの飴玉を受け取って、掌の上で転がす。コンビニで売っている、どこにでもあるイチゴの飴が、とても輝いて見えた。



 グループワークでの出来事をきっかけに、前田は積極的に佐藤に話しかけにいった。アタックらしいアタックはできなかった。告白する度胸も、アプローチをする心の余裕もなかったのだ。前田には話しかけることしかできなかった。

 前田の行動はあからさまだっただろう。いつも共にいる愛崎と馬場には、すぐに佐藤への気持ちを気づかれた。周囲の人もきっと気づいているに違いないが、佐藤への好意をからかってはこなかった。
 佐藤と一緒にいられるだけでいい。付き合うなんて、おこがましい。皆の佐藤だから。

 前田は何度も自分に言い聞かせた。言い聞かせて納得しようとした。けれど、告白されても断ったり、相手がいないとの噂を聞いたり、佐藤に関することを耳にしては胸をなでおろしてしまう。そればかりは止められなかった。

 佐藤は皆に優しい。誰かを特別視しようとしない。そんな彼女に告白したとしても断られるのは自明の理なのである。


***


 こみ上げるあくびを吞み込んで、目頭をもむ。息をひそめて隣を見ると、ルーズリーフにメモをとる佐藤の姿が目に入った。ルーズリーフを見る。そこには見慣れない四つの漢字が並んでいた。

【透水澄華】

 視線を前に戻してスライドを見る。スライドには性的指向についての解説が書かれていた。【透水澄華】の文字はない。

 再度佐藤の手の下にあるルーズリーフを見る。気づかれないように、不自然な態度にならないように細心の注意を払いながら、はらいやとめがしっかりした体の細い字たちを目に焼き付けるようにして見てから、前田はその四文字を己のノートに書き写した。

 大きさも形も不揃いな不格好の文字たちが、真っ白なノートの中に横たわっていた。

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