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画家の心 美の追求 第92回「サンドロ・ボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』1483年頃」

 ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』は世界で2番目に有名な絵だそうです。

模写「ヴィーナス誕生」

 因みに1位はレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』で、1位、2位が共にルネサンス期の絵というのはどういうことなのだろうか。
 それも世界中の人びとに、何故そんなに好まれるのだろうか。近いうちにわたしなりに読み解いてみたいと思う。

 さてこの絵は『誕生』とは言うものの、美しく成長した女性が真ん中に、それも裸体で描かれている。左に大きな翼を有する天使に抱かれた西風の神ホビュロスが口いっぱいに春風を吹かせ、貝に乗ったビーナスはこの風に乗って岸に吹き寄せられる。それを待っていたかのように花の神ホーラーが外套を掛けようと急ぎ寄ってきた。そういうシーンだ。
 そして吹き寄せらた岸は、海辺の町ポルトヴェーネレ、ビーナス誕生の地との説がある。

 『ビーナスの誕生』は、1483年頃ボッティチェッリ48歳の作で、大きさは縦1.7メートル、横2.8メートルもある超大作である。
 この当時のボッティチェッリの絵はローマ・カトリック教会から異端的であると指摘され、多くの絵が焚書(ふんしょ)、焼却されている。
 異端者と見なされたボッティチェッリのこの絵が災禍から免れ得たのはなぜだろうか。

 先ずこの絵の依頼者を探ってみよう。
 この絵はフィレンツェにあるが、フィレンツェと言えば豪商メディチ家が政治を支配し、ローマ教会とは敵対関係にあった。そんな中でジュリア―ノ・デ・メディチはギリシャ・ローマ時代の文芸を保護したことで有名で、ご存じのとおりその運動がルネサンスへと発展していく。
 新しい絵画を求めていたボッティチェッリはそんなジュリアーノと意気投合する。

 1475年ある日のこと、22歳になったジュリアーノはシモネッタ・ヴェスプッチと邂逅(かいこう)する。シモネッタはこのとき21歳。彼女の美しさは、イタリア中から絵描きが集まり、彼女の絵を描こうとしたほどだ。
 一方のジュリアーノは、こちらも美男子で名を馳せていた。こんなふたりが偶然にしろ逢ったのだ。当然のごとく恋に落ちた。
 ところがそれからわずか1年後、幸せだったはずのシモネッタは肺結核を患い、あっけなくこの世を去る。ジュリアーノの悲しみはどれほどのものであったのか、想像することすらかなわない。
 涙が枯れるまで泣きとおしたジュリアーノは、悲しみを紛らわすためか、ボッティチェッリに「私だけのシモネッタを描いてほしい」と依頼する。
 ボッティチェッリは黙ってうなづいた。しかし、シモネッタの美しさをどのように表現すればいいのか、すぐには思い浮かばなかった。
 シモネッタは海辺の町ポルトヴェーネレ(世界遺産登録地)に住んでいた…。そこはヴィーナス誕生の地とされる地…。
 そうだ! シモネッタをビーナスに見立てよう、それを壁一面の絵にする。

 ジュリアーノ・デ・メディチはシモネッタが亡くなりわずか2年後の1478年、パッツィ家の陰謀により25歳という若さで暗殺される。裏にはローマ教皇のシクストゥス4世が糸を引いていた。
 このとき、ジュリアーノと親しかったボッティチェッリも異教徒として厳しい審問を受け、このとき多くの絵画が焚書される。
 ジュリアーノが死んで5年が過ぎた。ロレンツォ・デ・メディチの支援もあり、『ビーナスの誕生』が完成する。
 この絵は、ローマ教会からは異端的と判断されていたが、焚書という災禍を免れる。その理由は、5年という時間の経過とロレンツォの援助、ビーナスの美しさ、いやシモネッタの美しさが教皇たちの心を捉え、燃やすことが躊躇(ためら)われたのかもしれない。
 いや、きっとそれに違いない。
 ジュリアーノの魂はこの絵の無事を見届けるとやっと安心したのか、シモネッタの待つ天に向かって静かに旅立って行った。


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