詩人が見た<ポーの真実> ⓷ ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ
評論集『アメリカの始まり』(In the American Grain、1925年/W.C.ウィリアムズ)から「エドガー・アラン・ポー」を抜粋、翻訳しています。
W.C.ウィリアムズはアメリカの詩人(1883 - 1963)。エドガー・アラン・ポーは、アメリカの小説家、詩人、評論家(1809 - 1848)。アメリカの歴史(その土壌や気質)をめぐる評論集の中で、唯一取り上げられている専業作家がエドガー・アラン・ポー。モダニストの詩人によるポー異説を解読します。
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*日本語訳の下に英語原文と、ChatGPTとの会話または解説あり。
エドガー・アラン・ポー ⓷
ポーのこの言い分(アメリカ文学における「始まり」の大切さ)は注目に値する。「数学的な厳密さ」という鮮やかな切り口に加えて、「我々」つまり「アメリカ人である私たち」という地元(ローカリティ)意識を表しているからだ。ポーの評論「グリスウォルド氏と詩人たち*」に次のような文章がある。
我々アメリカ人は、詩的ではないと言われ続けてきた。アメリカ国内でも海外でも、辛辣な口調で。その執拗な繰り返しによって、真実であるかのように受け取られてきた。しかしこれほど事実からかけ離れたものはない。この誤りは、数学的能力は想像力とは対立するもの、という古い教義の一部、あるいはその解釈から来るものだ。実際にはこの二つの心理要素は、完璧には二分できないと言えるのではないか。想像的知性の最高位とは常に、数学的な厳密さにあり、またその逆も真である。
ローウェル、ブライアント*は、詩を文学として扱ったが、ポーは詩を魂そのものであると考えていた。そのため言語をいかに使うかにおいて、両者の着想には違いがあった。ポーにとって言葉は、過去の大家たちの心地よい余韻や慣習と結びつけられるものではなかった。それでは出発点で、感傷の落とし穴にはまることになる。
ポーにとって言葉は「図象・形象(figures)」である。英語は古く伝統ある言語ではあるが、彼はそこから最も基本的、根源的な要素だけを抜き出し、自らの新しい目的のために利用した。その目的とは、自分の魂を語る方法を見つけることである。ときにポーは言葉をあまりに奔放に、遊戯的に使うため、文の意味が壊れたり、意味からはみ出しているように見えることがある。意味の放棄を押しとどめつつも、なお破壊している! ガートルード・スタイン*の予兆のように。
言語の粒子(最小単位)は砂のように粒だって独立している必要がある(ポーのエッセイ「ペテン術*」を見よ)。これはポーの時代の粘着質で明快さに欠ける想像力には、到底理解できない考えであった。ポーは常に、未熟で慣習的な言葉の塊から「何か」を切り離そうと労力をかけた。これこそがポーの関心ごとであり、批判するときの核心部分、手垢のついた言語習慣から自らの言葉を切り離すやり方だった。これは彼の批評における9割をしめる仕事と言っていい。
ポーは自分の身の回りに溢れる形式や内容の「愚かしさ(仏:niaiseries)」を打ちこわした。それはマシンガンの掃射のようだった(ルーファス・ドーズ*に対する批評など)。ポーは「構築」に力点を置くことで、散漫でまとまりのない(手垢のついた)言語の塊を退けようとした。たとえ冷たい表現という代償を払っても。これこそがポーの時代に第一に求められていることだった。彼が嫌っていた形式のない言葉の塊=言語空間、言語的混乱から逃れることである。
*ポーの評論「グリスウォルド氏と詩人たち*」:アメリカの出版者、編集者、評論家、ルーファス・ウィルモット・グリスウォルド(1815〜1857年)の編集によるアンソロジー『アメリカの詩人と詩』に対するポーの論評(反論)が引用されている(1842年、Graham’s Magazineに掲載)。グリスウォルドは様々な点でポーとは敵対関係にあったようだ。この人物がポーの死後に書いた真偽不明の回想録が、ポーの悪評を広める元になったと言われている。
*ガートルード・スタイン:アメリカの作家、詩人、現代美術収集家(1874〜1946年)。シャーウッド・アンダーソンはスタインの作品を「言葉の町の中で人生を再建し、全く新しく鋳直す」と描写している。
*ペテン術(Diddling):精密科学から見たペテン術
「Diddling(ペテン術)」は1843年に発表されたポーのエッセイ。このエッセイの中でポーは、diddlingあるいはdiddleという動詞の概念を定義するには、この言葉そのものを定義するのではなく、「diddlingする動物」それを人間とすれば、かなり明確な概念が得られるとしている。人間はdiddleするが、人間以外の動物はdiddleしないといった。「diddling」は19 世紀に生まれた俗語で、ジェームズ・ケニーの 1803 年の劇「Raising the Wind」に登場するジェレミー・ディドラー(Jeremy Diddler)という人物に由来している。
*ルーファス・ドーズ:19世紀アメリカの詩人(1803〜1859年)。ポーに酷評された人物として知られている。ウィリアムズは「ポーの辛辣な批評の標的の一つ」として この人物を挙げている。
訳:葉っぱの坑夫 with ChatGPT
EDGAR ALLAN POE ⓷
