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新聞小説の読者はどこに? 多和田葉子✖️読売新聞

多和田葉子が新聞連載、それも読売? 2年前のちょうど今頃、このニュースを聞いてへぇ、読売に連載ねぇー、、、と思いました。その連載がこの10月、『研修生』として本になりました。1年をゆうに超える*連載だった? 長い! 本は520ページあります。(中央公論新社 、2025/10/21)
タイトル画像:多和田葉子『研修生』扉ページ(amazonサンプル)

そもそも多和田葉子✖️新聞連載というのが意外だったし。いや、読売の前に、朝日新聞で『白鶴亮翅』を連載していた(2022年)とのことなので、今回で2回目、それも『研修生』のスタートが2023年なので2年連続ということになります。これも意外。

わたしのもっている読売新聞のイメージ(保守層向け、大衆的)でいうと、多和田葉子の小説を連載というのはかなりミスマッチに見えました。でも逆に、読売新聞の読者層に対して、この作家が何をどのように書くかに興味が沸きました。

そんな興味でこの本を買って読む人がいるのかわかりませんが、わたしにとっては一つのポイントでした。多和田さんの(ここから急にさんづけ)小説やエッセイ集は多分全出版物の8、9割程度は読んできたと思います。葉っぱの坑夫のスタート当時、多和田さんのエッセイを英訳してサイトに掲載させてもらったこともあります。それくらい馴染み深い作家です。

『研修生』は、半自伝的な小説と言われているように、日本の大学を卒業した主人公(わたし)が、ハンブルグの書籍取引会社で仕事をするところから始まります。日本を発ってドイツに着くまでの間、インドなどをバックパックで旅したとあって、ここはほぼ実体験に沿っていると思われます。

新宿区にある大学の文学部を卒業し、卒業式も待たずに二月に辛子色の木綿のリュックサックを背負ってインドに旅立ち、二十二歳の誕生日にはパトナの駅でムンバイ行きの切符を買うために灼熱の下、長い列に並んでいた。ムンバイから飛行機でローマに飛び、そこからアドリア海に出て、ザグレブ、ベオグラード、ミュンヘンなどを旅し、北ドイツのこの港町に着いたのが昨日の日曜日。家を出てすでに二ヶ月が経過していた。

多和田葉子著『研修生』より

こちらは葉っぱの坑夫サイト(旧)の多和田さんのプロフィールページ。多和田葉子のエッセイ集『カタコトのうわごと』(1999年、青土社)を参考に書いたものです。ほぼ小説『研修生』の主人公の履歴と重なっているのがわかります。

そんなわけで、わたしはどこか多和田さんの自伝を読むような気分で、この小説を読んでいました。とはいえ、これは小説、ノンフィクションではありません。ここのところも二つ目の興味になりました。実体験をどのように小説化しているのか、という。作家をよく知る人間にとっては、スリリングなところがあります。フィクションと実体験の狭間、あるいは境界はどうなっているのか。

一つ目の興味、読売新聞に多和田葉子が何をどのように書くか、対象となる読者をどう捉えて書くか、という視点は読んでいる間にときどき「やはり!」という思いにつながりました。

読売新聞の読者層として、先ほど「保守的、大衆的」と書きましたが、それ以外に(これは読売に限りませんが)そもそも新聞を読む人の年齢層はかなり高いのでは、ということ。

それに気づいたのは、小説のスタートが1980年代初頭だったから。時代背景的に、登場する様々な物品や当時はやっていた本の題名とか、当時使われていた言葉だとか、行動パターン、そういったものが、年配者が読者だとするとピタリとはまりそうなのです。いま70、80代〜の人も、1980年代には30、40代くらいだったとすれば、小説の時代設定として「我らの時代」感が出せるだろうと思いました。作家が狙っていたかどうかは別にして。

ただし1980年代のドイツと当時の日本には誤差(時差)があります。たとえば会社の社員食堂のメニューが週2回は菜食メニューで、同僚の女性たちはその日しかそこで食べません。彼女たちは肉を食べない。これについて主人公は次のように書いています。

