画家の心 美の追求 第79回「ヨハネス・フェルメール 真珠の耳飾りの少女1665年頃」
フェルメールの絵で最も有名で、皆が大好きな絵と言えば、この「真珠の耳飾りの少女」だろう。
ところでフェルメールには多くの謎がある。
例えばこの絵のモデルは誰だろうか。

フェルメールの娘マーリアだというと説があったようだが、今ではそうではなくて、よくわからないそうだ。
もう一つの大きな疑問は、フェルメールは死後しばらくすると名も絵も存在することすら忘れ去られた。そして、フェルメールの再発見は1866年、フランス人研究家のトレ・ビュルガーによりなされた。
ところでフェルメールは、カラバッジョやルーベンスそしてベラスケスと同時代にいたバロック絵画の巨匠ではなかったのか。そんな偉大な画家がどうして絵画の世界から完全に消し去られたのだろうか。
この2点について大胆に予測推理してみよう。決まった定説がないようなので読者の皆さんと一緒に推理してみるのも一興ではないだろうか。
まず初めにこの絵のモデルはいったい誰なのだ。
絵を見て最初に飛び込んでくるのは鮮やかな青い色のターバンだが、この当時ターバンを巻くのはトルコなど異国のファッションを好む若者か、もしくはイスラム文化圏で育った人たちだ。
青いターバン以上に目を引くのは魅惑的な瞳とこちらを振り向いた彼女のポーズだ。声をかけられ振り返ったこのポーズは浮世絵にもある「見返り美人」の姿だ。女性の色っぽさをもっともよく表した姿形と言われている。絵の女性は男を惑わす蠱惑的(こわくてき)な存在なのだ。
さらによく見るとこの女性は口を半開きにし、唇が唾でぬれ光っている。
この当時、高貴な女性は人前で口を開いて歯を見せることはない。唇を開けた女はふしだらで下品な女とみられていた。
フェルメールはバロック時代の風俗画家である。特にオランダでは風俗画は道徳や女性が守るべき道理を諭す教育的な面もあったという。
では「青いターバンの少女」は、上の事実からすると、淑女でなく男に媚(こ)びを売る女で、かつイスラム文化で育った美少女だ。今のヨーロッパでも町まちをジプシーと呼ばれる旅芸人の集団がいる。
たまたまデルフトの町に流れやって来たジプシーの中に可愛い娘がいた。この娘を見たフェルメールの心が大きく動いた。そして彼女の魅力をバロック様式の肖像画とした。
それは素晴らしい出来で、フェルメール自身、最高のできだと確信していた。
ところでフェルメールの本職は父親から継いだ宿屋の主人で、一階が飲み屋で若手画家が屯(たむろ)する酒場でもあり、父親は画商も兼ねていた。
そんなフェルメールが子供のころより絵を描くのが得意で、カメラ・オブスクラ(凸レンズを付けた針穴写真機のようもの)を用い被写体を写し取り、それに美しく彩色する絵が仲間内では話題になっていた。しかしフェルメールは画塾や特定の先生に絵を習ったことはなかった。
だからだろうか、おかしな機械を使い風俗画を描いている間は、絵も描ける宿屋の主(あるじ)で済んでいた。ところが、画家として自立しようとすると話しは変わってくる。
特定の後ろ盾がないフェルメールはこの絵からわずか7年後、宿屋の商売もうまくいかなくなり破産した。画家たちからも見放され、やがて世間からつまはじきにされたのではないだろうか。
生活は困窮を極め、フェルメールは1672年43歳で亡くなる。精神を病んでいたという説もある。
ここで大きな疑問が湧いてくる。偉大なバロック画家であるフェルメールが彼の死後と共に名前だけでなく絵のありかもわからなくなる。
何故そんなことになったのか。その謎を解くたった一つの解は、フェルメールは偉大なバロック画家ではなく、ただ単なる絵も描ける宿屋のおやじだったからだ。
だからそんな彼が死ぬと彼の名前も絵も消えてなくなることに何の不思議もない。
ではだれがフェルメールを、偉大なバロック画家に祭り上げたのだろうか。
それこそが最大の謎かもしれない。
フェルメールの絵の価値を付けたのは批評家と画商たちで、場合によっては、この両者は結託していたかもしれない。そして、オークションにかかるや数万円から億になり、今や数百億円とうわさされている。
美術館からすればフェルメールの絵1枚あれば世界中から観光客が訪れインバウンドは計り知れない。
だからフェルメールの贋作(がんさく)の多さは異常ともいえる。
こういう人たちから見ればフェルメールは謎のままでいることが必要なのだ。謎が謎を呼び、この謎とともに人を魅了し続け、フェルメールの絵は天井知らずになるのだ。