The whole passage is noteworthy not only for the brilliance of such a statement as that, but also because of its use of the provincial “we”? (Mr. Griswold and the Poets) : “That we are not a poetical people has been asserted so often and so roundly, both at home and abroad that the slander, through mere dint of repetition, has come to be received as truth. Yet nothing can be farther removed from it. The mistake is but a portion, or corollary, of the old dogma, that the calculating faculties are at war with the ideal ; while, in fact, it may be demonstrated that the two divisions of mental power are never to be found in perfection apart. The highest order of the imaginative intellect is always preéminently mathematical; and the converse.” Lowell, Bryant, etc., concerned poetry with literature, Poe concerned it with the soul; hence their differing conceptions of the use of language. With Poe, words were not hung by usage with associations, the pleasing wraiths of former masteries, this is the sentimental trap-door to beginnings. With Poe words were figures; an old language truly, but one from which he carried over only the most elemental qualities to his new purpose; which was, to find a way to tell his soul. Sometimes he used words so playfully his sentences seem to fly away from sense, the destructive! with the conserving abandon, foreshadowed, of a Gertrude Stein. The particles of language must be clear as sand. (See Diddling.) This was an impossible conception for the gluey imagination of his day. Constantly he labored to detach something from the inchoate mass―That’s it: His concern, the apex of his immaculate attack, was to detach a “method” from the smear of common usage―it is the work of nine tenths of his criticism. He struck to lay low the “niaiseries” of form and content with which his world abounded. It was a machine-gun fire; even in the slaughter of banality he rises to a merciless distinction. (See Rufus Dawes.) He sought by stress upon construction to hold the loose-strung mass off even at the cost of an icy coldness of appearance; it was the first need of his time, an escape from the formless mass he hated.
ChatGPTとの会話
ChatGPT:ご質問ですが、この provincial “we” を「田舎臭い“われわれ”」と訳すか、「地方的な“われわれ”」と訳すか、それとも「まだ未成熟な“われわれ”」と柔らかく訳すか、ニュアンスを調整した方がよさそうです。どの方向がお好みですか?
葉っぱの坑夫:「アメリカ人である私たち」というローカリティの強い意識、と受け取りました。田舎臭いというニュアンスがあるかどうか、ヨーロッパの国に対して、そのような劣等感は多少はあったのでしょうか?
