#beat5 仕事が暇すぎて上司が伝説的な指パッチンをします
これは草食系ブラック企業(職場)のリアルなドキュメンタリーだ。草食系ブラックは社員の能力・やる気・成長機会を根こそぎ奪い、廃人同然にしてしまう。まるでこの世の果てのような理外の空間には、様々な怪現象が現れる。
【登場人物】ひろし:部長、仕事をしない。たつお:課長、仕事をしない。のぞみ:中堅社員、以下同文。トシ:中堅社員、以下同文。
◇ ◇ ◇
終業のチャイムまで、残りあと15分という時刻である。
トシの疲労は激しい。まるで、午前午後に何本もの会議をこなし、その課題に追われた挙句、ようやく仕事の目処のついた夜23時の時間帯であるかのようだ。実際には、外の陽射しはまだまだ強く、真夏の青空には翳る様子がまったく見られない。恐ろしく膨張した時間感覚。そのわりにスカスカの手触り。
脳が酸欠状態だ。16時を過ぎたあたりから頭痛がして仕方ない。毎晩残業に明け暮れていた前職でも、こんなにつらくはなかった。
トシは他の面子を見回す。のぞみもやばい。PCのモニターに落としたその視線は、もはや何にも焦点があってない。
水面下のメッセージも、16時すぎ、
h.nozomi《たつおがまた寝ました》
からパタリと絶えた。
そのたつおは、つい5分ほど前、「ふぁあああ」と明快な発音をしながら、大きな伸びをした。もはや日常となった光景。両腕を思いっきり横に伸ばし、胸をうしろに大きく逸らす。ベルトの上に、だらしない腹が乗り上げる。まるでトトロ。
この異空間は、すでにファンタジーの域に突入している。
このトトロを、管理、監督すべき怪鳥は、ハリボテのように動かない。
日中はデスクに座っていながらも、鳥のようにカクカクと首を動かし、異様に落ち着きがないのだが、1時間――、長いときは2時間ものあいだ、彼は突如として動きを止めることがある。
完全なるハリボテ。ハリボテモードとなったひろしは無敵、なんの苦痛を感じている様子もない。まるで魂の抜け殻だ。
寝起きのたつおが、デスクの片付けをはじめた。顔色がいい。額がてかる。
「てめえ、楽しやがって。そんだけ寝てりゃ調子もいいよ。というか、課長が定時まえに後片付けはじめちゃダメでしょ」
若手の二人が、これまでに何度も交わしたやり取りだ。
終業のベルが鳴ると同時にA4一枚の日報を、ひろしの机の端に置く。ひろしは、日報が机に置かれるこの時間、仕事をしているふりをいっそう強め、必要以上に顔を歪ませる。そして意味もなく画面を睨みつけたまま、聞こえるか聞こえないかの小声で「んん」くらいのことを言う。一日の唯一の接点だ。
虚しさを禁じ得ない。トシは、まったく意味のない作業で一日を終えることになる。ただの儀式だ。引き出しに大量にコピーしてある印刷物(差し障りのない定型内容が書いてある)に、日付を記入し、シャチハタを押し、怪鳥の机の上に置く。この儀式は、妖怪戦争の遺物である。
ひろしはひろしの上司(62)から、日報を出させたら? と言われた。
ひろしは「はい」と言った。
言われたからやっているだけ。まったく読まない。
なぜかひろしは、メールでファイルを送るのではなく、プリントアウトして紙で渡せと言う。ものごとを非効率にすることだけは忘れない。「君たちの練習のためだから」とも言った。何がしたいんだ? すべてが意味不明。
トシは階段を降り、一階のドアを出ると、同じく階段を降りてきたのぞみと合流した。17時35分――定時5分過ぎだ。彼らの帰宅時間は時計のように正確である。
彼らは知っている。その2分後にたつおが、そして、顔をしかめ、仕事と格闘している感を演出していた怪鳥も、5分後には帰宅することを。
この部署、どんだけ暇なんだ。
二人はバスを使わず、駅までの道を、20分強歩くことにしている。バス代の節約のためだ。
「今日もつまんなかったな」
「明日からもな」
すっかり重くなった口を無理やり開き、彼らは歩き出す。
彼らの職場は、本社から道を一本挟んだ小さな建屋のため、すぐに本社の敷地にぶつかる。ほどなく正門の前に差しかかった。
社名を彫った大理石の向こうに、白い建物が重なって見える。食堂を利用するとき以外には訪れることのない本社。とても同じ会社に所属している気がしない。
帰り道のこの瞬間、トシは、いつも後ろ髪を引かれるような気持ちになる。「本社もやっぱり人が余ってるのかな」
そして彼は、この門の向こう側に、自分の本当の居場所があるような気がしている。
「さあ」
のぞみは興味がないようだ。
「給与が上がるわけでもないし。俺たち中途社員が行っても使い捨てられるだけでしょ」
「……そうだね」
仕事、と言った場合、のぞみの最大の関心事は金である。彼は日頃たびたびそう口にする。服、クルマ、デート――金の使い方を知っているだけに、その執着は強くなる。
「そういや、今日も怪鳥がうるさかったな」トシは、話題を変えることにした。「あのキーボードの音おかしいよ。普通になにか書いてたら、ぜったいあんな大きな音でないもん」
特にエンターキー。ひろしは力の限り叩く。
「アピールがうっとおしい! 俺、距離が近いから、ほんと苛立つんだよな」
のぞみは普段抑えているが、本来、気性の激しい男だ。社内ではそれを巧みに隠している。内心、苛立っているときでさえ、目上の相手に対しては営業トーク気味になる。それゆえ、妖怪戦争を経た今でさえ、怪鳥に気に入られている節がある。
