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「アリと、たたかってる!!」

「こっちがね、子どもに育ててもらってるみたいなモンだから」と、友達が言ったことを、よく覚えている。
 それは、わたしの母の口癖でもあった。
「あなたと一緒に、わたしは二度目の人生をなぞるように過ごしていたのかもしれない」
 それが、2024年の誕生日に母から贈られた言葉だった。

 自分の人生すら、ひとりで回すことができず、四方八方に迷惑をかけながら「アタシの生存価値って?」なんて考えてしまうタイプの、わたしの人生の現在地なんてそんな感じだから、この苛烈な現代を勇ましく生きている友人は、みんなみんな尊敬している。
 特に子育てをしている友達についてはスゴイとしか言いようがない。
 そもそも、パートナーをひとり選んで結婚して、一緒に暮らして、そのうえ家族を増やそうなんて……恥もナンも捨てて言うなら「アタシにはムリだァ!」と思う。

 先日、色々あって、友達一家と一日を過ごす機会をいただいた。
 大学の友達、その夫(大学の先輩)、息子ふたり。
 古民家が一軒と、その広い庭があるだけの場所だった。

 わたしは付き添いで、たいした任務もなかったので、ぼおっとその風景を眺めていた。寝起きで、アタマも回らない。
 子どもたちは元気で、息子はひとりで会うときより、ふたりのほうがうんと元気で微笑ましかった。「かくれんぼしよう」と言って、息子ふたりと父親が遊んでいるところを眺めたりしながら、「子どもって本当にかくれんぼをするんだなあ」とか、「先輩がかくれんぼしている姿を見ることになるなんてなあ」と、やっぱりぼおっと思っていた。

 向こうのほうで、松の木の剪定をしていた。
 ずいぶん高くて立派な松で、伸びた部分をバサッと切り落としていた。二階くらいの高さがありそうで、見ているだけでドキドキしちゃう。
 遊び疲れた長男が、先輩の膝の上に戻ってきていた。
「あの人は遊んでるんじゃないんだよ。木を切るお仕事をしているんだよ」と、先輩はゆっくりと説明をした。
「木を切って、お金をもらうの。君は、何をしてお金をもらいたい?」と、六歳の息子に問い掛けている姿が、印象的だった。
 幼少期から「将来なりたいもの」について問われることはあったけれど、「何をしてお金をもらいたい?」というのは、似ているようで全然違う質問みたいだと思う。
 そしていまの、三十七歳のわたしに問われても、うまく答えられないことに気がついた。今からでもちゃんと考えよう。などと、あなた後輩はあのとき、思っていたのである。

 そのあと、次男がひとりでしゃがんでいたので声をかけてみた。
 わたしはほんとうに子どものことがよくわからないので、どこまでひとりで放っておいていいかわからないので、他のおとなの姿が見えないと、わたしから声を掛けるようにしていた。
「アリと、たたかってる!」次男の返答は、勇ましかった。
 わたしの心臓は、ギュンと射抜かれた。とてつもない喜びが訪れた。
「そうか、アリと戦ってんのか〜〜〜!!」と、にこにこと返事をした。
 そうだ! わたしもむかし、アリと戦っていた。道端にしゃがんで、それだけで楽しかった。雨上がりのカエル、運動会の日に捕まえまくったバッタ、イモリを触った手で目を触ってひどい目にあった記憶もある。
 もっと幼少期に遡れば、ベランダの縦格子に顔を突っ込んで元に戻らなくなったり、木の実を鼻の穴に突っ込んだりしていた。どっちも、すげえ泣いた。川にも流された。すべてが興味の対象で、やってみずにはいられなかった。

 そして、友達と母親が言っていた「子どもに育ててもらっている」という言葉を、しみじみと思い出すのである。
 たった一日で何を言うか、と言われたらもう言い返す言葉もない。けれども、子どもを産まない選択をしたわたしが素直に感じたことを書いたってバチは当たらないのだと信じたい。

 子どもの頃は、道端のすべてがアトラクションだった。アリとだって戦えたし、どこまででも走っていけた。
 それを端的に言えば「今あるもので充分楽しめた」だろうか……
 おとなになったわたしは、足りないものを探してばかりで、安っぽい言葉にはなるけれど、今あるものの大切さに気がついていないというか、今あるものを丸っきり無視しているような気がしている。本を買って、置き場所が足りなくなって本棚を買って、それでもまた足りなくて買って、買ってを繰り返してゆくような……買ってきた本は、どこへ行ってしまったのだろう。そしてそれを買おうとしたわたしや、読んだわたしのことは置き去りにして、「まだ足りない」と、自らを暗闇に落としてゆくような。

「アリと、たたかってる!!」その言葉にわたしがどれほど救われたか、君はまだまだ知らなくていい。
 君がそう言ったとき、わたしの世界はパーンと開けて、端々の美しさに、目が行くようになったような気がする。ないものはない。けれども、あるものは確かにある。そのことを思い出させてくれた。

 何にも代え難い、煌めきの感動を忘れたくなくて、こうして記録することにした。
 幸福で穏やかな半日を、家族の温かな時間に参加させてもらったことを、有り難く思う。少し一緒に過ごしただけなのに、たくさんのことを教えてもらった。とても元気を分けてもらえた。そういう相手を、友達と呼ぶのだろう。
 子どもであるから、大人として見守る義務はあるけれど、子ども扱いではなく人として接したいという思いを込めて、君たちを”さん付け”で呼んでいるのは、そういうことだ。
 君たちは小さいけれど、わたしの友達である。わたしはそう思っている。




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