憧れをうたう
どきどき、思う。
わたしの書いているものなんて、誰にも必要とされていないんじゃないかな。と思う。
誰かに必要とされるために書いているわけでもなければ
誰かに必要とされるように努めているわけでもないのに
なんだか傲慢な話だな、と思う。
エッセイに押されるハートマークを、なにかの記号と思ってしまう瞬間に
ずいぶんと薄情で、最低な人間のように思える。
あれは記号なのではなく
画面の向こう側で、誰かが押している。
誰か、という仮名のひとりの人間が、誰かの人生がそこにはある。
いっときでも触れられたことを、嬉しく思う。
あれは、そういうマークだった。
*
誰かに必要とされていないのも当然だ、とも思う。
それは自分を卑下するような意味合いではなく、ただ事実としてーーー
おとなに、憧れている。
わたしの書くものは、わたしをおとなにしてくれたものものに憧れている。
劣化版コピーと言ってもらえたら、それは光栄だ。
ときどき、バーを思い出す。
わたしはお酒を飲まないし、バーと呼ばれる場所にもほとんど行ったことがない。
だから、強く思い、思い出す。
ユニとフェイスが出会った、クラブ・ヌーのこと。
僕と鼠が語り合った、ジェイズ・バーのこと。
たぶん、道化者のチャーリーも、バーとか、クラブにいたと思う。
母親の運転する車では、SMAPをよく聞いていた。十代のころだ。
店の奴の噂じゃ 彼女はちょっとトラブって
どこかへ消えたとさ 結末はそんなもの
恋なんてまっぴら、と繰り返す歌詞を、わたしはいまでも覚えている。
歌詞というより、それはただの旋律かもしれない。
恋の意味も知らない、ただの子どもだった。
いまだって、恋のことはよくわからない。苦いと思っていたら甘くなって、その瞬間に恐怖で吐き出すのを、延々に繰り返している。
*
いまだったら、彼女のトラブルだって、わかっちゃうんだろうなァ。と思う。
彼女のSNSとか、誰かのツイートで、ぜんぶ見えちゃったりするんだろうな。
彼女の引越し先だってわかってしまうかもしれない。
むかしよりも、消えちゃうのが難しくなったような気がする。
連絡先を聞かなかった、それこそバーで何度も顔を合わせた関係の友達も、探せばきっと見つけられる。
わたしは彼がよくいる街の名前と、DJネームを知っている。
それなのに、わたしの連絡先(電話番号とメールアドレスを記入するアプリを、いまではもうほとんど使わなくなった)どころか、
LINEにだって、知らない名前がいくつもある。
消えるのは難しいのに、忘れるのは簡単みたいだった。
*
もうそんな時代ではない、と思う。
刻々と移り変わるものを、止めようとも思わないし、「むかしはよかった」と思うならば当時に「いまもよいのだ」と思う。偽りなく。
おとなになってお酒を飲めなかったわたしは、いまでもバーのことを知らない。
憧れは、憧れのまま
憧れを、書き続けている。
だから、いまの時代には合わないかもしれない。
合わせることが必要ではない、というのもわかっている。
僕と鼠がジェイズ・バーで語り合うのは村上春樹のデビュー小説「風の歌を聴け」のことだけど、これはいまでもキャンペーン時に平積みされていたりする。
ちっとも古くない、と言ったら嘘かもしれないけど、いまでも名著だ。
わたしも、ときどき読む。
それはもう、憧れを確かめるためかもしれない。
そんなふうに、わたしはほんの少しだけ後ろの世界を生きてしまっているのかもしれない。
少しだけ、ズレている。順応できず、古くもない化石ーーーそれってただの石ころじゃないか。そういう物語かもしれない。
あの時代
急に引っ越して連絡がとれなくなったり
バーでしか繋がっていなかったり
わたしは二十歳のころにiPhoneが出た
mixi世代だった
9月16日のメモを見ながら、ここまで言葉を紡いだ。
メモには事実しか書かれていなくて、感情は何もなかった。
ただ、それだけで寂しくもないんだと思う。
いいのか悪いのか、なんて些細な問題だということだろう。
わたしは今日も、わたしの憧れを紐解き続けている。
※クラブ・ヌーのこと
※道化者のチャーリーのこと
※now playing
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