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■『俺、巨乳がタイプ』っていう言葉について考えてみた《やや哲学》

今日はちょっと角度を変えて、私の趣味である、答えのない問いについて考える《哲学時間》です。

題名だけ見て、期待されてしまったら困るので先に哲学の話です…と言ってみる。



さて、本題に戻りますが、いくつになっても"好きな仕草"とか"好きなタイプ"の話って盛りあがりますよね。

『好きなタイプは?』
って聞かれた時、たまに

『俺、巨乳が好きなんだよね』っていう人がいます。

そしてこの会話をしてる時、その中に女性がいた場合、大抵

『サイテー』とか『そんなんで判断しないで』

と反感を喰らいます。


でも私はいつもこの状況に違和感を感じています。


なんで"巨乳が好き"と言うと批判されるんだろうか。
別に好きは自由でいいと思う。


多分女性の前での発言だからということかな?
それとも外見的な要素だから?
巨乳じゃない女性が傷つくから?
でも反対に"胸が小さい子が好き"って言ったら、その時は批判が減る気がする。




でも女性も、好きなタイプで

『私背の高い人が好き!』
と普通にいう。

でもそれに対しては誰も批判はしない。

どちらも外見的特徴だし、この発言によって、背の低い男性で同じように傷ついている人がいるかもしれない。


遺伝の要素が大きく本人の努力でどうにかなることではない部分。

もし、"巨乳好き"といってはいけない理由が"傷つく"だとしたら、同じように"身長"の話も、考慮しなくてはいけないと思う。



ただ、もちろん"巨乳"は性的な部分の話だからという理由が大きいのは分かる。
過去女性をその様な対象として軽んじて扱っていた歴史も深いし、まだ社会的にもジェンダー差別は沢山ある。

でも"巨乳が好き"と言った人の気持ちが"高身長が好き"と同じくらい純粋な気持ちでの発言ってことだってあるはず。

そう考えると、多分ここで問題になってるのは、「好みそのもの」が問題なのではなくて、
社会が"どんな好みを公然と語ることを許しているか"という、
“発言の自由とバランス”に関わる構造の話なのかもしれない。


どちらの好みも、本来は悪ではない。

問題は「好みの発言」がどんな歴史や文脈で受け取られてきたか、どんな力のバランスの上で聞こえるかということ。


ただ、どちらも「人それぞれの好み」なのに、一方だけが責められて、もう一方は当たり前のように受け入れられる。そんな偏りがある。


そして、それを無意識に許容したり拒んだりしている社会の側にも、“無意識の偏り”があるってことなのかな。と思った哲学的な話。


どちらの好みも、笑われたり、咎められたりするべきじゃない。


ただその“好き”が、誰かを下げたり、差別したりする言い方にならない限り「その人の感覚」としてそっと尊重されていい。


でも過去のそのような歴史はちょっとやそっとのことでは社会的にも意識的にも変わることは難しい。
それだけ根深く沢山の女性が傷ついてきたから。


だから今はまだ"巨乳が好き"という発言に対して、不快を感じてしまうのは仕方がない。


ラベルを貼られやすいけど、それはすべて“文脈”や“言い方”によって変わるはず。


いつか
"俺、巨乳が好き"と男性が言っても
"私も!背の高い人が好き"と同等な扱いをされる
社会になったらいいな。


その為にも、まずは今まで以上に男性は女性への性的差別をなくし、日頃の行動や会話に気を配る。
女性も相手の発言に対して"無意識の偏り"がないか意識する。
(でも元々の男女の意識や感覚の違いのズレは沢山あるので、不快な思いをしたら迷わずしっかりと伝えてあげてください。そして男性はそれを聞いて、自分達との意識や感覚の違いを理解し、しっかり擦り合わせてくださいね。それだけ女性は、男性が知らない辛い思いを沢山してきたんです⋯)





でも男性って、いくつになっても下ネタで盛り上がってしまうから、きっとそれでは女性からの偏見がなくなるには時間が掛かりそうかな⋯



"男性はスーツを着た少年"。

突然の今日の名言です。


本日も最後までご覧いただきありがとうございました。



はなり紡




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