夢と鰻とオムライス 第9話
◇
「おーい」
誰かに呼ばれた気がして振り返ると、視線の先には古い木造の家屋があった。青い空の下、その建物だけがぼんやり佇んでいる。古民家、とでもいうのだろうか。瓦屋根が横に広がり、白い壁と一面に広がる窓ガラスの奥には、きれいに貼られた障子が見える。
近づいてみると、縁側に一人のじいさんが座っていて、こっちに向かって手招きをしている。俺を呼んだのは、この人らしい。
縁側には一升瓶と湯呑が置いてあった。
重そうに瓶を持ち上げ、湯呑に酒を注ぐと、じいさんはそれをぐびりと飲んだ。
俺の目を見て、自分の左隣を手でとんとん叩く。
ここに座れ、ということらしい。
とりあえず言われたとおりに縁側に腰をかけると、どこから持ってきたのか、今度はこれでも食べなさいとでも言うように、大粒のぶどうをひと房、手渡してきた。
「この前は驚かせて悪かったねぇ。考えてみれば、あれじゃあ、ただの侵入者だよなぁ」
侵入とは穏やかではない。
しかも、じいさんの言う《この前》に、全く心当たりがなかった。
「だから、今日は俺の家に来てもらおうと思って、待ってたんだ。そのほうが、ぶどうもご馳走できるしさ……」
随分と気さくに話しかけてくるが、どこのじいさんだろう。会ったことがある気もする。でも、それがどこだか思い出せない。
「遠慮せずに、食べてくれ」
とにかく、目の前にあるぶどうは瑞々しくて旨そうだ。遠慮なくいただくことにした。
「いただきます」
皮をむいて実を一粒口に含んで、思わず目を剥く。
驚くほど甘く、鼻に抜ける香りが堪らない。果汁がたっぷりで、味も濃厚だ。程よい硬さの果肉を噛む。すると、固いものがガリッと歯に当たった。
「うわっ!」
突然の歯ごたえに驚く俺を見て、じいさんは笑う。
「ぶどうは種があるほうが味が濃厚で甘いんだよ」
俺が噛んだのは種だったらしい。
確かに、このぶどうに比べると、種なしぶどうは味が薄いように思える。じいさんは俺のほうに手を伸ばすと、ぶどうを一粒むしって口に入れた。
皮を器用に口から出し、実をそのまま飲み込む。
「え? 種は?」
「そんなの、いちいち出さないよ。種ごと丸吞みするんだ」
おなかの中で芽が出ないかと心配していると、
「あれから何度か夢に入り込もうと思ったんだが、君は若いせいか、本当に眠りが深いんだなぁ。あれじゃあ、入る隙が無いよ。君は普段、あまり夢を見ないほうだろう?」
さっきから、夢がどうとか言っているが、なんのことだろうか。確かに、俺は夢をはっきり憶えていることはあまりないが、それが一体どうしたというのか。
首をかしげていると、じいさんが怪訝そうに俺の顔を覗き込んだ。
「ん? なんか、浮かない顔をしてるな。……あっ! ひょっとして、俺のこと憶えてないのか?」
やっぱり会ったことがあるらしい。
こくんと頷くと、じいさんは口を尖らす。
「この前、忘れないで、って言ったじゃないか。君は賢いくせに、随分と忘れん坊なんだなぁ」
「へ? 賢い?」
前に会ったときに、この人の前で難しい数式でも解いて見せたのだろうか。普段、賢い、なんて言われることのない俺にとって、それは驚くべき一言だった。
滅多に言われない褒め言葉に、口許が緩んだそのとき、不意によぎった既視感が、濃い霧を一気に取り払った。
「あっ!」
頭の中が澄み渡る。
「正しく治めると書いて、正治!」
「正解!」
なんだかクイズみたいだ。
「あー、やっと思い出してくれたかー」
「その日のうちに夢に出てきてくれれば、すぐに思い出せたかもしれないのに……」
俺が言うと、
「あんなにぐうぐう寝られたら、入れるもんも入れないよ。今だって、君がうたた寝してる程度だから、どうにか入り込めたんだ。お盆もとっくに過ぎてるだろう? 少し無理してこっちに残ってるせいで、俺もうまく動けないんだよ」
お盆?
「え? お盆って……まさか……」
「ん?」
「正治さん、ゆっ、幽霊なの?」
さっきまで普通に話してたくせに、急に腰が引ける。
「おいおい、そう怖がるなよ。それとも、目が覚めてるときに出てきたほうがよかったかい?」
俺はぶんぶん首を振る。さすがにそれは怖い。
「それに、普段は俺、方言丸出しだからな。夢じゃなきゃ、こんなにすんなり話しできなかったと思うよ」
俺の耳には正治さんの言葉が標準語に聞こえる。夢の中には翻訳機でも備え付けてあるのだろうか。
「あ、それと、その《正治さん》っていうのはやめてくれ」
「なんで?」
「そうやって呼ばれると、昔の女を思い出すんだ。今は田舎の死んじまったじいさんだけど、これでも生きてるときはモテたんだぞ」
急にモテ自慢が始まった。
「じゃあ、なんて呼べばいいの?」
「年食ってからは皆から『正じい』って呼ばれてたから、それでいいよ」
正じい。
名前の《正治》に《い》がついただけじゃないか、と思ったが、それは言わないでおいた。
「光一君と一緒に勝沼に来てくれて、本当によかった。ひとまずほっとしたよ。君がいたほうが、俺の気持ちが彼に伝わりやすいみたいなんだ」
「そうなの?」
そういえば、正じいは、こうちゃんに何か伝えたいことがあって、わざわざ俺の夢に出てきていることを思い出した。
「この夏のうちに、光一君にどうしても勝沼に来てもらいたくてな。お盆のときも、来てくれ来てくれって頼んでるのに、ちっとも伝わらなかった。でも君を通して訴えると、なぜか、話がうまいほうに動いていくんだ。面白いなぁ」
そんなことを言われると、なんだか自分が通信機にでもなったような気分になる。
「あのさ、正じいとこうちゃんはどういう関係なの?」
俺が訊くと、正じいは目を見開いた。
「あれ? まだ話してなかったか」
「うん」
モテ自慢はされたものの、肝心な話はまだである。
「俺の孫娘が光一君と夫婦だったんだよ」
と、いうことは……
「えっ? 正じいって恵梨子さんのおじいちゃんだったの?」
「そうだよ、似てるだろう?」
「あ、いや、わかんない。俺、恵梨子さんに会ったことないもん」
「え?」
正じいの動きが止まった。そして、眉毛がこれでもかと八の字に下がった。
「ええー」
正じいが若者だったら、《マジかよー》とでも言いたそうな顔をしている。
「なんで、会ったことないんだよ。身内だろうよ」
なんでだっけ?