今のレイアウトは、怪鳥が感じているそれぞれの部下への距離感を、如実に表していると言える。怪鳥の右斜めにのぞみ、左斜めにたつお、彼らの二人の机を挟んでノーガード席のトシだ。
トシは、座席の配置から、のぞみのことを怪鳥の右腕だと言って、ときどきからかう。
今日も言ってみると、
「勘弁してくれ」のぞみは本当に嫌そうな声を出す。
「右腕というか……」右腕だと、怪鳥も仕事してるみたいだし、「ほぼ全身っていうか」
「ちょ、やめてよ。あいつ、油断してると、背中から全体重かけて乗っかってくるんだよ」
「子泣き爺か」
「なにもしなくていいから、管理職手当を俺によこせ」
――彼らは、日々、人として大切なものが失われていく。
不満だらけの現状は、何から突っ込んでいいのか分からない。
不満要素のウエートは、トシとのぞみでやや違う。トシはなにより、妖怪戦争での屈辱、その結果として置かれた今の不当な状況に怒りを覚える。怪鳥は、レイアウト変更時にトシをノーガードポジションに追いやったり、半期の評価をあからさまに下げたりと、せせこましく陰湿な嫌がらせをする。これらは、妖怪戦争を経験していない、課長のたつおを通して告げられる。それがまた腹立たしい。
怪鳥からそういった嫌がらせはないにせよ、隙あらば寄生されそうな、のぞみの苛立ちもよくわかる。怪鳥が頼みにしているたつおは、実務面で何ができるわけでもないのだ。
怪鳥とたつお、トシとのぞみの組は、こう分けることができる。管理職と一般職、新卒組と中途組、搾取する側と搾取される側。
トシにしても給与を不満に思わないわけではない。彼らの給与は、安い。買い叩かれた。もちろん、それに気づいたのは入社してしばらくたってからのこと。業推は、給与面においても、遺憾なくマイナスのパワーを発揮した。仕事がないため、残業手当がつかない。他の手当もない。
トシものぞみも入社から数ヶ月後に、それぞれ配属されていた部署から、突然、異動を命じられた。新規に立ち上げた部署に人がいるとのこと。その時点で、のぞみから営業手当てが消えた。
「人がいくらいても工数が足りねえよ」ひろしの言葉とは裏腹に、仕事は多くなかった。
それ以前に、その人が仕事を理解していない。
「これが仕事ですよ」と教えてあげても、けっして仕事だと認識せず、トシとのぞむを集めては、ただ、くだらない与太話をした。そして彼は時々、思い出したようにこう言うのだった。「人がいくらいても工数が足りねえよ」
「なんだ、この人!」
そのあたりの経緯が、いわゆる妖怪戦争であるのだが、とにかくひろしは、仕事をさせない。持ち込ませない。それでも、ひろしの脳内では、部署には仕事があり、常に工数が足りないという認識が成り立っているため、最初は残業をすることができた。
仕事が限りなくゼロになってからも、のぞみは率先して残業をした。ひろしの管理能力ゼロを逆手に取った。特に見たくもないサイトを漁り、ネットサーフィンをした。ネットからフリーで落とした、特にやりたくもないテトリスもどきのゲームをした。だが、残業をすればするほど、目に見えて彼の気力は衰えた。魂は削られた。
時は流れ、定時まで精神をもたせることすら限界に感じるこの頃では、残業など自殺行為。すなわち、のぞみから、残業手当までが消えた。残されたのは、生活を維持するためのギリギリの基本給。彼のショックは大きい。
トシから見れば、のぞみは充分に洒落た恰好をしていると思うのだが、彼の身に着けているシャツもスーツも、どれも入社当時と比べてダウングレードしているのだそうだ。
まだ部下から完全に相手にされなくなる前、怪鳥はのぞみによく、お気に入りのイタリア製ブランドについて語った。俺の目にかなう店員は銀座にひとりしかいねえんだ、と与太話をした。怪鳥の言うブランドがなまじ分かってしまうだけに、のぞむは苛立った。
イタリアねえ、なんでまた。トシには事情がよく分からない。
ひろしは自分が大好きだ。とんでもない自己イメージを抱いていそうで怖い。彼はロバート・デ・ニーロを目指しているのではないかというトシの説に、のぞむはある程度の同意は示しつつも、俺にはポール牧にしか見えないとコメントをする。
怪鳥は、指パッチンをしながらフロアを移動するためだ。彼のなかでは当然かっこいい仕草。なにをするにしても、音を立てずにはいられないらしい。
音の抜けがいい――怪鳥の指パッチンを、二人はそう評価する。
彼に関して、唯一、前向きの意味で評価ができるものかもしれない。しかも怪鳥は、歩行時に、両腕の振り子のような動きを利用して、ときに信じられない速さで連打する。二人はそれを、指パッチンのツーバスと評している。
指パッチンのひろし。仕事と関係ないばかりか、あまりに抜けのいいその音は、職場において迷惑でしかない。パチパチパチパチ、自分が気持ちよければそれでいい。
怪鳥は、自席と通路を行き来する際、トシのすぐ横を通る。
席に座っているときに、耳元で、パッチン! と鳴らされると、さすがのトシも殺意が湧く。
仕事もせずに、パチパチパチパチ。与太話をしては、パチパチパチパチ。
百害あって一利なし。二人は怪鳥をそう評する。
【作者コメント】
テトリスもどきのくだりで思わず笑ってしまいました。
皆さまの笑いのツボにも何かが響きますように。
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