いつもの席でバスに揺られる
ひとりの部屋がほしい。
家族の目を気にせず、ぼんやりしながら違う世界を空想したり妄想したりできたら、どんなにいいだろう。
私はそんなことを思いながら、十代の多感な頃を過ごしていた。だが、あいにく、私にはひとりになれる部屋がなかった。
子供部屋は姉と共用。
しかも、試験勉強や論文制作などを理由に、姉は私を部屋から追い出した。いるだけで気が散る、というのだ。
なので私は姉が長風呂をしている隙きを狙い、部屋でひとり本を読んだ。そのとき読んでいたのは『走れメロス』。メロスに思いがけない苦難が襲い、もう走ることもままならないのではないか、と思った次の瞬間、
「お姉ちゃんがお風呂から上がったわよ。冷めちゃうから早く入りなさい」
階下から母の声が聞こえてくるのである。
今、メロスが走ってるところだから、もうちょっと待ってほしいと頼んでも、
「あなたがお風呂に入ったくらいで、メロスは走るのやめたりしないから早くしなさい!」
などと返ってくる。無念だ。
そんな私にとって《ひとりになれる場所》といえば、通学中の路線バスの中だった。ひとり、と言っても、厳密に言えばひとりではない。運転手もいるし、他の乗客もいる。
でも、その人たちにとって、《私》は風景の一部にしかすぎず、それは私にとっても同じことだった。
一般的な路線バスの席数は、26席ほどだといわれている。
多いような、少ないような 。
しかし朝晩のラッシュ時だと、この26席が瞬く間に埋まる。始発の停留所から並んで乗ればどうにか座れるが、途中の停留所からだと、目の前の人が降車しない限り座ることはできない。
その頃、私が住んでいた家は停留所の傍にあった。始発ではないので、行きは座れないが、帰りはわざわざ歩いたり、電車に乗ったりして、始発のバスターミナルを目指した。
先頭から5人目くらいまでに並べれば、好きな席に座れる場合が多い。
26席あるうちのどこに座るか。割と選択肢がある。
先頭と、前から二列目。
この席は大きなタイヤの真上に位置する席で、他の席よりも見晴らしがいい。子どもに人気の席だ。
大人が好むのは、真ん中あたりの一人席。ここが埋まると、乗客たちは仕方なしに一番うしろの席に向かい、そこも埋まると、まぁ、立っているよりはいいかと、他人と相席覚悟で二人席に腰をかける。
席取りは無言の攻防戦だ。
私は自分が並んだすぐ後ろにお子さんがいると、先頭を譲る気持ちで、他の一人席に座ることもあったが、お気に入りなのは、やはりタイヤの上の席。
母の声も飛んでこない。
姉に追い出されることもない。
誰にも干渉されないバスの空間は、私にひとりの時間を与えてくれる、移動もできる便利な部屋だった。
高校時代、私はバスの中でイヤホンを取り出し、お気に入りの音楽を聴いていた。一度、読書にも挑んでみたが、揺れてしまうので断念した。
使っていたのは今は亡きMD。
当時は、今のように配信された音楽でプレイリストが作れる時代ではなかったので、私はバスで音楽を聴くためだけに、何時間もかけてオリジナルベストを作った。
今の若い人から見れば、かける時間と労力に驚くかもしれない。
それでも、手間暇かけて作った分、翌日の通学時間が楽しみになったのだから、かけた時間は決して無駄ではなかったと思う。
暮れなずむ車窓の景色を眺めながら、音楽に耳を傾けていると、いつも聴いている曲が、よりいっそう心に沁みわたってくる。
こういうとき、私は、周囲が無機質になるのを感じ、外の世界が止まってしまうような錯覚に陥った。
降りるバス停が近づいてくると空間が一気に色づき、私は我に返る。
もう降りなきゃ、と降車ボタンに指を触れたときに限って、イヤホンからお気に入りの曲が聴こえてきたりする。
もう少しだけ、ここに座っていたい。
私はボタンを押さずに指をひっこめた。
意図的にバスを乗り過ごしていく。時には終点まで行き、また同じバスに乗って、自宅の最寄りのバス停に戻ったりしたこともあった。これは定期券があればこそできる裏技だ。
今、私は十代の頃より快適な環境で、読書や音楽を楽しむことができている。大人になり、時代も変わり、便利にもなった。
それでも、お気に入りの曲を聴いていたくて席を立てなかったあの頃が、いとおしくて懐かしくてたまらない。
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