きっと、いえる
病院へは、バスで行く。
春に一度、バス停が移動した。
それでももう慣れた道のりで、いつもの待合室にたどり着く。
病院の待ち時間は、少し不安だ。
診察券を受付の機会に飲み込ませて、出てきた受付票を握りしめている。
呼ばれるまでの時間、誰とも話さないので、「本当にここでいいのかな」「ちゃんと呼ばれるかな」などと思ってしまう。
呼ばれなかったことなんて、一度もないのに。
降りるべき場所が決まっているバスや電車と違って、
病院ではいつ呼ばれるかわからないから、なんとなくそわそわする。
そして時折、16番の病室を見つめる。
先生の部屋。
*
今日は本を読んでいた。
かつては、ここまで来ることに疲れ果て、主治医に伝えるべき自分の体調を整理したり、
病院に来るってそれだけで大変だったのに、いまでは慣れたもの。元気にもなった。
のんびりと、そしてそわそわしながら、本を読む。
向こう側の16番のドアが揺れるたび、視線を上げる。
次はわたしかもしれない。気をつけなきゃ。
病院から顔を出したのは、先生ではなく患者さんだった。
おそらく、わたしと同じ病だ。
先生は、この病の研究で有名らしい。
わたしと同じようなをたくさん診察して、情報を集めて、あれこれ試してくれて、
先生と先人たちの努力で、わたしは無事に生き延びることができた。
出てきたのは、10代に見える女の子と、その子より少し背の高い男のひと
お父さん、だと思う。
その瞬間、一年間隠すべきであり恥ずべきだと思っていた感情が溢れ出し
そうして、ようやく飲み込むことができた。
*
わたしも、病院に付き添って欲しかった。
ひとりでここへ来るのは、怖かった。
*
バスに乗って、最初のころは検査も多くて、
いきなり病院の地図を渡されて、あちこち行かされて
あのころはいまよりもっと不安で、もっと具合が悪かった。
渡された地図もロクに読めなかった。
先生との信頼関係も浅く、
また、わたしの呼吸も浅かった。
なんとか呼吸をして、先生の質問になんとか答えて、でも言葉に詰まって
わたしは、怖かった。
ひとりにしないで欲しかった。
もし、わたしの病院に付き添える可能性があるひと、頼める人がいるとしたら、同居している家族だけだ。
でも、忙しく働くその人に
なにより、今よりもっと緊迫感のあった病院に、彼を連れて行くわけにはいかなかった。
連れてゆく、という選択肢すらなかった。
そしてわたしは30歳をいくつも過ぎた良いおとなで、
当然、病院にはひとりで行けるのだ。
病院に行くのだから、
身体に何かしらの異常があって
でも、それでも行かなくてはいけないのだ。
行くと決めたのはわたしだった。
*
一度だけ冗談で、「一緒に行く?」と尋ねたことがある。
わたしの病院の日と、彼の休みが重なった前の夜のことだった。
「行かないよ」と彼は笑った。
彼にとってあの病院は馴染みのある土地ーーー親しくしていた先輩が住んでいた場所で、お気に入りだったパン屋も健在だったから、「もしかして」と思った。
もしかして、一緒に来てくれるかも。なんてね
「そうだよね」と頷いた。
そりゃ、来ないよね。
わたしはひとりで病院に行けるし
あなたは貴重な休みで、病院に来てもすることはないのだから。
*
言えばよかったかもしれない。あの日に。
いや、言えるわけはなかった。
「行かないよ」のその声で、自分の望みが誤ったものだと認識した。
やはり、病院に一緒に来てほしい、なんておかしい。
言えなかったことを
そして、言わせてもらえなかったことを後悔していないし、責めてもいない。
でもいま、この話をあなたに伝えるべきだ。と思った。
いまなら話せる気がする。
あれから何ヶ月も経って、わたしは会社に行くことができなくなって、休職することまで追い込まれて
それでも生きて、安らかな時間と歩き回れる身体を手に入れたわたしが
「できることがあって」と、いま言ってくれるあなたに。
ほんとうは、あのとき一緒に病院に来て欲しかった。
わたしは、心細かった。
*
そう思ったら、ずいぶんと心が軽くなった。
身体もほんとうに回復したのだな、と思った。
こんなすなおに、くすぶっていた本音を受け止められるだなんて。
よかったなあ、と思う。
もう、笑い話だね。
いまはひとりで病院に行けるよ。
そしていま、あなたがこの話を笑って聞いてくれるであろう、ということに安堵している。
※now playing
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