自分の感性をさらけ出す恐怖
過去を振り返って
私は随分と長い間、自分の感性をさらけ出すことを恐れていたと思う。
もしかしたら今もかもしれない。
例えば、学生の国語の時間。
説いた問題の解答を先生に回答するようにクラスメートみんなの前であてられることがあったと思う。自分はそんな時、頭が真っ白になって何も考えられなくなり答えることができなくなった。自分で書いた答えは、ノートの上にあるはずなのに。ただそれを読めばいいだけなのに。
なんでそんなに怯えてた?
国語は他の教科と違って「これ!」という正解が必ずしもあるわけじゃない。だからこそ、そこには自分の感じ方が、考え方が、感性が宿ってるって思っている。当時の私も、「この人ってこういうこと考えてるんだ」って周りに驚かれたくないっていう心理が働いて何も答えられなくなっていたのかもしれない。特に、普段自分と関わりのない人たちに。
直接人とコミュニケーションをとって相手に何かを思われること自体は気にならなかった。自分は自分だから、どう思われてもいいって。(もちろん人を傷つける事は違う)
なのに、自分の感性をのせた解答を第三者に聞かせることだけはためらわれた。多分、自分のことをよく知りもしない人達に、そんな他人に、自分は変なことを思われたくなかったのだ。直接会話をしてるわけじゃないんだから、そんな間接的な状況では、どう思われるかなんて自分でコントロールできないじゃない。
自分の生み出した文章だけに、独り歩きをさせる自信がなかったんだと思う。自分のイメージを任せたくなかったのだ。他人の脳内で私という人間が私の文章のせいで誤解されることに恐怖を抱いていたのだ。(結局自分なんて他人からのイメージでできているのになんておこがましいんだ、と思うが笑)
まあ、それ以降何か言葉を書くときは、常に当たり障りがない言葉を選び取って書くようにしていた。自分が第三者としてその文章を読んだとしても、不快感とか好奇の目を向けないような当たり障りのない言葉。(書いている内容が当たり障りないものかは別の話だが)
正直未だに書き物の種類によっては、全く書き方がわからず伝えたいことがあっても書き進められないことがある。
ちょうど日本人で言う『英語』みたいなものかもしれない。言葉なんてただの伝える手段でしかないのに、”この言葉を使っちゃったらどう思われるんだろう、変って思われないかな”、とか気になっちゃって伝えたいことがあっても書けない、話せない、といったように。
気付いたらその感性のおかげで目指すようになっていた未来

そんな私も自分の感性は人によっては珍しい、面白い、って言ってくれる人がいることを知って、むしろこの感性は表に出したほうがいいのかもしれないといつの間にか思えるようになった。
そこからはどうやってこの自分の感性を表現しよう、と探し続けている毎日だ。社会人になる前は、「自分の感性を効率的に表す手段、それはビジネスだ!」なーんて、そう答えを出したのに。
今はいろんな選択肢を勝手に自分で掘り起こしてしまい、1人迷路でさまよっている。もしかしたら、言葉かもしれないし、動画かもしれない。いや、写真とか映画?もしかしたらインテリアとかかも。
自分のプライオリティが決めれていない事に原因があるのはわかっている。
というよりプライオリティが揺らいだ結果だということに。
手に掴む未来像

一体どんな人生を自分は築き上げるんだろうか。
なんにしても、360度、見渡す限りいろーんな色で
自分の人生を彩りたいな。
そこは何の境目も垣根もないどこまでも行き止まりがない世界。
