「ありがとう」は、どこかピリオドに似ている
「ありがとう」という言葉は、どこかピリオドに似ている。
口にした瞬間、目の前で流れていた心地よい時間がカチコチに固まりだし、「思い出」という名のフォルダに格納されてしまう。そんな寂しさをはらんでいる気がして、本当に大切な場面であればあるほど、最後の五文字を口にするのをためらってしまう。
住み慣れた部屋を引き払い、何もかもなくなった、がらんとした空間で鍵を返す時。二度とは戻らない季節の出口に立った時。あるいは、二十年以上に渡り、苦楽をともにした仲間と別れのグラスを合わせる瞬間。
「じゃあ、また」
あとに続くはずの言葉を探すとき、のど元まで出かかっているのは、決して感謝の言葉だけではない。
「実はあの時、すごく救われていたんだ」「明日から会えなくなるのが、心細い」「まだ、この時間を終わらせたくない.…..終わらせたくなかった。でも、自分なりに頑張ってみたけれど、頑張りきれなかった」
そんな、普段はふたをしている身勝手な弱音や、伝えきれなかったエピソードたちが一斉に出口へと駆け出し、殺到し、言葉の渋滞を起こしてしまう。その結果、わたしの口はだらしなく半開きのまま、少しの間、沈黙を生み出すことになる。
はたから見れば、言葉に詰まっているように見えただろう。あるいは、気の利いた言葉を探しているように映っただろうか。
けれど、この不器用な一呼吸は、単なる迷いではない。
目の前の景色を心に焼き付けるための、シャッターを切る時間。
相手の少し困ったような笑顔、周囲を行き交う人の足音、その場を包む空気や匂い。言葉にして終わらせてしまう前に、すべてを体に刻んでおきたいという、わたしなりのささやかな抵抗。
今の世の中、流ちょうに伝えることや、即座に反応することが良しとされることが多いのかもしれない。けれど、言葉にならなかった思いたちは、決して消えてなくなるわけではないと、わたしは思う。
飲み込まれた感情は「ありがとう」という器の縁から静かにあふれ出し、声のわずかな震えだったり、目の潤みとなって相手に伝わる。すべてを整然と語り尽くすことが、必ずしも正解ではないだろうし、沈黙した時間の長さにこそ、共有した時間の密度が詰まっていると信じたい。
だから、わたしは別れ際のあの一呼吸を、もう恐れないことにした。
深く息を吸い込むことで、過去の温かな時間を胸いっぱいに満たす。そして息を吐き出すことで、新しい未来へと踏み出す準備をする。
あの一瞬の「間」は、関係を終わらせる冷たいピリオドではなく、明日へ続いていくための、大切な息継ぎなのだ。
そうしてわたしは、十分にためた一呼吸のあと、万感の思いを込めて「ありがとう」と告げる。飲み込んだ言葉たちの温度を、短い五文字に乗せて。
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