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ピアノのこと 〜午後とコーヒーの、光の記憶に宛てて〜

ピアノだった。
それは一台の、黒く、ささやかな、しかし確かにピアノだった。




帰り道に、コーヒーを飲もうと思った。
帰り道にコーヒーを飲むことは、けっこう大切なことだと思っている。
美味しいコーヒーを飲むことはもちろん、例え「家で淹れたほうがウマイ」というようなコーヒーに当たったとしても(残念ながら、コーヒーではそういうことが起こり得る)、それでも外で飲むコーヒーというのは、やっぱり場所代だと思う。
窓を見つけると、近くに座る。景色は動く。小さくても、必ず。
わたしはそれを絵画のように見つめる。絵画は動かないけれど。ハリーポッターの、「写真の人物が動く」っていうのを思い出したりする。あれに似ている。

誰かの話は耳障りであったり、愉快だったりする。
今日は、芸能人の話をしているオバサンふたりを、いやはや申し訳ないけれど「うるさいなァ」と思って聞いていたりした。わたしは、噂話っていうのがあんまり好きじゃないから。でも、わたしも誰かと噂話をすることもあるし、久し振りに会えた友達とはテンションが上がるものだから、ノイズキャンセルのイヤフォンを忘れたわたしが悪いと、そう思っていた。

話は気づいたら息子のことに代わり、バンドをやっているということだった。
バンドをやっていた身としては、ついつい耳が傾いてしまう。どれほどバンドと無縁の暮らしになったって、きっとそうだろう。きっと、どこかで誰かが故郷の名前を出していたら振り返ってしまうように。
何を話していたかもう覚えてはいないのだけれど、ただ「好きなことをやってくれていればいいのよぉ」と笑っていた、その声だけを覚えている。ハッキリと、その声の高さも、午後の日差しも、コーヒーの薄さも、今でも思い出せる。
それはわたしが母に、何度も、何度もかけられた言葉だった。
母に、或いは友人たちにかけられた言葉で、わたしも大切な人に贈り続けた言葉だった。
ときにその「好きなこと」が何かわからず、誰かを苦しめたりしたとしても
言葉は人を救う、同じくらい傷つけもする。だったらわたしは、「好きなことをやっていればいい」という、この言葉に傷つきたい。一生抱えて生きたい。

おばさんたちも、隣の親子もいなくなって、午後のカフェは広い客席の電気が半分消された。
もしかしたら昼の営業が終わるのかなと思って、わたしの急いで立ち上がった。

ピアノだった。
視界の先には一台の、黒く、ささやかな、しかし確かにピアノだった。
まるでどこかの居間で、優しく家族を見守っているような、ひだまりのような暖かさと、凛とした背筋を持ち合わせたような気配がした。

18で家を出てから、「ナマのピアノ」と呼ばれるものを、ほとんど弾いたことがない。電気のピアノと暮らし始めて、もうすぐ18年になる。
ときおり、ナマの、木のぬくもりに触れると、心がしびれるような幸福だった。
不思議だ、ピアノなんて好きじゃないと思っていたのに。このぬくもりにならば、永遠に触れていることができるのではないか、と錯覚する。ああ、あれほど練習だなんて嫌いだったのに。
ナマのピアノに触れるたび、「もう一度、ピアノと暮らせたら」と夢を見たりしたものだった。

最近は数少ない”ナマのピアノに触れる機会”も一切なくなってしまっていたので、すっかり忘れていた。
でも、思い出した。
客席の電気が半分消えて、暗い席でお店のお兄さんがまかないを食べていて、お客さんはわたしが最後のひとりで、だったら「少し弾かせてください」と言えばよかった。断られなかったと思う。久し振りに、正しく後悔した。
やっぱり、弾きたかった。

「やりたいことを100個書く」とか、「休日にやりたいことをやる」ことの難しさに気がついている。
ピアノと暮らすっていうのも難易度が高くて、防音の問題とか、楽器可の物件では使用時間が限られるし、
完全防音の部屋は牢獄みたいにしんとして息苦しいし、いやそもそもお金がねとか思うと、先にパソコンを買い替えたいとか、現実はいくらでも襲いかかってくる。
そして「本当にピアノと暮らしたいのか」と思うと、「まあいいか」とか「他にやりたいこともあるしな」と思うのに、休日は寝てしまう。
わたしはまぬけで、人生はままならない。
けれども、ピアノと暮らしたいことを今日、覚えておきたいと思った。

わたしは何度も、君に尋ねる。
「どういうふうになりたいの?」
例えば、なんでピアノを弾くの?とか、それは好きだからとか、好きでもないけどとか、本当はなんでもよいはずだった。
でも道に惑ったとき、あるいは誰かと一緒に歩いていきたいと思ったとき、理由があると便利だったりするときがある。
わたしは傷つく君を見るために、「なんでなの?」って聞く。
どうかそれでも進みたいからと、胸を張って欲しかった。
でも、そうじゃないならば、引き剥がそうと思ってしまうではないか。

人生にはときどき、理由とかやりたいことが必要で
言葉や覚悟が自分を守り、それ以上に大切な人を守るような気がしている。
「やりたいことをやってるよ」って言ったら、喜んでくれる家族に、友人に、応えられる。それはわたしにとって喜ばしいことだった。
誰かのために生きないということは、誰でも傷つけていいこととは違う。誰かのために生きられないわたしこそ、こんなわたしを大切にしてくれる少ない友だけは、決して裏切りたくないと思うのだ。

そしてもし、大切な誰かが「やりたいこと」を言語化してくれたならば、わたしは手を貸したいと思う。
仲間のために頑張れる、というのは心地良いし、人を励ますと元気になれる。

あなたのやりたいことを100個、いや10個でいいから教えてもらえたら、そうしたらこっそり応援したり、手を貸したりできるのに。なんて、勝手に思った。
だからわたしもやりたいことを100個、と言わずに
ピアノのことを、覚えておこうと思った。エッセイのタイトルにしておけば、3年後でも出会えるだろう。
好きだと言い切れなくても、うまくなくても、決意もなくても、もう誰の前で弾くこともなくても、ピアノと暮らしたいと思っている、わたしに。



※now playing





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