ChatGPT:ウィリアム・カルロス・ウィリアムズがここで provincial “we” と言うとき、そこには二重のニュアンスがあります。
1. ローカリティの強調
「アメリカ人である私たち」という自覚。 → ポーが “we” を使うとき、それは アメリカという土地に根差した文学を意識する姿勢 です。ウィリアムズにとってもこれは非常に重要で、彼自身の「In the American Grain(アメリカの土壌に根ざした文学を探る試み)」のテーマにも合致します。
*文学を探る試みではなく、アメリカの起源を探る試み。
2. 「provincial」の含意(劣等感と誇りの混在)
「provincial」には単純に「地方的」という意味のほか、ヨーロッパから見たときの 「田舎者っぽい」「未熟な」 という響きがあります。 19世紀半ばのアメリカ文学は、まだヨーロッパ(とりわけイギリスやフランス)に比べると「後発」「二流」と見られることが多く、アメリカ人自身もそういう劣等感を意識していました。
→ なので、ウィリアムズはここで「provincial “we”」と呼ぶことで、
・まだ田舎っぽく見えるかもしれない“われわれ”
・しかし、その「地方性」を逆に独自性の源にできる“われわれ” という両義性を示しているわけです。
葉っぱの坑夫:言語の独立性について述べているところで、ウィリアムズは「Diddling」を参照させていますが、この二つにはどんな関係があるのでしょう。
ChatGPT:ポーは言葉を曖昧な連続体(“the inchoate mass”)から切り離し、それぞれの「粒子」として明晰に見ようとした。その精神は、『Diddling』に見られるような「微細な単位への観察」や「論理的分解」への情熱と同じである。思考の中に通底する「精密な分解と明晰化の衝動」の例として、あの奇妙なエッセイを引いているのです。
ChatGPT
the destructive! with the conserving abandon=破壊的でありながら、同時に保存的でもある放縦さ
葉っぱの坑夫:なるほど。二つの相反するものを同時にですね。「意味の放棄を押しとどめつつも、なお破壊する!」 つまりconserve=保存する、押しとどめる、という解釈はどうでしょう。
ChatGPT:conserve を「保存する」だけでなく「押しとどめる」と解釈することで、
「放棄=意味の手放し」
「保存=完全に手放さず、残している」
という二重性が出せます。
したがって、
「意味の放棄を押しとどめつつも、なお破壊する!」
という訳は、英語原文の逆説的で緊張感あるニュアンスをよく捉えています。
ウィリアムズがここで感じ取っているのは、ポーの文体における「壊すことによって新しいものを生む」ダイナミズムなので、まさに「conserve」と「destructive」の両立を意識した解釈がぴったりです。
葉っぱの坑夫:「言葉を単なる慣用や記号としてではなく、目に見える形やイメージを持った存在として扱った。」という部分ですが、これはウィリアムズの詩作の方法と少し似ていますか? 写象主義のような。
ChatGPT:まさにウィリアムズの詩作(特に「写実主義」「イマジズム/オブジェクティビズム」的な方法)と重なります。
ウィリアムズは “No ideas but in things”(「事物の中にしか思想はない」)という有名なモットーを掲げ、言葉を抽象的な意味の伝達手段としてではなく、対象そのものを立ち上がらせるための具体的なイメージの装置として使おうとしました。
ポーについてウィリアムズが強調する「言葉は図像(figures)である」「魂を語るために、古い言語から最も根源的な要素だけを持ち込む」というのは、まさに言葉を象徴やイメージのレベルに還元し、それを再構築して新しい表現を切り開く姿勢です。
・ポー → 「魂を表現するために言葉を再構築」
・ウィリアムズ → 「現実の対象を直接に映し出すために言葉を再構築」
ウィリアムズにとってポーは「アメリカ文学の先駆者」であると同時に、自分の文学的課題を映し返す 鏡 のような存在でもあったんですね。
葉っぱの坑夫の感想:ポーとウィリアムズ
ウィリアムズのこの評論集はアメリカの歴史にまつわるテーマを扱っている。その中にリンカーンをはじめとする人物評(ポートレイト)がいくつかあるが、作家で扱われているのはポーのみ。なぜポーだったのか。アメリカの近代文学の始まりにおいて重要な人物だった、国内で正当に評価されていなかった、という以外に、ウィリアムズの「事物そのものを映し出そうとする詩作」の方法と、ポーの「言葉を単なる慣用や記号としてではなく、目に見える形やイメージを持った存在」として扱う態度、そこに二人の共通する部分があったからではないか。また言葉の出発点において、感傷や慣習から解放する、という姿勢にも共通点が見られる。
葉っぱの坑夫:“formless mass”とは?
ChatGPTの解説
ここでいう “formless mass” は、ウィリアムズの解釈によるポーの文脈では、明確に構造化されていない言語の集まり、つまり
慣習的で手垢のついた言葉の連なり
形式と内容の調和がとれていない文章
思考や表現が曖昧で散漫な文体
といったものを指しています。ポーはその「曖昧で無秩序な塊」に対して、構築と秩序をもたらすことに注力した、ということです。
つまり “formless mass” は単なる言葉の乱雑さではなく、当時の文学的慣習や凡庸な表現による「意味の散乱した塊」というニュアンスが含まれます。
