【掌編】 薬指のまやかし
中指の付け根が痒い。
赤く腫れて、じんじんと痛む。季節外れの蚊だろうか。それにしては、ぷっくりと腫れすぎている。
指輪を買ってもらったのは、ほんの気まぐれだった。友達がしていた小さく華奢な指輪が、羨ましかった。だいたい、友達のつけているものは可愛く見える。アクセサリーの類は好きで、すぐ買ってしまうのもよくない。
「いいのよ、みさき。指は十本あるし、毎日違うのをつけたっていいんだから……」と語る彼女こそが、わたしの親友なのだから仕方がない。最近は、ジュエリーケースなんていうのを買っちゃって、少しずつ埋めるのが楽しく、時々取り出してはニヤついている。
すべてのアクセサリーを愛している。
300円のおもちゃみたいなやつも、5000円のピアスも、背伸びして買った二万円の指輪も。
だから、街へ繰り出せばアクセサリーをチェックするのは、もう習慣みたいなものだった。ひとりでも、親友でも。そして、文句の言わない恋人も、ついつい連れ回してしまう。
その日もいつもと同じ、ショーケースを覗き込む。見ているだけ、という日も多いのだけれど、今日は時間もあるし、給料日直後で少し気も大きくなっていたうえに、店員さんが絶妙なタイミングで「何かお取りましょうか?」と声をかけてきたので、「左上のやつを……」と頼んでしまった。
すうっと指にはめて、はっと息を呑む。
ああ、これはよくない。
アクセサリーとか、洋服ってどうしてなんだろう。見た目の可愛さと、身につけたときの可愛さが相反することがある。そう、「思っていたよりも」ってやつ。
指輪に関しては、本当にときどき、奇跡みたいに「手に馴染む」というのがある。すうっと、とけるみたいに。元からそこに、あったみたいに。しっくりと輝いて、まろやかな付け心地がする。
驚いて見つめる。一度外す。隣の指にも、反対の手にもつけてみる。感覚は変わらなかった。ああ、これは運命だ。
さっきまで黙っていた恋人に、「買ってやろうか?」と言われて驚いた。
そもそも「買ってやろうか」が口癖みたいなところがあって、シュークリームとか、雑誌とか、そういう小さなものは、わたしの手から奪ってレジへと運ばれたことは、数知れない。
それは時々、ちょっと良いアイシャドウとか、ワンピースとか、そういうものも買ってくれたりした。誕生日でもクリスマスでもないのに。だからわたしもお礼に、似合いそうなニットとか、欲しいと言っていた小説とかを、買って帰ったりする。そんな関係が心地よかった。
じいっと指輪を見つめてから、驚きを抑えて視線を上げる。指輪を買おう、と言われたのは、初めてだった。
わたしたちは、会社の同僚の結婚式だとか、地元の友達の出産祝いをどうするかとか、そんな話題が増えていたことにも気がついている。うちは早々に姉が結婚・出産しているのでうるさく言われることはなかったけれど、彼の親から「結婚」というワードが出ていることは、見て見ぬフリをしていた。彼も何も言わなかった。甘えていた。自覚がある。
きっと、この男と結婚するのだろう。この年齢になって、誰かと新しい人間関係を築くのは面倒だし、一緒にいて心地の良い人だった。お互いの趣味と時間を拘束せず、そういえばいくら稼いでいるのかも知らない。自分が稼いだお金は、自分で使うのだから、あまり興味もなかった。
でも、結婚するというとそうも言っていられないのだろうか。伯母のセリフが、今でも忘れられない。「結婚しないの?って散々言われてさ……結婚したら、これで平和に暮らせるって思ってたんだけど。その次は、子供はまだかってさ……うるさいったらありゃあしないよ」
結婚したら、毎日晩ごはんを一緒に食べなければいけないのだろうか。結婚した友達は、みんな夜に遊んでくれなくなった。わたしは、自由を失うのだろうか。
自由でいたいのであれば、結婚しなければいい。自分の稼ぎだけで、今の暮らしは充分だ。姉は家を出ているので、実家はわたしが継げる。不安は尽きない。けど、心配はないだろう。
孤独死という言葉を聞くとギョッとしなくもないけれど、わたしが老人になることは、見守りサービスももっと発達しているだろう。老人ばかりになるんだもの、老人に優しい世界になっていると信じたい。
そんな話を誰かにすれば、「佐々木君がいるんだから」って笑い飛ばされる。
佐々木君は、いつまでわたしの恋人でいてくれるんだろうか。
結婚すれば、ずっと一緒にいられるだろうか。いや、結婚してもどちらかは先に死ぬ。
結婚すれば、こんな堂々巡りの悩みから、少しくらいは抜け出せるだろうか……いや、それもまやかしだ。事実は変わらない。永遠なんてどこにもない。佐々木君の親に会う覚悟もなければ、自分が親になる覚悟もない。今が楽しい。この生活は、いつか失われるのだろうか。結婚する、あるいは結婚しないと、終わってしまうのだろうか。このまま、佐々木君と楽しく過ごしたいだけなのに。
「買ってやるよ」と佐々木君はもう一度言った。
「……ほんとうに?」
頷く代わりに、わたしの手から指輪を抜き去り、レジへと向かって行った。
神様、佐々木君のことが好きです。出来る限り、彼と楽しい時間を過ごしたい。この気持ちに、偽りはないんです。どうか、信じてください。
「そのままでいいです」と告げて受け取った指輪を、左手の中指に嵌めた。
「ありがとう」と微笑んだあとの佐々木君の顔がいつも通りで、なんだか泣けた。
中指の付け根が、今日も痛い。
昨日、虫刺されの薬を塗ったのに、まだ痒い。「年々、傷の治りが遅くなってさあ」友達の声が、耳元で響く。こういうことか。
中指の、ちょうど指輪の当たる位置で、もう痛くて痒くて仕方がないので、一度外した。それから少し考えて、薬指に嵌めてみた。
ただ、それだけのことだった。指輪が、左手の薬指にある。中指の付け根はぷっくりと腫れていて、指輪という異物がなくなったのでずいぶんとすっきりとした気がした。
ああ、やっぱり運命の指輪だ。
今日はこのあと、佐々木君とご飯を食べることになっている。
薬指の指輪に、彼は気がつくだろうか。いや、それは少しずるい気がする。話さなくては。あなたとずっと一緒にいたいのだと。でも、結婚やら出産やら、将来のことを考えれば考えるほど苦しくなることを。どこかで、あなたを孤独の言い訳に使おうとしていた自分のことを。
何より、今のあなたとの暮らしが、過不足なく幸福だと。これからも時々、薬指に指輪をするかもしれない。それには深い意味はないけれど、きっとあなたからもらった指輪だけだって……
あまりのわがままさに、あなたは驚くだろうか。
でもきっと、多分だけれど、少し安心した顔をするような気がする。なんとなくだけど。佐々木君のそういう、素直なところが好きなのだと思う。
これからもわたしたちの速度で、わたしたちの安心を貫いていきたい。
そう、これはわたしたちの物語なのだ。
▼彼の話
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