「一泊二日」 最終話
◇
目が覚めて窓を見ると、青白い空に有明の月がうっすら浮かんでいた。
明け方の、冷たい空気が気持ちいい。
透けるような月に浮かぶ、ウサギの模様を眺めながら、あの裏側は一体どうなっているのだろう、などと思う。
地球から、月の裏側を見ることができないのは、月が自転と同時に、公転しているからである。
学校で習ったそんなことを、つい思い返してしまうのは、昨日がまるで、月の裏側を見てきたような、劇的な一日だったからだろう。
ひんやりとした白い月を見つめながら、私は、早朝の新鮮な空気が残るうちに、ホテルを出ようと心に決めた。
すぐさま洗面所にいって歯を磨き、顔を洗った。持参したアメニティをキャリーバッグに詰め込むと、旅行のために買った二着目のワンピースに袖を通し、サッと簡単に化粧をする。
テーブルに視線を移すと、昨日奥さんが忘れていった、口臭予防のタブレット二つと、二日酔い防止の小瓶がコンビニの袋に入れたままになっていた。
確か、昨夜コンビニで買い物をしたとき、奥さんが「まなみさんと私の分ね」と言って、このタブレットをレジかごに入れていたような気がする。昨日食べたハートチップルが、臭ってもいけない。私はタブレットを一つ頂戴し、化粧ポーチと一緒に、自分のバッグにしまった。
ホテルの備品のメモ用紙とペンを手に取ると、
早い新幹線で東京に帰ることにしました。
昨日、部屋にお忘れになったものを置いておきます。
昨夜撮った写真、渡せなくてすみません。
御一緒できて楽しかったです。ありがとうございました。
ひと息で書いて、メモ用紙をピリッと剥がした。それを二つに折り、コンビニの袋に入れると、忘れ物がないか、部屋を見回してから、重たいドアを開けた。
早い時間のせいか、廊下は物音ひとつしない。
私はエレベーターに乗り、洋平夫婦の部屋へと向かう。廊下を出て、キャリーバッグを静かに引きながら、音を立てないように、部屋の前に立った。
ドアノブに、持っていたコンビニ袋をそっと引っ掛ける。
ドキドキしながら、足早にエレベーターに戻り、《閉》ボタンを押すと、私の動悸を抑えるかのように、エレベーターが降下していった。
◇
フロントでチェックアウトを済ませ、外に出ると、ひんやりとした空気が身体を包み込んだ。喉を通る空気が清々しい。
息を深く吐き、キャリーバッグを引いて、私は駅へと歩き出した。
旅行のために買った二着目のワンピースは、初めて袖を通したとは思えないほど、体に馴染んでいる。やわらかな裾が、私の両脚をさらりと撫でた。
エスカレーターに乗って、高架型の歩道に出ると、空の高さが目に映る。やっぱり、仙台の空は高い。広々した青空の中を進んでいると、どこまでも遠くまで歩いていけそうな気がしてくる。そんな仙台の空を、目に焼き付けておこうと、私は自分がカメラになったつもりで、じっと広い空を見つめた。
「よし」
私は脇目も振らず、仙台駅と書かれた建物を目指して歩を進めた。
二十分後に出発する新幹線のチケットを買い、ホームに向かう。空いているベンチに座り、ぼんやり新幹線の到着を待っていると、
「まーちゃん!」
小さな女の子の声が聞こえてきた。
私は思わず立ち上がり、辺りを見回す。ホームの向こうから、小さな女の子と、おばあちゃんらしき女性が、手を繋ぎながら歩いてくるのが見えた。どうやら「まーちゃん」ではなく、「ばーちゃん」と呼んでいたらしい。早い時間でも、子供は元気だ。
私のことを「まーちゃん」と呼んでいたのは、姪のまなみだけだ。こんなところにいるはずもないのに、つい、立ち上がってしまった自分にハッとする。
もしかしたら私は、あの子のことが好きだったんじゃないか。
私の両脚に抱きついてきた、無邪気な手の感触を思い出しながら、今になって、そんなことを考え始める。
線路の先から、新幹線がやってくるのが見えた。
車両がホームに滑り込むと、その風圧でワンピースの裾が、まなみに抱きつかれたときのように、ふわりと脚にまとわりついた。
停車すると、待ち構えていたかのように、一斉に新幹線のドアが開く。
キャリーバッグを引きながら、私は生暖かい車内のデッキへと足を踏み入れた。新しい場所に向かうつもりで、車両の自動ドアを通り抜ける。指定した窓側の席に座り、背もたれに寄りかかると、肩の力が抜けたみたいにホッとした。バッグから、奥さんにもらった口臭予防のタブレットを取り出し、一粒かじる。爽やかなミントの香りが、スーッと鼻を抜け、胸の中を通り抜けていった。
私は思い出したようにスマホを手に取り、昨日からほったらかしていた通知を見る。並んでいるのは、洋平からのものばかりだ。行きの新幹線で、私を見て青ざめていた彼の顔が目に浮かぶ。昨日のことなのに、不思議なくらい、遠い昔の出来事のような気がしてくる。
「えいやっ」
周囲に聞こえないくらいの小さな声を上げ、私は洋平の連絡先を消した。勢いづいたように、私の指は止まることなく、どんどん、洋平にまつわる記録を消していく。感傷が入り込む隙を与えずに、ただひたすら《削除》を選んで実行する。メッセージも写真も消えて、スマホの容量が増えていくさまは、風通しがよくなった部屋を見るようで爽快だった。
古いものから消していって、とうとう昨日のデータにいきついたとき、私の手がピタリと止まった。
スマホの画面には昨日撮った、私と奥さんのツーショットが写っている。
ほろ酔い加減で頬を赤らめ、目を潤ませる私と奥さんは、まるで仲の良い姉妹のように、顔を寄せ合っている。
私は《削除》を選べなかった。
昨夜言えなかった言葉を、胸の内でつぶやく。
ごめんなさい。三年も、本当にごめんなさい。もう二度と、洋平には会いません。
誓いをたてるように、厳かにケースを閉じ、私はスマホをバッグにしまった。
ホームから、新幹線の発車メロディーが聞こえてくる。
旅のエンディングにふさわしい、情緒ある美しいメロディーを耳にしながら、三年付き合って、私が最後に見た洋平は、ぐでぐでに酔っぱらった、みっともない姿だったことに気づく。あれが最後だと思うと、情けなくて、おかしくて、何だか泣きたくなった。
発車のブザーが鳴る。
呼びかけるような音を合図に、一斉にドアが閉まると、私の背中を押すように、新幹線がゆっくり、前へ前へと動き出した。
〈了〉
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