アピールおじさん
もう20年以上前の話なのだが、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった、讃岐うどんのチェーン店にお昼を食べに行った。
讃岐うどんがブームになっていたこともあり、昼時を避けたのにもかかわらず列ができていた。皆、トレイを手に列に並び、天ぷらを選んだり、かけにするか、冷やにするかを決め、レジで清算している。
迷い箸ならぬ、迷いトングで天ぷらを選んでいる人を横目にしながら、私は余裕綽々で列に並んでいた。このときすでに、私は食べるものを決めていたからだ。
おろしぶっかけうどん(中)に、温玉とちくわ天。
この店のおろしぶっかけ最大の魅力は、添えられた串切りのレモンだ。
出汁のきいたタレとレモンは相性抜群。そこに、温玉、揚げ玉、小ねぎやおろしの薬味が絡まり、混然一体となって、うどんにまとわりつく。
爽やかでありながら満足感のある一品を、ちくわ天をかじりながら食べ進めるのを想像しただけで、ゴクリと喉が鳴った。
客は続々とやってくる。
私の真後ろに並んだのは、私服でふらりと現れたおじいさん寄りのおじさんだった。私と一瞬目が合うと、そのおじさんはこちらに声を掛けるでもなく、テレビを見ながら政治家批判をする視聴者のように、こんなことを言った。
「この店はさぁ、うどんは旨いんだよ。でも、天ぷらはだめ。天ぷらはだめだよ」
独り言にしては主張が強い。
このひと言が、私に聞かせるための発言であることが、ありありと見て取れた。当時は私も若かった。味も何も知らなそうな小娘が損をしないように、教えてやろうという気持ちだったのかもしれない。
だが、私はすでに、ここの天ぷらを食べたことがあり、特にその味に不満はなかった。それに、こっちはすでにちくわ天を食べる気満々でいるのだから、今更、後に引けない。
ここで気の強い人だったら、ギロリと睨みつけておしまいだろうが、私は元々、気の弱い性質である。
ただ天ぷらを注文したいだけなのに、そこに、《おじさんの忠告を無視した》というばつの悪さが加わってしまったことに、困惑の色を隠せなかった。
こういうときは笑顔で乗り切るしかない。
私は苦笑い7割、愛想笑い3割の笑顔をおじさんに向け、予定通りちくわ天を取ってレジへと向かった。
それを見たおじさんは、
あれ? 俺の言うこと聞いてなかった?
とでも言いたげな、間の抜けた顔をして私を見た。
実に些細な出来事なのに、なぜかしぶとく、私の中にこの記憶が残っている。憶えておくべきことは、他にたくさんありそうなのに、不思議なものだ。
つい先日、スーパーに行き、卵を買おうと売り場に行った。
ひとくちに卵といっても、赤玉、白玉と、様々な種類がある。見た目だけではなく、提示されている栄養価も、メーカーによって様々だ。
私は大概、その中で一番安いものを買っているのだが、ここ最近の物価高のせいで、割といい卵と、普通の卵の価格差が無くなってきている。パックに詰め込まれただけの無愛想な卵と、パッケージつきのメーカー品の価格差が30円ほどしかない場合、どちらにするか迷う。
たかが30円、されど30円。
うーん、と腕を組み、売り場の前でしばし悩んでいると、買い物中の夫婦がやってきた。夫婦ともに、年は70過ぎといったところだろうか。卵を買うのにまごついていた私は、売り場の前でこの見ず知らずの夫婦に左右で挟まれる形になった。
左手に妻、右手に夫、真ん中に私。
謎のフォーメーションの完成である。
そのとき、卵を見ていた夫のほうが、ちらりと私を見やった後、妻に向かってこんなことを言った。
「そっちの卵のほうが安いけど、こっちの卵のほうが旨いよな。うちはいつも、この卵だもんな? なぁ」
夫のほうが「なぁ」と妻に呼び掛けたとき、私の脳裏によみがえるものがあった。20年前うどん屋で出会った、おじさんのことを思い出したのだ。
いつも使う卵ならば、ここで殊更、声を張ってまで妻にそれを伝える必要はない。
「卵はこれでいいんだよね」
「はい、そうですよ」
で済むはずだ。
アピールするように「こっちのほうがいい」と言ったのは、妻に言うふりをして、私に聞かせるために口にしたのだろう。「天ぷらはだめ」と主張していた、あのおじさんと同じ手法だと私は思った。
夫の口ぶりに何かを察したのか、妻は微笑みながら
「そう、うちはいつもこれなのよね」
と言う。
夫のアピールに加勢してあげる妻の優しさを感じる。
ここまで、私とこの夫婦に直接的なコミュニケーションはない。
表面上は、夫婦間のやり取りを、私が真ん中で傍観しているだけだ。だが、そこには私の判断を見届けようとする夫婦のなにげない空気があった。
20年前のうどん屋では、おじさんのアピールを袖にした私であったが、今日は二対一。おじさんのアピールというものは、どこか押しつけがましいところもある。が、そんな夫に寄り添う妻の気持ちを無下にするほど、私は強情ではない。
私は夫婦おすすめの卵のパックを掴んでカゴに入れ、背を向けレジへと向かう。背中に目がついているわけではないが、どことなく、後方に温和な雰囲気が漂っている気がして、私の口許に、かすかな笑みが洩れた。
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