これで、明日死んでも後悔しない?
私は、麻酔が効きにくい体質だった。だから最初にうまく効かなかったときも、 「あ、やっぱりな」 そのくらいの感覚だった。
量を増やしてもらって、手術が始まる。三人目の子を産むための、帝王切開だった。目の前には、天井だけ。聞こえるのは、看護師さんたちの声だけ。誰かに助けを求めよう、という発想すら浮かばなかった。
舌が下がって、気道を塞いでいるらしい。声を出そうとしても、出ない。手を動かそうとしても、動かない。苦しくなり始めてから、多分数十秒。
そして、驚くほどあっさりと、頭に浮かんだ。
我が人生、これで悔いなし。
劇的でもなく、感動的でもない。
本当に、それだけだった。
その直後、遠くで赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
たぶん、三人目の。
その声を聞いた瞬間、意識はブラックアウトした。
次に覚えているのは、
「あ、生きてる」
という感覚だった。
目を開けた瞬間、とんでもなく青い空が飛び込んできた。
空って、こんなに青かったんだ。
場違いなくらい、その青さに見入った。
自分がどうなろうと、世界は何事もなかったように動いている。
そのことが、なぜだかひどく安心できた。
上の子たちのことは思い出さなかった。
頭にあったのは、
「次男はどこだろう」
それだけだった。
帝王切開だったから、生まれてすぐNICUへ運ばれていた。
あの数十秒で、どうして私は
「悔いなし」
なんて思えたのだろう。
しばらく、その理由は分からなかった。
答えは、十数年前にあった。
高校三年生の私は、鬱状態の中にいた。特定の何かが重かったわけじゃない。成績も進路も理由といえば理由だったけど、それよりも「なぜ自分は生きているんだろう」「何のために生きているんだろう」と、ずっとクラスからひとり浮いているような感覚を抱えていた。
ある日、なんとなく。このまま目が覚めなかったら、どうなるんだろう。そう思った。死にたかったわけじゃない。ただ、境界線がひどく曖昧だった。
結果として、大したことにはならなかった。けれど、あの日。死を覚悟してから、私の意識に強烈に残っている想いがある。
「もっと、自分の好きなように生きればよかった。」
それ以来、何かを選ぶとき、私は自分に問いかけるようになった。
これで明日死んでも、後悔しない?
大きな決断だけじゃない。子どもがまだ小さかった頃、寝かしつけをする日にするか、仕事を片付ける日にするか。そんな小さな選択のたびに、この問いを自分に向けてきた。誰かの反対を押し切るような、派手な選択をしてきたわけじゃない。ただ、この問いに「うん」と言える方を、選び続けてきただけだ。
手術台の上で浮かんだ「悔いなし」は、その積み重ねへの答え合わせだったんだと思う。この生き方で、よかった。
それからも、何かを選ぶたびに、自分への問いは変わらない。
これで明日死んでも、後悔しない?
ただ、その問いを向ける相手は、少しずつ変わってきた。今は、自分だけじゃない。
六年生の長男が、ぽつりと言った。
「自分には、夢中になれるものがない。特に好きなことも、ない」
全方位でそこそこ何でもできてしまう。
だからこその悩みだった。
子どもは、自分の状態をうまく言葉にできない。
だから私は、何度も角度を変えながら、根気強く聞いた。
「夢中になれるものがない」って、どういうことなんだろう。
何が苦しいんだろう。
どんな答えも否定しない。ただ、一緒に理由を探す。
それが一番大変な作業だった。
その話を聞きながら、高校生だった頃の自分がふと重なった。
あの頃の私も、「なぜ生きているんだろう」と答えのない問いを抱えていた。
私は彼に、何か答えを与えられたわけじゃない。「まだ見つかっていない」というその状態を、否定せずに一緒に抱えることしかできなかった。
その隣では、将棋の駒がパチパチと鳴っている。
一年生の次男だ。
「将棋しよ〜」が口癖で、暇さえあれば駒箱を持ってくる。
負ければ悔しくて機嫌が悪くなる。「もうやらない!」と言いつつも、数分後にはまた自分で駒を並べ始める。夢中になれるものがあるというのは、きっとこういうことなんだと思う。
少し離れたテーブルでは、長女がコピックと絵の具を広げている。
「KAKOは天才。」
誰に言われたわけでもないのに、恥ずかしげもなく、堂々とそう言う。
実際、ある画家さんにも言われたことがある。「この子に技術を教えるべきじゃない」。自由に描けることが、この子の一番の才能だから、と。
でも、その言葉を聞く前から、彼女はきっと「KAKOは天才」だったんだと思う。
弟には、将棋がある。
妹には、絵がある。
長男には、弟のように将棋に没頭することも、妹のように『天才』と言い切ることもできない。だからか、迷いなく飛び込んでいける二人を、長男は少し羨ましそうに見ている。
けれど私は思う。
今、目の前で起きている「できないこと」も、「まだ見つからないもの」も、彼らの長い人生の中では、まだ何も決まっていないだけなのかもしれない。
今日もまた、駒の音と、絵の具の匂いと、答えの出ない問いに、へとへとになりながら。それでも一人でも欠けると寂しくなるのは、私が誰よりも先に、彼らの熱狂的なファンだからだ。
私は、命を賭けて「この生き方でよかった」と答え合わせをした。
だから、彼らにも。
これで明日死んでも、後悔しない。
そう思える選択を、それぞれのペースで、自分の力で重ねていってほしい。
三人の声が聞こえる。
今日も、私は生きている。
