冬の輪郭
日高路の冬は、風景から余分なものを剥ぎ取る。雪は薄い。丘の起伏がそのままに見える。夏なら緑に覆われて見えなかった大地の骨格が、冬になると露わになる。
なだらかに続く丘陵地帯。その曲線は、雪という装飾なしに、ありのままの姿を見せる。遠くまで続く稜線。わずかに残る草の色。乾いた土の質感。すべてが、そのままの形で目に入ってくる。雪国である北海道のなかでは、稀な光景だ。
樹木が少なく、空の広さが際立つ。視界を遮るものがないから、雲の動きも、光の変化も、すべてが目に飛び込んでくる。冬の低い太陽が、丘の陰影を強調する。朝と昼と夕方で、表情が変わる。同じ場所でも、時間が違えば別の場所のように見える。
馬がいる。放牧されている軽種馬たちは、冬の風景に溶け込みながら、同時に唯一の「動」として存在感を放つ。白い息を吐く馬。じっと佇む馬。ゆっくりと歩く馬。その一つひとつの仕草が、止まった風景に時を刻む。
厳しい冷え込みのなかで、馬たちの鼻息が白く立ち上る。生命の息吹だ。マイナス10度を下回る朝、人間なら建物のなかに籠もりたくなる寒さのなかで、馬たちは個性的な防寒着を身にまとい、寒さにただ向き合う。その姿には、野生の名残がある。
春になれば、馬たちの何頭かは競馬場へとおもむき、観客の歓声を浴びるだろう。けれど冬の今、彼らは誰に見られるでもなく、ただこの丘陵地帯で過ごしている。この静かな時間こそが、彼らの本来の姿なのかもしれない。
最果てという言葉を、別の意味で受け取ってみる。世界の果てではなく、本質の果て。削ぎ落とした先にある、核のようなもの。日高路の冬は、そんな場所だと思う。
多くの人が求める最果ては、おそらく違う形をしている。人の営みが途絶えた岬。荒涼とした原野。吹きすさぶ風と、打ち寄せる波。そうした劇的な風景が、旅人を引き付ける。けれど日高路の最果て感は、もっと静かで、もっと内省的だ。
派手な見どころはない。けれど、冬の日高路には、他の場所では味わえない何かがある。それは、風景の本質に触れる感覚。装飾を排した、純粋な形と色と空気。その先に見える、土地の魂のようなもの。
遠出をする前、道路情報を映し出すライブカメラの画像を見るたび、日高路の乾いた路面に安堵する。そして思う。この地にもっと光が当たればいいのに、と。
札幌圏が白い混乱に包まれた日も、日高路は静かに、その姿を保っていた。雪が少ないことは、この地が選んだ冬の形。装飾に頼らず、ありのままで立つ強さの表れ。その強さを、放牧されている馬たちが体現している。
冬が教えてくれる輪郭。それは、風景の輪郭であり、土地の輪郭であり、そして生きることの輪郭でもある。日高路の冬は、そんなことを考えさせてくれる場所だ。
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