第172話 移植外科からの電話 3
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2023年10月(第159話)、全く顔を知らない循環器科医師が来たあの日。
あの日から、1年10ヶ月。
そう、長期透析者にありがちな心臓に慢性的なダメージがあります宣言だ。その体のまま「透析で生きる」を選択し、今回は移植を断った。
心臓が疲れたと言ってるのに、移植して一刻も早く透析生活から離脱してあげなきゃいけなくても、その光と言えるものに私はYESとは言えなかった。
移植後の「ストーマ」や「管」が、頂いた腎臓の機能が無くなるまで一緒にいつづける自信は、、、どこを探しても無かった。
ストーマや管は、着たい服を諦めるということであり、スーパー銭湯で知らないおばちゃん達の談笑を見て癒される時間を奪われ、そして何時もつきまとう臭いの悩みと人目、、、。
尿が体内の膀胱に貯まるという自然なことが、いかに幸せなことか。

一日半かけて食べきれた。睡眠不足MAXで食欲は無くなり、免疫力も壊れだし皮膚科。
寝れるって、凄く大事ね~。初体験でした。
現代において膀胱移植は無いのだ。
腸を切り取り、袋を作って膀胱に見立てることはあるが、私は既に腸が標準の半分以下。
これ以上切り取ると、栄養不良でどんな感染症に移植後になるか怖すぎる。免疫抑制剤で頂いた腎臓をなるべく異物として拒否反応しないように、自分に擦り合わせるのが難しくなる。
「大切に生きる」とはいったい?!
論点がズレた。
膀胱移植は無い。脳に「おしっこしたい!」と感じる神経を繋ぐのは難しいのだろう。
神経系や免疫系の難病は、かなり多い。
患者が亡くなってから解剖しても分からないからだ。
今の私にとって移植は命をつなぐことだが、心は常に空元気のままで生きる屍だ。
「ストーマや管がある体になってでも、行きたい所とか無いの?楽しいことは?」
と友人に聞かれたが、着替える度に自分の体を直視し、お風呂も。
大好きなスーパー銭湯も行けれない。
だったら心臓は、、、もう仕方ない。
これで急に心臓がストライキしても私に文句はない。ギリギリで守れる自分を選択しないと私は、、、今の私には生きている意味が無くなってしまう。
これが「生き方」であり、ただ「生きる」ために自分の体を意志のない人形扱いは出来なかった。
医療において大事な問題だ。
「人間は耐えるだけの人形ではない」のだから。
この事実にたくさん泣いて、苦しくて辛くても、心臓がこの先どれだけ持つのか分からないけど、どうしようも無い選択でも、あの言葉、、
「自分の人生に責任を持つ」
とは、こんな利き手がちぎれるような心の痛みを伴っても選択する事になる。
もちろん体のタイムリミットは近づく。
でも心まで一気にリミットへ持っていくことはしちゃいけない。他の誰かが何を言おうと。
今の透析しててストーマも管も無い体でいられることが「尊厳」というやつか。
人間の尊厳・・・個人が生きている存在として生命・生活が尊重される価値のあるもの
移植という光を、手を震わせ、絞り出すようにNOと断って、真夜中まで大泣きして泣き疲れて寝る。
もしもYESと言ってたら、移植した心を凍りつかせ、服を着替える度に自分の体のストーマだったり管を引きちぎりたくなる。。ずっとそれに耐え続ける、、
心を暗闇に閉じ込め、凍りつかせるより、今の私にはNOがずっといい。
これが「矜持」というやつか。
矜持・・・自分自身の能力や品格に対する内面的な誇りや信念
命を粗末にしないで、鏡にうつる自分に本当の笑顔でいさせてあげる。
泣き疲れて寝るけど、それが今の私の最善策。
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