エロを小さじ1 《第三話》
《第三話》冬美にかけられた魔法「お姉ちゃん、騙されたと思って、絶対に講習会に行ってみて。私なんか、帰りの電車の中ですぐに声をかけられたんだよ。セールス以外で男に声かけられたのなんて、人生初だから」
春香の妹、冬美がそう言ったのが一週間前。
ここ最近、いやに冬美が浮き足だってるなぁとは思っていた。
子供の頃から「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と金魚のふんのようにくっついてきた冬美は、大学を卒業したとたん当たり前のように春香のマンションに引っ越してきた。
親元を離れての同居生活。料理や掃除が苦手な春香にとって、家事全般を引き受けてくれる三歳年下の冬美は便利な存在でもあったから、同居そのものに不満はなかった。
その冬美が、最近、髪を巻きメイクを入念にするようになった。服装の趣味も変わった。部屋着のようなぶかぶかの服で勤め先の市役所に行くような女だったのに、身体の線が出るタイトスカートを着るようになっていた。帰宅時間も遅くなった。
漫画やゲームが趣味で、一人で遊ぶのが好き。お洒落にも無関心で「私なんか」が口癖の自己評価の低い妹だったから、その変わりように、男だなとピンときた。
「冬美、あんた、彼氏でもできたの?」
一週間前の夜、ダイニングテーブルでビールを飲んでいた春香は、深夜に帰宅した冬美に訊いた。
桜が咲き始めたというのに冷え込んだ夜だった。帰宅した冬美の頬は、上気した様にほんのりとピンク色だった。
「あっ、バレちゃった。ふふふ、そうだよ、私ね、恋人ができたんだよ」
冬美は弾けるような笑顔でそう答えながら、春香の向かいに座った。
冬美の爪は春らしい桜色に塗られており、薬指の爪にだけ小さなパールが付いていた。冬美がアートネイルするなんて。春香は驚きながら、冬美の顔とネイルを交互に見た。
へぇ、良かったね、彼氏はどんな人? と春香が訊こうとしたそのとき、冬美が笑顔のままで不思議なことを告げた。
「エロティックの素のおかげなの。お姉ちゃん、魔法だよ。魔法の液体なの。それをシュッシュッってかけるとね、私なんかでも、色気が出てモテるようになるんだよ」
春香は冬美の顔を見つめた。
カレーの素でもプリンの素でもない、エロティックの素と言った冬美は、得意気に笑っている。
「はぁ? エロティック? 何、それ? 」
妹に恋人が出来たことを祝福する気分が吹っ飛んだ。
冬美は嬉々として『モテる女になる! エロティックへの最短距離』という講習会の説明を始めた。
まるでお料理教室の様に肉じゃがを作るところから始まって、肉じゃがを作りながら女に必要なのものは色気だという説明がある、そしてエロティックの素をサービスで小さじ一杯分かけてくれる、その帰り道に、あら不思議、男に声をかけられて、カップルが誕生する。冬美の話を要約するとこうだった。
春香は、眉間に皺を寄せたまま、冬美の話を聞き終わった。
「冬美、それ、あんたの好きな漫画の世界みたいだよね」
冬美はときどき自分が夢中になっている漫画や映画の筋を説明する。そのほとんどが、ある日突然異世界に飛んでいったり、違う動物に生まれ変わったり、といったファンタジー要素の強い物語だ。冬美は、非現実の世界が大好きなのだ。
「魔法? 魔法の液体? 現実にそんなものあるはずないでしょう。嘘に決まってる」
春香は上半身をテーブルの上に乗り出すようにして言った。テーブルが揺れて、グラスに入っていたビールがこぼれた。
「でも、お姉ちゃん、私、ヒロシくんに声をかけられたよ。現実に恋人ができたもん」
彼氏の名前はヒロシらしい。
口を尖らせた冬美の顔は、小学生のときから全く変わらないように見えた。母親に怒られたとき、よくこんな表情をしてたっけ。
「偶然でしょ。たまたまよ。冬美がそのヒロシくんとやらに会ったのは、講習会のおかげでも、そのエロティックの素のおかげでもない。たまたま、その日だったのよ」
春香は、ダイニングテーブルの向いに座る冬美に諭すように言った。
「冬美、あんたは、顔も可愛いし、性格もおっとりしてて好感度が高いの。少しだけ自信をつけたら、いくらでもモテるの。だから、その講習会でセクシーになってモテますよって暗示をかけられて、自信を持ったとたんに声をかけられた。それだけのことだと思うよ」
「お姉ちゃんは、分かってないんだよ。お姉ちゃんみたいに美人だと声をかけられることは当たり前かもしれないけど、私には奇跡なの。奇跡があの日に起きたの」
