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[連載⑤]「行かない」を分ければ、やることが見えてくる——ミュージアムマップとみゅ~ぽす

長い回り道をしてしまった。

市議会選挙の「声が届かない」という違和感から始まって、不参加には満足と諦めと無関心の三つの顔があることを考えた。
文化施設では、そこに第四の顔が加わることも見た。来ない。使わない。でも、あってほしい。そういう人たちだ。
そして前回は、来館者数や売上だけで文化施設を測るほど、ミュージアムは自分が誰のために在るのかを見失っていく、と書いた。

最終回は、ではどうするのか、という話をしたい。

出発点は、ずっと同じだ。
施設は、来ない人の顔を見分けてくれない。
来ない人が、満足しているのか。
諦めているのか。
無関心なのか。

それは、入館者数を数えても分からない。
だから「集客」とひとくくりにした瞬間、打つ手はぼやける。三つの顔には、三つの違う手当てがいる。

満足には、何もしない

まず、満足している人。

自分で本を買う。調べ物もネットで足りる。休日の過ごし方にも困っていない。だから図書館やミュージアムに行かない。

この人たちを、無理に呼び込む必要はないと思う。

前回書いた、存在価値を思い出してほしい。
来なくても、その施設が町に在ることに価値を感じている人はいる。

自分は使わない。
でも、子どもが使える場所であってほしい。
地域の記憶を残す場所であってほしい。
誰かにとっての避難場所であってほしい。

そういう支え方がある。
だから施設がすべきことは、すべての人を来館者に変えることではない。

来ない人にまで、無理に「来てください」と迫る必要はない。
来ないまま支えている人を、来館者数に変換しようとしなくていい。

満足している人に対して必要なのは、集客ではなく信頼だ。
あの施設は、ちゃんと在り続けている。
必要な人に開かれている。
地域の記憶を守っている。

そう思えること。
満足には、「きちんと在り続ける」こと。
ここに無理な集客をかけるのは、おそらく効果的ではない。

無関心には、まず見つけてもらう

次に、無関心の人。

そもそも「行く」という選択肢が、頭に浮かんでいない人だ。
ここで足りないのは、勧誘ではない。
出会いだと思う。

世の中には、驚くほどたくさんの小さな博物館がある。

郷土資料館。
企業の記念館や博物館
個人が集めた様々なコレクションの館。
古い道具を守る小さな資料室。

でも、その多くは、すぐ近くに住む人にすら知られていない。

知らないものは、選べない。
見えていない場所には、行きようがない。
無関心は、必ずしも冷たさではなく、まだ出会っていないだけでもある。

だから私は、全国のミュージアムを一枚の地図に描いた。

どこに、どんな館があるのか。
自分の近くに、何が眠っているのか。
旅先で、少し寄れる場所はどこか。
今日、遊びに行ける場所はあるか。

それが目に見えるだけで、これまで存在しないも同然だった施設と、行く選択肢を持たなかった人が、はじめて出会える。

地図は、発見のためのインフラだ。
それは、無関心と施設のあいだに、細い橋をかける。

「行きたいですか」と聞く前に、まず「ここにあります」と見えるようにする。
無関心には、まず見つけてもらうことが必要だ。

諦めには、敷居を遊びに変える

そして、いちばん手強いのが諦めの人だ。

気になってはいる。
でも、あそこは自分の場所ではない気がする。
難しそう。
場違いに見られそう。
作法が分からない。

だから、入口の手前で引き返してしまう。

ここで必要なのは、ただ情報を届けることではない。

場所は知っている。
存在も知っている。
でも、行けない。

そういう人に「来てください」と言っても、あまり届かない。
必要なのは、敷居を下げることと、入口を変えること。

思い出したいのは、政治の回に出てきた、くじ引きの話だ。
手を挙げない人を、くじでテーブルに着かせる。
届けたい声を待つのではなく、声がまだなかった場所に需要を作りにいく。

文化施設にも、同じことができる。
たとえば、博物館を「正しく学ぶ場所」としてではなく、ひとつの旅先として差し出す。

ぬいぐるみを連れて、館から館へめぐる。
訪れた場所を記録する。
スタンプを集める。
展示を見ることを、旅の物語の一部にしてしまう。

そうやって、訪れること自体を遊びにする。すると、入口の意味が変わる。

知らない展示を理解しに行く場所ではなくなる。
自分には難しそうな文化の場ではなくなる。
旅の途中で、ぬいぐるみと一緒に立ち寄る場所になる。

敷居は、正面から低くしようとすると重い。
でも、遊びにしてしまうと、スッとまたげることがある。
これまで入口の前で引き返していた人が、気づけば中に立っている。

これは、くじ引き民主主義の文化版でもある。
手を挙げるのを待つのではない。
行きたいという願望が育つのを待つのでもない。

先に、行く理由を作る。
先に、楽しい入口を作る。
先に、「自分も入っていい」と思える物語を作る。

諦めには、遊びで敷居を低くすることが必要だ。

「行かない」を、ひとくくりにしない

最後に、最初の問いに戻りたい。

動かない人は、満足しているのか。答えは、
「人による。」

当たり前のようでいて、この当たり前を、私たちはずっと取りこぼしてきたのだと思う。

動かない人。
来ない人。
声を上げない人。
それらをひとつの箱にまとめて、「関心が低い」で片づける。

その雑なまとめ方が、満足を誤って動かそうとし、諦めを見捨て、無関心を眠らせたままにしてきた。

満足には、在り続けること。
無関心には、見つけてもらうこと。
諦めには、遊びで敷居を低くすること。
そして、来ないけれど「あってほしい」と思う人には、存在価値や文化権という言葉で、その価値をちゃんと説明すること。

支える理由は、権利と存在価値にある。
耕す方法は、地図と、旅と、遊びにある。

市議会選挙の公報を全部読んだ日に芽生えた小さな違和感は、めぐりめぐって、ここにたどり着いた。
声が届かない。
人が来ない。
関心を持ってもらえない。

その嘆きの裏側には、いつも見分けられていない顔がある。
まず、それを分けて見ること。
すべては、そこから始まる。


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