(森鴎外の『妄想』では)肉を主食にするヨーロッパと、肉をあまり食べない日本を対比させている。今の時代はすでにそれが逆転しかけている。わたしは日本では肉を食べない、などと公言する人は見たこともなかったが、この町に来てすでに何人かの菜食主義者と出会っている。

多和田葉子著『研修生』より

これが40年後の今であれば、日本もこれに近いものがあるかもしれませんが、当時は差があった。でもいまこの小説を読むのであれば、どんな年代の人でも菜食主義について知っているから問題なさそう。

小説の中に「おかず」という言葉が出てきて、あ、最近聞かない言葉と思いました。

母も毎日買い物に行っていた。夕方が近づいてくると、今日のおかずは何にしようか、とつぶやいていた。「おかず」という言葉が懐かしい。わたしも「おかず」が食べたい。内容は何でもいい。いかにも「おかず」だと思えるものをご飯といっしょに食べたい。

多和田葉子著『研修生』より

知らないということはないけれど、でも昔風の懐かしさのある言葉のように感じました。ご飯とおかず、という対になった言葉として。その場合、「おかずは何?」と訊く人はいるかもしれませんが、、、あれ、いるかな。括りとしておおざっぱ過ぎる気がします。あるいは一汁一菜のイメージか。

読売新聞の読者がやや保守的、昔の日本人的だとすれば、小説の主人公の設定が、多和田葉子本人よりかなり日本人の典型寄りに描かれていたとしてもおかしくはありません。たとえば会社にクーラーを入れるかどうかという話が出たときに、主人公は課長から意見を聞かれて戸惑います。

課長がわたしの顔を見て、
「あなたの意見は?」
 と尋ねた。わたしはすっかり傍観者になりきっていたので意見を訊かれたことに驚いた。もっと驚いたのは、自分の頭の中をのぞいてみると、意見らしい意見が何も見つからないことだった。クーラーがあればその涼しさにあやかり、なければ暑さを我慢する。そのように運命に身を委ねて文句も言わずにこれまで生きてきたような気がする。

多和田葉子著『研修生』より

この人物像はある意味、典型的な日本人といってもよさそう。いまでもこのタイプの人はいるし、それが海外に出るとより目立つかもしれません。小説のこの場面で、同僚たちは口々にいろんな持論をぶちまけます。クーラーが嫌い、クーラー購入は絶対反対、クーラーは涼しい気がするだけで本当は全然涼しくない、などなど。

あとこの小説がユニークなのは、1980年代が現時点として進行していく中で、40年後にはこうだった、ああなった、という説明がスルッと出てくること。あまりこういうの読んだことがないような。(もしこれが自伝であれば、1980年代のことは「現時点から見た過去」として描かれると思うので、作家が現在進行形の過去を書きたい場合は、どうしても小説になるのかも?)

それともう一つの特徴として、登場人物の紹介が最初だけでなく、2度目に名前が出たときにもあること。それがほぼ同じ文章(の印象)で、「どこそこで知り合ったこういう人」という説明が添えられています。あれ、ここもう前に読んだような、、、と勘違いしてしまいそうになります。が、この説明は(こちらも誰だったか忘れているので)有効ではあります。

あとで気づいたのは、これは新聞小説だからではないかということ。長い連載の中で、読者はある回をとばすこともあるでしょうし。そのとき、この人誰?とならないように。書籍にするとき、それを外すこともできたでしょうが、あえてしていないのかも。

ここまで書いてきて、小説の読み方、あるいは感想として(目のつけどころが)かなり変かも、と思いました。書評ではない、ですね。じゃあ何?