冬美がまた口を尖らせて言う。
春香はわざと大きなため息をついた。
「そもそも、セクシーになったらモテるって話がおかしいわよね。女の魅力はそれだけか? ってムカつくし。まさか、冬美、そのエロティックの素っていうの買ってないわよね?」
冬美は一瞬視線を泳がせてから、開き直ったように言った。
「買ったよ、もちろん。最初はね、特別価格の一万円なの。半額なの。その後は二万円だけどね」
「まさか、その後も?」
「うん。買ったよ。だって、あのエロティックの素、つけないと効果が無くなるから。あれね、瓶が小さくて少ししか入ってないの。だからね、五本まとめ買いしたの」
「五本って、一本二万円で、まさかの十万円!」
「そうよ。でもね、お姉ちゃん。それだけの価値があるから。これからも買うよ」
自慢じゃないけれど私たち姉妹はしっかりとした経済観念を持っている、と春香は今まで思っていた。言い方を変えると、ケチだ。家賃も生活費も、一円単位まできっちりと折半している。そのケチが、エロティックの素だかなんだか訳の分からない物に十万円も費やしているなんて。
「でもさ、冬美、彼氏ができたのなら、もうそのエロティックの素っていう怪しい物は、いらないでしょ?」
「お姉ちゃん、なんで分からないの? つけてないと効果がなくなるんだよ。色気がなくなるの。魅力がなくなったら、フラれるでしょ?」
「いや、だから、最初っから効果はないって」
「でも、いろんな人に、冬美ちゃん、最近変わったねって言われるよ」
「それは彼氏ができたからでしょ」
「お姉ちゃん!」
冬美が大きな声を出した。そして自分の声にびっくりしたような顔をする。そういう子だった。大きな声で人と争うことがない子。
冬美は、深呼吸をするように息を吸って、静かに言った。
「お姉ちゃん、効果はあるのよ」
「じゃあ、冬美、そのエロティックの素、私に貸して。私がそれをつけて、誰にも声をかけられなかったら、効果なんてないという証明になるでしょ?」
冬美は残念そうに首を振った。
「それは出来ないの。私のエロティックの素は、お姉ちゃんに貸せないの」
「は? なんで? ケチ」
「私のエロティックの素は、対ヒロシくん用に調合されてるんだよ。万人向けじゃないの」
「なにそれ?」
冬美は、いま推しの漫画のストーリーを語るように、エロティックの素について熱を込めて説明する。
「最初の一万円のはね、万人向けだったの。それを講習会で小さじ一杯分かけてもらって、ヒロシくんと出会ったでしょ。それから、ヒロシくんともっともっと仲良く深く付き合うために、エロティックの素をね、個人に集中特化した配合にしてもらったの。特別な配合の、私だけのエロティックの素なの」
ますます怪しさが濃厚になってきた。
二万円。二万円。二万円。春香の頭の中では、価格がずっとこだましている。
「お姉ちゃん、だからね、私のエロティックの素はお姉ちゃんは使えない。使っても効果が出ないの」
冬美は一枚の紙を春香に差し出した。
「お姉ちゃん、あとね、このエロティックの素に興味を持った家族や友達がいたら、まずこの講習会に参加するように言って下さい、誘って下さいって言われたの」
紙には『モテる女になる! エロティックへの最短距離』と書いてあった。
典型的な騙しのテクニック。カモを芋づる式に釣るつもりだろう。
「お姉ちゃんさ、顔は美人だけど中身はおっさんってよく人に言われるでしょ? だから、そうよ、お姉ちゃんもエロティックの素をつけるべきなのよ」
「はぁ?」
「お姉ちゃん、恋人はすぐにできるけど、女らしくないって、いつもフラれるでしょ」
「あのね、今の時代にね、女らしいとか男らしいとか、そういうことを言う奴は、こっちからお断りなの」
「うん、そうだけど。そういうことを口に出さない人も、きっと心の中で言ってるよ。お姉ちゃんの中身はおっさんだって」
冬美はとても静かに、とても嫌なことを言う。
中身はおっさん、人は私を見てそう思っているのだろうか。春香は、テーブルの上のビール缶と柿の種を見ながら黙った。
「お姉ちゃん、騙されたと思って、絶対に講習会に行ってみて。私なんか、帰りの電車の中ですぐに声をかけられたんだよ。セールス以外で男に声かけられたのなんて、人生初だから」
春香は舌打ちをした。中身はおっさんだから、舌打ちは得意だ。
「講習会は無料なのね。参加するだけならタダなのね」
冬美が頷くのを見て、春香はビールの残りを一気に飲んだ。
「オッケー、行ってみるよ。そして、そのエロティックの素には何も効果がない、詐欺だってことを証明してあげる」