「確か、こうちゃんたちは結婚披露宴をやらなかったんだよ。ウェディングフォトとかは撮ったらしいけど、俺、見せてもらったことないや」
結婚披露宴をやるかどうかで、こうちゃんが祖父と揉めている、ということは聞いたことがあった。でも、俺も当時七歳かそこらだったので、詳しいことはわからない。
それに引き換え、俺の両親の結婚披露宴は、なかなか盛大だったらしい。母がぽろっと、
「知らないお偉いさんばっかり来てて、隙あらば名刺交換してたわね」
寂しそうに言っていたのを憶えている。
祖父は交友関係が広く、政治家なんかとも付き合いがあったらしい。
きっとこうちゃんは、幼なじみでもある母のそんな姿を見て、恵梨子さんに同じ思いはさせたくないと思ったのかもしれない。
「あ、ちょっと待っててくれ。恵梨子の写真持ってくる」
正じいが障子を開けて部屋の中へ入っていくと、すぐに額を手に戻ってきた。
「これが、恵梨子だ」
白い額に入れられた写真を指差す。
「え?」
てっきりウェディングフォトが出てくると思っていたが、指差した先に写っているのは、愛らしいショートヘアの女の子だった。
白いシャツに、ベージュのキュロット。
一見、男の子に見えるような恰好だが、飾り気のなさが、かえってこの子の可愛らしさを引き出しているように見えた。確かに、どことなく正じいに似ているかもしれない。
「似てるね」
「だろ?」
正じいは、とびっきりの笑顔を見せた。
写真で見た顔なんて、起きたら忘れそうだ。しかも、こんなに小さい頃の写真では、今の顔はわからない。
「ねぇ、大人になってからの写真は無いの?」
「いやぁ、子供の頃のばっかりだなぁ」
寂しそうにつぶやく。
正じいは、恵梨子さんが成人した姿を見ることなく、亡くなったのかもしれない。
「恵梨子には幸せになってほしい。二人は別れてしまったけど、まだ互いを想い合ってるんだ」
「どうしてわかるの?」
「そりゃあ、俺は昔モテたからな」
それが根拠になることがおかしかったが、正じいは真剣だった。
正じいの皺の寄った乾いた指先が、子供時代の恵梨子さんの写真に触れる。愛おしそうに頬を撫で、うんうん、と頷いている。その様子を眺めながら、つい、こんなことを訊いてしまった。
「ねぇ、正じいは、どんな恵梨子さんでも可愛い?」
「ん?」
「成績が悪くて運動ができなくて、欠点だらけだったとしても、恵梨子さんのこと可愛いと思う?」
正じいは宙を見た。
「そんなこと、考えたこともないなぁ」
「え?」
「一緒にいられるだけで幸せだったから、それ以外のことは、考えたこともない」
「そっか……」
思わず、いいなぁ、と声が漏れそうになる。
正じいは恵梨子さんのことを丸ごと大事に思っている。そうじゃなきゃ、わざわざ人の夢に入り込んでまで、孫の幸せのために尽くすことなんてできない。
そんな思いに耽っていると、
「……おーい」
聞き覚えのある声が、遠くのほうから聞こえてきた。
その声に正じいの体が跳ね上がる。
「あっ! もう時間か!」
正じいは選挙中の政治家みたいな調子で俺の手を握ると、早口で捲し立てた。
「とにかく、今は君が頼りだ。光一君と恵梨子のことを、しっかり取り持ってやってくれ」
「え? 取り持つ? 取り持つって言ったって、俺、恵梨子さんと会ったこともないのに、どうすればいいの? しかも、起きたら俺、この夢こと忘れてるかもしれないよ。それに……」
困惑していると、正じいは痺れそうなほど手を強く握って、ぶんぶん上下に振った。
「大丈夫だっ! 君ならできる! 俺は信じてる! とにかくよろしく頼むよ! 俺もできるだけのことはやって……」
聞こえていた言葉が徐々に遠のく。正じいは必死に何か言っているが、その声は水で薄めたみたいにぼんやり消えていく。目の前の光景が、白飛びしたように明るくなり、だんだんと視界から消えていった。
瞼に日差しを感じて目を開ける。
◇
「あぁ、起きたか」
目の前におじさんの顔があったのでびっくりする。
「なんか、眉間に皺寄せて困った顔してたぞ。夢でも見てたのか?」
「いや? 見てないよ」
たぶん、暑さのせいだろう。首元が少し汗ばんでいて気持ちが悪い。それと、おかしな体勢で寝ていたからか、手が少し痺れていた。
第10話につづく
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