曼殊沙華の約束
日本には、古くから「生まれ変わりの記憶」を持って生まれる子どもの言い伝えがある。江戸時代後期、武蔵国の少年・勝五郎が「自分には前世があり、近くの村の子どもだった」と語り、それを国学者・平田篤胤が聞き取って記録に残したという話は、今も民俗学の資料として語り継がれている。前世の記憶は、多くの場合、幼いうちにふとした拍子に蘇り、やがて霧のように消えていくのだという。
これは、そんな記憶をめぐる、ある少女の物語である。
一
埼玉県日高市、高麗川のほとりに広がる巾着田のほど近くで、一之瀬陽菜は生まれ育った。九歳になった今も、母はときどき不思議そうな顔でこう言う。
「陽菜って、赤ちゃんの頃から変な子だったのよ。誰も教えてないのに、知らない歌を鼻歌で歌ってたり」
陽菜自身、うっすらと覚えている。まだ言葉もおぼつかない頃、頭の中に「知らない誰かの記憶」のようなものが、映画の断片のように浮かんでは消えていったことを。白い天井、点滴のスタンド、窓の外の見慣れない街並み。そして――誰かが泣きながら握ってくれていた、大きな手のぬくもり。
それが何なのか、陽菜は誰にも説明できなかった。説明する言葉を、まだ持っていなかったから。
二
九月の終わり、一之瀬家は毎年恒例の「巾着田彼岸花まつり」に出かけた。高麗川の蛇行がつくる巾着の形をした平地に、五百万本ともいわれる曼殊沙華が一斉に咲き誇る、この時期だけの景色を見るために。
「陽菜、見て。真っ赤な絨毯みたいでしょう」
母に手を引かれて土手を下りたとき、陽菜は足を止めた。
見渡す限り、燃えるような赤。細い花弁が反り返り、線香花火のように広がる曼殊沙華の群生――その光景を目にした瞬間、陽菜の中で何かが弾けた。
頭の奥で、映像が一気に流れ込んでくる。
薄暗い部屋。ベッドに横たわる、痩せた自分自身の手。握りしめたタブレット端末の画面には、アニメのオープニング映像が流れている。画面いっぱいに広がる、赤い彼岸花の野。刀を持つ少年と、竹を咥えた少女。何度も何度も繰り返し見た『鬼滅の刃』だ。
「これ、日本の花だよね……」
か細い声で、誰かに――母親らしき人に――そう尋ねている自分がいた。長い入院生活の中で、日本のアニメと文化にのめり込み、いつしか「生まれ変われるなら、絶対に日本に生まれたい」と繰り返し願うようになった、ひとりの少女の記憶。
名前は、たしか――エミリー。
エミリーは、この曼殊沙華の野が大好きだった。オープニング映像の中で揺れる赤い花を見るたび、「死」と「再生」の境目にあるというこの花の意味を、たどたどしい日本語で調べては、日記に書き記していた。彼岸――こちらの岸とあちらの岸をつなぐ花。
そして、ある秋の夜、エミリーは静かに息を引き取った。日記の最後のページには、震える字でこう記されていた。「もし生まれ変われるなら、あの赤い花畑に囲まれた国で生まれたい」
三
「陽菜? どうしたの、顔が真っ青よ」
母の声で我に返る。頬に涙が伝っていることに、陽菜自身も驚いた。
「……ちょっと、目眩がしただけ」
そう誤魔化しながらも、陽菜の胸には、説明のつかない確信が広がっていた。自分は今、あの願いが叶った場所に立っている。
ふらふらと群生の奥へ足を進めると、花の手入れをしている年配の女性と目が合った。腰の曲がった、優しい目をした人だった。胸元の名札には「巾着田花守りボランティア 田村」とある。
「お嬢ちゃん、気に入った? この花」
陽菜は、なぜか吸い寄せられるように、口を開いていた。自分でも意味のわからない、覚えたての片言のような英語の響きが、勝手に喉から零れ出る。
「フー・アー・ユー・トゥデイ、トクコ……?」
言った瞬間、田村と名乗った女性の顔から、さっと血の気が引いた。
「……それを、どうして」
震える声だった。
「二十年前、文通していたアメリカの女の子がいたのよ。エミリーっていう子。長い間、入院していて……。あの子だけが、私を『トクコ』ってあだ名で呼んでいた。他の誰も知らないはずなのに」
田村の目に、みるみる涙が溜まっていく。
「エミリーはね、いつも手紙にこう書いていたの。『いつか本当に巾着田の彼岸花を見てみたい』って。だから私、あの子が来られなかった分、毎年ここの花を守っているの。もう二十年も」
陽菜は何も答えられなかった。ただ、胸の奥で、長い間閉じ込められていた何かが、ようやく解け出していくのを感じていた。
四
その日を境に、陽菜の中の「知らない記憶」は、少しずつ輪郭を失っていった。かつて勝五郎という少年がそうだったように、前世の記憶は、成長とともに霧散していくものなのだろう。
けれど陽菜は、田村徳子と――ちょうど祖母と孫のように――今も年に一度、彼岸花の季節に会いに行く。その理由を、誰かに理路整然と説明することはできない。
ただひとつだけ確かなことがある。赤い曼殊沙華が一面に咲くこの場所に立つと、陽菜はいつも、行ったこともないはずの遠い病室の匂いと、誰かの心からの願いが、確かに叶ったのだという、静かな安堵を覚えるのだ。
彼岸と此岸をつなぐ花は、今年もまた、変わらず美しく咲いている。
― 了 ―
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