ところでGoogleで「『研修生』 読売新聞 連載いつまで」と検索していたら、Yahoo!知恵袋が上位に出てきて、質問内容を読んで驚きました。知恵袋は個人的には何かというと出会うサイトなので、それもあって驚きはなおのこと。
「話に進展が無く全く面白く無い。いつまで続きますか?」というものでした。んんんーーー。進展がないかなぁ? ある意味そうかもしれませんが。半自伝的ではあるけれど、ストーリーで読ませる小説ではないとは言えます。

この読者は、『研修生』を連載中に読んでいて、いつまで続くのかと訊いているのでしょう。読売新聞の読者の方ですね。どうも相性が悪そうです。同じく知恵袋サイトで主人公の性別がわからない、という質問があり、これにもびっくりしました。女だと思っていたら、女性の恋人らしい人が出てきたので、主人公は女じゃなくて男かなと思ったというのです。ワォ。ベストアンサーの人も、男性か?という疑問を持ったようです。ウワァ。

このあたりの人々が読者の中心層だとすると、読売の連載はハズレだった可能性もあります。わたしから見ると、多和田さんはいつもより「一般の人」に身を寄せて書いているように見えるのですが、それでもかなり遠いということか。通常の多和田さんの小説の主人公や登場人物は、意識高い系ということではなく、生き方や考え方が一般社会から奇妙に(面白く)ズレているから。

おそらく『研修生』の前に出た、『太陽諸島』を含む3部作あたりだと、読売の読者には、さらにさらに遠い話になってしまいそう。想像するに、作家は書き下ろしや文芸誌に書く場合と違って、新聞に連載小説を書くときは、それなりに読み手のことを考えると思うのです。

新聞連載ということでいうと、新聞は中学生以上なら読める、という基準だと聞いたことがあります。中学生から年配者までが読む可能性があって、自ら選んでというわけでなく、新聞に載っているから読むという人々、が想定の範囲内になるでしょうか。

その意味で、たとえば性描写の程度とか、暴力の描写にはおそらく規定なり基準なりがありそうです(日経は別か?)。『研修生』には女性同士の性的な交流が、文学的に描かれている場面がいくつかあります。恋人間の心理の葛藤も含め、いまの中学生であれば理解可能かなと思います。彼らにとって、もしかしたら直接的な描写よりかえってエロティックに見える可能性も。

この小説の主人公は日本生まれ・育ちの日本人ですが、他に登場する日本人がほぼいません。1、2人いた場合も、一度出会って終わりのような関係で。つまり会社の同僚や上司、よく行くパブの主人、友だちの友だち的に知り合った人々の多くはドイツ人、もしくはヨーロッパのどこかの国からやって来た人たちです。そのような人々と主人公は実にまめに、喜んで、親しく付き合って友だちの輪を広げていきます。招かれれば即行くし、成りゆきでそこに泊まることにもしばしば。

この小説では人と人の関係性が主人公の心理を通して詳細に書かれていて、それは一般的な人と人との関係でもあり、日本人とドイツ人、あるいは他の国の人との関係としても見ることができ、この小説の醍醐味の一つのようにも思えます。正直でくだらなくもある細部、あるいは人のリアルとはこんなものかという。

いわゆる「日本人と外国人の違い」といったことを超えた、人と人の深い、あるいは浅い交流とその詳細を知ることができました。これはひょっとしたら、半自伝的小説というスタイルと関係があるのかもしれません。

*1年をゆうに超える連載:読売新聞朝刊で2023年11月25日〜2025年3月11日の連載だった。AIの計算によると全473日。 通常新聞連載は100〜300回くらいの長さのようなので、この小説はやはり長い部類に入るでしょう。この計算でいくと、テキストは50万から70万字あたりの文字数だったと想定できます。

*たまたま今、海外の自伝的な小説を読んでいます。キュラソーというカリブ海の小さな島国の作家の書いたもので、タイトルは『The House of Six Doors』。自伝的小説と説明にありました。この作家は当初、回想録を書こうとしていたそうですが、すぐにこの方法では自分が感じたことの真実を書ききれないと気づいた、と本の冒頭(Introduction)で綴っていました。小説という形式を選んだのはそのためであると。また自分の人生を取り巻く人々の視野、視点も作品に取り入れたいと思った、つまり自分の視点のみから書くのではなく。小説であればそれが可能だからと。

起きたことを率直に書くにしても、ほぼ内容は事実に即していたとしても、回想録や自伝にしないで小説として書く。なるほどと思いました。おそらく自伝と小説の間の境界線とは、それが実際に起きたことかどうか否かではない、文学としての違うレベルの境界線があるのかもしれません。


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